帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

ブログ書く時間がないよ

本日のテーマ  自由帳
正念場を迎えてます

 

どーもー、おりばーです。

 

あのですね・・・・

 

 

 

 

むちゃくちゃ忙しい。

実は昨日、全授業日程が終了したのよ。

いよいよ大学院生としての生活も、残り僅かになってきたわけで。
寂しさが込み上げてくる。
このまま、一生勉強してたいなー、なんて贅沢なこと思ったり。

好きなことを学ぶ喜びって、スゴイ。

それを、高校や大学で出会わせてあげられない今の教育は、勿体ないと思う。

勉強が好き、なんて言ったら「ガリ勉」だとか、ネガティブに捉われがちだけど、好きなことを学ぶのって、もはやただの趣味だよ。

僕は、今の趣味をずーーーっと続けたいなーなんて。

まぁ現実はそんな甘くないんだけどさ。

 

授業は終わっても、ここからの一ヶ月がまさしく正念場。

論文と毎日向き合って、少しでも良いモノを完成させたい。

自分が納得の行くモノに仕上げたい。

まぁ、そんな状態なので、今後もしばらくは更新頻度が低くなりそう。
ストックしてある記事は15個くらいあるんだけど、勢いで書いたものも多いから論文が落ち着いてからまた普段のペースに戻せたらいいなと。

なんだかんだ、ブログ書くの好きだしね。
続けたいとは思っとります。

 

それはそうと、ブログから離れていれば離れているほど、ブログに戻って来づらくなるね。
なんなんだろう、この現象。
一週間も書かないでいると、書きたくても書けなくなってくる。

 

ブログの書き方。

忘れちまったよ。

 

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では、僕から以上~ってね。

日本人を避けることが留学をより良いものにする訳では無い

本日のテーマ  
孤高の留学生

 

どーもー、おりばーです。

 

留学先大学のクラブ、サークル、学生団体。
何かに所属して知り合いを作りたいな~と思うはず。

どこに入ろうか迷っている時に、とても不思議な現象が起きていることに気が付く。

香港クラブには香港出身の生徒が集まる。
コリアン・ソサエティには韓国出身の学生が集う。

でも、ジャパニーズクラブには日本人が一人も居ない

漫画やアニメなどの日本文化に興味のある学生が集っているものの、「日本人」は見当たらない。
これは、何も僕の通っている大学に限ったことではないと思う。

留学や渡航経験者なら誰しもが一度は考える、現地での日本人との関わり方

「日本人を避けて、英語漬けの生活をするんだ!」という目的意識が、必ずしも留学を良いものにするわけでは無いということについて、今日は一緒に考えていこう。

 

日本人と過ごす時間は勿体ない?

 

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「わざわざ留学してるのになんで日本人ばっかりと遊んでるの?」
語学留学や「遊学」と揶揄されるような留学に対する批判で良く耳にする言葉だ。

語学力の上達を目標としている留学ならば、日本語ばかり使っていては勿体ない。
自分から積極的に外国語を使わざるを得ない環境に飛び込め。
日本人と居ると日本語に甘えてしまう。
もっと自分を追い込め!!

おそらくそのような気持ちが結果として、「日本人を避ける」という心理に繋がるのだろう。

日本語に甘えたくない!
もっとがむしゃらに外国語を使いたい!
そう思うのなら、好きなだけ英語でも何でも使えばいいさ。
チャレンジする覚悟というのは確かに留学において貴重なスキルだ。

でも、「日本人を避ければ英語が上達する」わけではない
過酷な環境に身を置けば、自然と言語が上達するだなんて思わない方が良い。

practicemakesbetter.hatenablog.com


英語を上達させたければ英語を好きになろう
英語を話す人を好きになろう
そして、自分と同じように、そんな英語を学ぼうとしている者たちを好きになろう

忘れてはいけない。
留学先で出会う日本人は言語習得の邪魔をする敵なんかじゃないんだ。
同じ目標を持ち、そして似たような悩みを持つ大切な仲間だ。

別にずっと一緒に居る必要なんてない。
チャンスがあるときは積極的に自分の安心できるゾーンの外に出てゆけば良い。
でも、いざと言う時に戻って来れる安心できる場所も、留学においては必要なものさ。

 

排他的になることにメリットなんてない

 

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日本人と一緒に居たくない。
日本人と関わりたくない。
日本語を使いたくない。

そうやって排他的になることは、結果として自らの交流の機会を削ってしまっている。

日本人との交流の時間は別に無駄じゃない。
そこから広がる人脈で思わぬ人や交流の場に出会えるかもしれない。

自分を甘やかしたくないというその気持ちは立派だ。
どんどん自分の意志でチャンスをつかんでゆけばいい。

でも、折角そんな立派な志を持っているのなら、「日本人を避ける」なんて極端なことにエネルギーを無駄に使わないで

自分を追い込んで、追い詰めて、逃げ道を奪う。
過酷な環境を自分で作り上げて、その「環境」に任せて自分を成長させようとする。

「自分を追い込めること」が強さなんじゃない。
「その先の目標が見えてる」ことが大事なんだと僕は思う。

何のための留学か。
何のために言語を学ぶのか。
それがハッキリわかっているのなら、「環境」に任せなくても自分の力で成長できる。

異文化や他言語の理解を深める為の留学を、自国の文化と言語の否定でしか身につけられないのだとしたら、それは凄く、もの凄く勿体ないことだ。

留学は何も外のモノを学ぶことだけじゃない。
知らなかった世界に触れることで、自分の世界を広め、そして再認識することだ。

外国の文化だって、新しい言語だって身につけてやる!
同じ国から目標を同じくして来ている人たちのことだって、ドーンと受け入れてやる!
それくらいの寛容さを、是非とも持って欲しいものだ。

 

なに人であれ、気が合わない人と関わる暇なんてない

 

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留学は時間制限つきの滞在。

肝心なのは「日本人を避けること」じゃなくて「気が合わない人を避けること」だと僕は思う。

日本人であれ、なに人であれ、気が合わない人と無駄にしている時間なんてないはずだ。
そんな人に「あなた」の貴重な時間を浪費されるのはあまりに勿体ない。

日本人の集団と一緒に居て楽しいけど、なんだか「日本語ばっかりしゃべってる」という罪悪感があるのなら、思い切って日本人同士で英語で話してみるのもアリだ。

全員、あなたと同じ学習者なんだから、互いに助け合えばいい。
一人では行く勇気がないイベントやパーティーも、日本人の友達と一緒なら行きやすい。

そうやって互いを頼りながら社交の場を広げればいいんじゃないかな?

 

結局は至極単純な話だと思うよ。

一緒に居て楽しく思えない人とは、一緒に居るべきではない。

たったそれだけのこと。

それは日本人だろうと、なに人だろうと関係ない。
気が合わない人と過ごしてる暇なんて、留学には無いんだ。

 

結論!日本人嫌いになっちゃあ意味が無い

 

留学に行くモチベーションなんて、人それぞれ。
そりゃ志が「あなた」とは違う人だって居るだろう。

留学がより身近な選択肢になっている現代において、今までの「留学」では考えられなかったほどに、留学先で日本語・日本文化に漬かっていられるようになったのも事実。

日本の友達とスカイプする。
ユーチューブで日本のお笑いを見る。
アジアンスーパーに言って日本食を食べる。

でも、そういう海外で触れられる「日本」も、とっても大事なものさ。

留学で寂しくなったとき。
日本語が恋しくなったとき。
人間関係で辛いことを経験したとき。

そういう時にとても力になってくれる。

 

日本人を避け、自分を追い込むことでしか何かを得られないと思うのなら、それは間違いだ。

留学は「外」の世界を知ることで自分の「内」なる世界を再認識・再定義する為の旅

外国を知りたいからと言って、日本を否定しないといけないような狭い許容範囲なのなら、それは成長じゃなくむしろ退化しているとさえ言えるんじゃないかな。

 

折角日本を飛び出して羽ばたきに来たのなら「日本人を拒む」という別の殻に閉じこもらないで。

 

どんとこい!

その気持ちがあれば留学はもっと楽しくなる。

 

では、僕から以上っ!!

 

※こちらの関連記事もどーぞ!※

practicemakesbetter.hatenablog.com

 

「仕事で英語を活かす」は職場の「英語担当」になることではない

本日のテーマ  
「ほら、外人だよ、英語使えよ」

 

 

どーもー、おりばーです。

「英語を活かせる仕事に就きたい」
「英語を活かせるバイトをしたい」

そう思う人って結構多いんじゃないかな?

英語を日常的に使うことで、より上達させたいという人。
英語が自分の強みだから活かしたいという人。
英語を忘れないために使い続けたいという人。

理由は個々人によって違うだろう。

求人サイトでも「英語が使える!」という風に宣伝されているものが多い。

英語を活かしたいと思った僕は、大学時代にそんなバイトを探して掛け持ちしていたんだけど、どの職場においても、「英語を活かせなかった」という話をしたいなと。

そして、そんな経験を参考に、「英語を活かせる仕事・職場」とは何かについて考えてみよう!

 

英語を使うと白い目で見られた予備校バイト

 

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英語を活かしたい。
教師になりたい。

そう思った僕は、迷わず「予備校の英語講師」のバイトを始めた。

僕が入ったのは地元の小さなマイナー予備校。
他の講師は学生のアルバイトとフリーターが数名。

よほど英語講師が少なかったのか、高校英語の大半を僕が担当することになった。

生徒とも打ち解け、生徒の英語の成績も着実に伸びていったため、僕は充実感を覚え始めていた。

でも、ひとつ、とても気になることがあった。

英語を使うたびに周囲の講師から白い目で見られるのだ。

勘違いしてほしくないけど、僕は別に不必要に英語を見せびらかしてた訳じゃない。
日本での生活が長い僕は、無闇に英語を人前で話していけないことくらい理解している。
(その暗黙のルールが良いか悪いかは別にして、もう慣れた)

でも、英語を教える以上、英語を使わないといけない場面が多い。
というより、英語を使わずに教えることなんて出来ない。
わざと発音を崩したら、間違った発音を生徒に教えることになる。

なのに、英語を発話する度に「調子に乗りやがって」という目線が他講師から飛んでくる。

「英語を使うことに対して気を使わなきゃいけない」
その時点でここは「英語が活かせる職場」ではなかったのだ

英語を使うことで変な目で見られる。
英語を使うと「カッコつけ」だと思われる。
英語を必要最低限のとき以外、使わないようにしなくてはならない

そんな仕事は、「英語を活かす仕事」なんかじゃない。
ただの、「たまに英語を求められる仕事」だ。

「おりばー君、ここの発音ってこれで合ってる?」

僕は、同僚から英語を極稀に求められる、「便利な英語屋」でしかなかったのだ。

 

「外人来たぞ、お前話して来い」のホテルバイト

 

友人から紹介され、ほぼ同時進行で始めたのが、ホテルでの接客バイトだった。

派遣会社を通し、シフト制で各地のホテルにて接客や受付をする。
外国の人が利用するホテルや、外国の人が利用するパーティーホール。
英語が必要なイベントには、派遣会社側から結構お呼びがかかっていた。

英語を使える!
英語を活かせる!

そう思ってホテルに向かうと、現実はそんなに優しいものではなかった。

英語での電話がきたら受付に呼び出されて電話対応。
外国の方が来たら呼び出されて通訳兼案内。

確かに、英語を使える機会はそこそこ多かった。
役に立っている実感もあったから、そこまで嫌な気分でもなかった。
いざという時に「必要とされている」という感覚が嬉しいと思えることもあった。

でも、
「おい、外人さんだぞ。お前が対応して来い。」
と言われて駆り出されるのは、決していい気分ではなかった。

とりあえず「英語」が関係する仕事は全部僕に回せばいい
そんな風に上司から思われていたのだろう。

結局、この職場でも「必要最低限の時だけ英語を求められる」という立場は変わらなかった。

派遣だから仕方ないけど、僕は都合のよい「使い捨ての通訳」でしかなかった。

 

英語を「活かせる」職場とは?

 

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僕はどちらの職場でも英語を使ってはいた。
英語が必要とされる時に活躍も出来た。
そういう意味では、英語を「使う」仕事をしていたのかもしれない。

でも、僕が思う「英語が活かせる職場」は、「英語が存在して当たり前の職場」のこと

別にそれは社内の公用語が英語ということではない。
全員が英語でやり取りをしている職場ということではない。

どちらかと言うと、
英語を使う人に対する理解のある職場。
英語という言語に対して偏見や過度な抵抗感のない職場。
英語というツールを使える人が自分一人だけじゃない職場。

英語関連の仕事は全部この人に回せ!
そんな風に「英語担当」にされるような職場は、英語を「活かせる」場所とは言えない。

英語でのビジネスメールは全部あなたが。
外国人の来訪者の対応は全部あなたが。
外国の取引先との会食での通訳はあなたが。

確かに、役に立つことは出来る。
そして、頼られているという気持ちになることも出来る。

でも、「英語」と付く仕事が全部回ってくるような職場で、あなたはあなたの思うように英語を「活かせて」いるのだろうか?

 

僕は仕事で英語を「活かしたい」。

英語をたまに使うとかではない。
困ったときに頼りになる「歩く辞書」になるつもりもない。
外国人が来たときに使える「お手軽通訳」になるつもりもない。

英語を自分磨きのスキルとしてじゃなくて、仕事に必要なツールとして使いたい。
そして、そんなツールを使うことに対して引け目を感じるような職場には居たくない。

英語を「使う」ことが目的じゃないんだ。

そのスキルをただ持っているだけで評価されるような職場に、僕は就きたくない。

結論!職場の「英語担当」なんてもう嫌だ!

 

英語は好きさ。
いや、大好きさ。

でも、「英語が出来る」という評価だけで生きてゆけるような仕事にやりがいなんてない。

英語が出来たとして、それを仕事でどう「活かす」のか?
その活用の場を与えてくれる職場に、僕は就きたいな。

英語で行われている会議のメモを英語で取ったら上司にビックリされた
なんて話を同期から聞いて、なんともやりきれない気持ちになっている。 

ボストンキャリアフォーラムとかで留学生や帰国子女を対象に求人を出しながら、入社した結果一切「英語を使わせない」空気の会社を、僕は許せない。

まぁ、そんなケースばかりじゃないと信じたいけどね・・・。

 

あ、最後に愚痴を言うとしたら。

英語を「活かせる」仕事を提供するわけでもないのに、求人に「TOEIC700点」とか適当に要件付けるの、止めてもらえます?

 

では、僕から以上っ!!

 

「定年まで働く」のは当たり前のことなのか?

本日のテーマ  
人生の半分は「仕事」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

今日は英語や文化じゃなくて、教育について少し話したいなと。

中高の進路指導、大学でのキャリア教育において、職業選択の重要性を強く訴えることが多い。

どの大学に行くのか、どの学部で学ぶのか。
何の職業を選ぶのか、どの会社で働くのか。
それらの選択はすべて繋がっていて、人生の中でも1・2位を争う大きな決断となるだろう。

「20歳そこらで選んだ道によって、定年の60歳~65歳までの人生が決まる!!」
「だから進路選択・就職先は本当に慎重に選べ!!」

僕の通っていた高校の進路指導の教師がいつも言っていた言葉。

でも僕はふと思った。

労働の形がどんどん多様化して、それに伴い「生き方」すら日々変化している現代において、「定年まで働く」ということを当然の事のように扱っていいのだろうか?

もちろん、定年まで働くことは義務ではない。
65歳定年も、「希望する人は65歳まで雇用を義務化」という言わば企業側の義務だ。
労働者が60~65歳まで働きゃなきゃいけないという話ではない。

でも、僕が受けた教育の影響なのだろうか。
頭のどこかで「まぁ60過ぎまで働くよな」と何となく受け入れてしまっている
その発想を漠然と持っている人は僕だけじゃないと思う。

 

今日は、そんな自分へ言い聞かせる意味も込めて、「定年まで働く」以外の道を示す進路指導・キャリア教育の重要性について考えてみたいと思う。

 

 

進路選択という「人生の大きな決断」

 

よく言われる話からはじめよう。

進路選択・キャリア選択がなぜ大事なのかについて話すこちらの3分のビデオを見てほしい。

youtu.be

まぁ言っていることを要約すると、

  • 20歳前後での選択が65歳までの人生を決める!
  • だから進路・仕事の選択は慎重に!
  • 自分の好きなことに捧げる人生にしよう!

まぁドラマチックな音楽で盛り上げつつ内容は至って普通のもの。
ようは、好きなことを仕事にしよう、という話だ。

確かにこのように図解で示されると、ハッとする生徒もいるかも知れない。
高校、大学での選択が、自分の人生のこんな大部分を占めることになる。

考えてみたら結構恐ろしい話だ。
好きなこと、自分のパッションがまだ見つかってない人はどうすればいいのか?
仕事を始めて2~3年で、仕事が自分に合わないと苦しむ人はどうすればいいのか?
このひとつの決断が自分のこの先の40年を決めるとなると、かなりのプレッシャーだ。

高校・大学生の時期に感じている自分の「興味」が実際の職業として40年も継続する保証なんてないし、自分が今まで生きてきた倍以上の期間を一つのモノに捧げる勇気なんて、冷静に考えれば持てるわけがない。

 

仕事のあり方、生き方はどんどん多様化している

 

でも考えてみると、別に定年まで何かひとつの職業・職場に縛られるわけではない
同じ職種に就きながら職場を変えることも出来る。
なんなら職業そのものを変えることも可能だ。
40・50歳になってから大学院に行ってもう一度「学生」になることもできる。

グローバリゼーションに関する著書を多く出している僕の教授曰く、

"Jobs", in the way we think of them, will probably last for less than 10-20 years. Not that robots will take over. The whole system and meaning of "labour" is changing.


僕らが考える従来の意味での「仕事」はせいぜい10~20年そこらで消滅するだろう。ロボットに仕事を奪われる、というわけじゃない。社会が変わっていくことで、求められる「労働」の仕組みも意味もどんどん変わっているんだ。


今の時代において、働き方・お金の稼ぎ方なんて一つじゃない。

在宅でできる仕事も増えていれば、パソコン一つで出来る仕事も増えている。
ブログなんてまさしくそうだ。
企業として、じゃなくて個人としての情報発信でお金を稼げる。
従来の意味でのオフィスや工場を必要とする「労働」とはだいぶ変わってきている。

ユーチューブでの有名人なども同様だ。
大手のテレビ局がやっているような番組企画、エンタメ作りを個人やチームで行っている。
十数年前からしたら、考えられないような仕事が今は次々と出てきている。

生き方だってそうだ。
結婚しない、子どもを産まない「若者」がまるで軟弱者のように扱われている
恋愛下手、「コミュ障」、草食系。

確かに一世代上の人からしたら信じられないことなのかもしれない。
でも、僕らは生まれた時代も、これから歩まなきゃいけない時代も全く違う。
生き方が違うからと言って、それが「不幸」だとどうして思うのだろうか。

「人生の先輩」から学ぶことは確かに大事だ。
でも、国際社会も日本国内も常に変化している以上、僕らの「生きる知恵」や「常識」がいつまで通用するかなんて誰にもわからない。

2017年に生まれた子が歩む道は、僕らには未知数なんだ。
同じ時代に生まれて、同じ環境に生まれたわけでもない以上、いつだって子どもの未来は「前例がない」ということを忘れてはならない。

 

「これまでの時代」のために育てても意味がない

 

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教育において大事なことはなにか。

それは教師たちの歩んできた「これまでの社会」と子どもたちが歩む「これからの社会」が違うということをしっかりと大人側が理解することじゃないだろうか。

自分たちの時代で上手く生きてゆける子を育てる。
それではダメだということだ。

その子たち自身が今後歩んでゆく、未知数で、未体験の時代に備えなくてはならない。

それは簡単なことではないと思う。

でも、大人側が自らの発想を変えることは決して難しいことではない

働き方も、生き方も多様化している。
自分たちの時代では考えられなかったようなことが起きている。
それらを否定したところで意味がないことを分かるべきだ。

ブログで稼ぐなんて、「ちゃんとした職業」じゃない?
ユーチューブで稼ぐなんて、ただの遊びで、仕事とは認めない?

時代は常に変化して行っているのに、こういう「従来の労働」という枠からはみ出た稼ぎ方をする人を、多くの人が叩き、批判する。
では、朝決まった時間に毎日オフィスに行って、結局は自宅で済む仕事を、考え方も価値観も違う人たちとデスクをつき合わせてこなすことが、果たして本当に「ちゃんとした仕事」なのか?

在宅で出来る仕事を、簡単な仕事、楽な仕事だと決め付けてはいけない。
ましてや、「ちゃんとした仕事」じゃないと決め付けるのはナンセンスだ。

 

「定年までの人生を後悔させない進路指導」ではいけない

 

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働き方も生き方も変化している時代の中で、「定年まで働く」を普通のことにすべきではない。

これまでの進路指導・キャリア教育の多くは、「定年までの40年間を後悔しないように、入り口時点での選択をしっかり考えさせる」というものだった。
でも、今後はそれだけではいけないと思う。
どうして「定年まで働く」ありきの教育なのか?

僕が思う、これからの進路指導・キャリア教育。
それは「卒業後に歩める様々な進路の可能性を提示する」ものであるべきだ。

在宅での仕事も可能性だ。
主婦や主夫も可能性だ。
結婚しないことだって、家族を持たない事だって可能性だ。
定年まで働きたいと思う程の職に出会えたのなら、それも当然ひとつの可能性だ。

大企業で働いて、定年退職または寿退社して、余生を過ごす。
そんな考え方に縛られる必要なんて、一切ない。

好きなことをやるタイミングに、決まりや期限なんてない。

20代で仕事をやめたら軟弱者か?
それが自分に合わないと思ったらどうしようとその人個人の自由だろう。

大学卒業までにパッションを見つけなきゃいけないのか?
30、40歳で好きなことが新しく出てきて、それを追うことの何が悪い。

「従来」という発想に縛られ、60歳まで縛られた人生だと思わせるような教育をすべきではない。
「少しでも楽しいと思える40年間にしよう!」という発想からいい加減離れよう。

 

結論!"Work to live, not live to work"

 

僕らは生きるために働くのであって、働くために生きているわけじゃない。

そりゃ好きなことを仕事に出来たら幸せな人もいるだろう。
でも、「好き」が仕事になると、途端に辛くなることだってある。
好きゆえに際限なく頑張りすぎて、燃え尽きてしまうこともある。

 

"Time is precious" (「時間」とは貴重なものだ)

冒頭での YouTube の動画のメッセージ自体は正しいだろう。
でも、「時間」が貴重なのは、20代での決断がその先の40年を決めるからではない。

「時間」が貴重なのは、それは「あなた」だけのものだからだ
誰かが「あなた」の代わりに使うことなんて出来ない。
「あなたの時間」を「あなた」がどう使おうが、それは個人の自由。

だったら「60過ぎまで働いて」、と当然のように人生設計をせずに、今の「あなた」がやりたいことをもっと考えてもいいんじゃないだろうか?

40年も縛られるという発想を捨てれば、失敗や後悔をする時間なんて幾らでもあることが分かる。

「やればよかったな」「やりたかったな」を「余生」と呼ばれる時まで温存する必要なんてない。

「従来」の発想や意見に縛られるな。
だって「これから」歩む人生は「これまで」のものとはまるで違うんだから。

そして人を導き、指導する者は自分たちの「これまで」に囚われてはいけない。
その子たちの「これから」を一緒に考えてゆける人になろう。

 

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photo credit: Luca Serazzi Time via photopin (license)

"Time IS precious"
(「時間」とは本当に貴重なものだ)

 

 

では、僕から以上っ!!

「アジア人」という言葉で差別を考えていいのだろうか?

本日のテーマ  
あじあじん

 

どーもー、おりばーです。

先日、フェイスブック上で知人がシェアしていた記事がとても気になった。

toyokeizai.net

今日はこの記事を軸にして、
「アジア人」という言葉を使うことの問題点
そして差別を訴える為に他の差別を生み出す危険性について一緒に考えて見よう。

 

記事の内容について

 

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ユナイテッド航空における「アジア人」男性の引きずりおろし事件を起点に、米国における「アジア人」への人種差別について丁寧にまとめてある。
興味深い記事なので、是非読んでみてね。

「アジア系」の見た目に生まれた人が遭遇する差別については僕も同感。
#thisis2016についての記事でも似たテーマのことを書いた。

practicemakesbetter.hatenablog.com
"Asians" とひとくくりにされて、バカにされる。
見た目で判断されて、偏見やステレオタイプを押し付けられる。

筆者の「アジア人は結局、米国で差別されているのか」という問い。
それに対する僕個人としての答えは、「はい」。

差別を体験したことなんて数えきれないほどあるし、現在の留学先でも似たようなものだ。
僕が「アジア系」の見た目で無くなることなんて一生ない。
何年英語圏に住もうが、第一印象では "Asian" なのは一生変わらない。

 

「アジア人」という言葉

 

内容には賛同するけど、記事を読んでいる中で物凄く気になったことがある。

人種について問題提起する一方で、「アジア人」という言葉については特に説明がない

文化も慣習もまったく違うバックグラウンドであっても、「アジア系」はアメリカでは一くくりだ。

とアメリカ社会における大雑把なカテゴリー化を批判しつつも、筆者は文中で当然のように「アジア人への差別が~」と述べている。
差別の現状を訴えている一方で、筆者自身もその言葉の枠組みに囚われてしまっている。

アメリカには、「マイクロアグレッション」という言葉がある。
これは自分とは異なる人種・文化背景の相手に対して、発言者が相手を傷つける意図なく、発した言葉の中に人種や文化に対する偏見や差別が含んでしまうことによって起こる「些細な攻撃」を指す。

筆者の記事も一種のマイクロアグレッションになりかねない。
つまり、筆者は悪気があるわけでは全くない。
でも、文章の組み立て方、論じ方がすでに「アジア人」という枠に頼ってしまっている。
差別を訴える過程で、自らもそのカテゴリー化をしてしまっているのだ。

日本
中国
韓国
インド
マレーシア
シンガポール
ネパール
ベトナム
モンゴル
タイ
インドネシア

などなど、アジアと一言で言っても様々。

1つの国の中でさえ文化や慣習が地域や地方でまるで異なるのに。
これらのあらゆる国の人を全て「アジア人」にまとめてしまう。
全然違う人たちのことを、まるで同じであるかのように扱ってしまう。

それは、僕自身も含め、多くの人が無意識にやってしまっていること。

「アジア人への差別が~」と言う前に、その「アジア人」に含まれる僕ら自身が、いま一度その言葉の意味を考えてみた方が良いのかもしれない。

悪意のないマイクロアグレッションのようなものであれ、直球な差別的発言であれ。
差別が存在する事実を否定するつもりは一切ない。

でも、そんな差別の「被害者」という立場で話をする前に、自分たちの使っている言葉にももっと注意を向けるべきではないだろうか?

「アジア人」と何の疑いもなく使うことで、自らそのカテゴリーを受け入れてしまっている。
僕ら自身が差別を再生産してしまっている。

 

差別を訴える過程で他の差別を生み出すな!

 

また同様に。

差別への声を上げる過程で、他のグループへの差別を生み出してはならない

僕はこの記事のYahoo!ニュース版のコメント欄を見て、心底ガッカリしている。

headlines.yahoo.co.jp

「白人の国では差別が多いね」

「白人はすぐ差別するので嫌いです」

※あくまでも記事本文ではなくYahoo!ニュースのコメント欄の内容。

などと言ったコメントが(4月21日現在)多くの共感を集めているようだ。

人種差別とは、個人を見ずに、まるで全員に共通する特徴があるように決めつけること。
偏見で人種・民族全体を判断して、差別してしまうこと。

ならば、これらのコメントは人種差別そのものではないか。

「アジア人」への迫害や差別を訴える過程で、「白人」への差別を生み出している
これでは全く意味が無い上に、健全な議論になるはずがない。

 

「アジア人はみんな〇〇だ」
という差別的な扱いが気に入らないからと言って、
「白人はみんな〇〇だ」
なんて言い返していたら意味なんてないよ!

「アメリカ人ってレイシストばっかりだよね」
という発言がそもそもレイシズム(人種差別)だという事に気づくべきだ。

 

見た目の違いは無くならないけれど


差別に立ち向かうことは大切なこと。
SNSやデモ運動などを通して、人々の人種への考え方もどんどん敏感になっている。
だからこそ、「黒人」「白人」「アジア人」という発想をそろそろ辞めるべきではないだろうか?

そこに何の違いもない!なんて話では無い
どれだけ人種差別に反対したとしても、見た目の「違い」があることは認めざるを得ない

大事なのは、その見た目に対して特徴や価値を関連づけないことだ。

「黒人は低所得者や犯罪者が多い。」
「白人は人種への意識が低い特権階級だ。」
「アジア人は結局は白人には敵わない。」

そういう発想を辞めなければならない。

見た目の違いは確かに存在する。
でも、その「見た目」に特定の価値や優劣を与えるのは僕らの社会・メディア・教育。
見た目の違いは見たら明らか。
でも差別は学習されてゆくもの
「黒人」に犯罪者が多いと思うのも、「アジア人」が「白人」より劣等だと思うのも。
どれも生まれた時から備わっている感情ではない。
学び、受け継がれていくものだ。

 

だったら、「アジア人」という言葉を見直す時なのではないだろうか?
「アジア人」というカテゴリーに属する僕ら自身がその言葉を無条件に使ってしまっている、その現状を変える時ではないだろうか?

「アジア人」なんて人種はないんだ。
「アジアン」なんて言語は存在しないし、「アジア」全体に共通している文化もない。

差別と闘う過程で、自ら差別を再生産してはいけない。
ましてや、他の差別を生み出してもいけないんだ。

 

結論!差別を訴えるなら自らの言葉にも注意しよう!


東洋経済オンラインの記事の内容が間違っている!と言いたいんじゃないんだ。

大事な点を話題に上げているし、良くまとまっていると思う。
でも「アジア人」という言葉を平然と受け入れてしまっていては、僕らは差別され続けるだろう。

差別と闘ってゆくのならば、まずは自分たちの使う言葉から見直してもいいんじゃないかなって。
そう、思ったのでした。

そして、アメリカでの差別うんぬんよりも、「白人はレイシストだ」なんてナンセンスな意見が共感を集めている現状の方をもっと問題視すべきだと思うんだけどな~。

 

では、僕から以上っ!!

大学図書館内の飲食について納得がいかないこと

本日のテーマ  自由帳
図書館と飲食

 

どーもー、おりばーです。

留学先は現在イースター休暇の真っ最中。
大学院の図書館も閉まってて研究のスイッチがまーったく入らない。

 

というわけで、今日はただの雑記。
あんまり雑記を書かないけど、ホリデー脳でマジメな記事を書く気力が無いもので。
読者の皆さんお許しくださいませませ。

 

「図書館が閉まっている」というわけで、今日のテーマは「図書館」

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大学図書館について、納得いかないことがある。
それは、図書館内における「飲食」について。

僕が通っている大学院の図書館における飲食のルールはこのようになってる。 

基本的には飲食禁止。例外として以下のものを認める。

① 大きな音を立てないもの
② 匂いが強くないもの

水筒のお水を飲むくらいならばOK。
チョコレートをササっと口に入れるのもまぁOK。 

バリバリと音を立ててポテトチップスを食べるのはダメ。
ピザなどの匂いのするものを食べるのも当然ダメ。

単純明快で、わかりやすいルールだ。

まぁ図書館という場所だから基本的に飲食禁止なのは当然だろう。
むしろ図書館内で食事を取ろうなんて思う方がおかしいと思う。
けど、こっちの学生さんは結構ランチボックスを広げてパクパク食べている。

サンドイッチだったり、夕飯の残り物っぽいものだったり。

でも、基本的には音の出ないもの、匂いのしないもの、というルールに沿った範囲内で、申し訳なさそうにコソコソ食べてる。

だから別になんとも思わない。

食べる間も惜しんで勉強しなきゃいけないという気持ちは分かるし、応援したくなる。

僕も研究に行き詰った時は、チョコレートとかグミをコッソリ食べる。
もちろん、申し訳なさそうに、コソコソと。

 

問題なのが、「リンゴ」だ。


僕の留学先は、お洒落さんな学生が多い地域で、

ベジタリアン
ヴィーガン
マクロビアン

などの、食にこだわりを持っている人がとにかく多い。
アレルギーや体質のせいではなく、信条やダイエットとして自主的にやっている人ばかり。
オーガニックという言葉が妄信的に崇拝され、最先端のお洒落フードに目がない。
(その割には肥満体系の方が非常に多いんだけどね)

そういう人は、
ジャンクフードなんて!
ファストフードなんて!
という感情がとても強く、一緒に食事をするだけでも気を使うことが多くて疲れる。

以前住んでいたシェアハウスの同居人もヴィーガンで、もう気を使いっぱなし。

そんなお洒落さん御用達のおやつが「リンゴ」だ。

そりゃもう、まるかじり。
皮ごとバクっと。

そしてこのまるかじりってのが、ものすごい音なんだ。

パク?
シャリ?

そんなもんじゃない。
新鮮なリンゴを、皮ごとバクっと食べたときの音はそんなかわいいもんじゃない。

 

 

ガッポン!
ボッキュン!!
ガップリン!!!

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肉片がエグり取られるようなおぞましい音。
生命が散ってゆく音。

そしてまだ新鮮な果肉を、歯ですり潰してゆく。

ガシュ!ガシュ!
ゴリュ!ゴリュ!

おぞましい音を立てて、リンゴは咀嚼されてゆく。

普段ならばそこまで気にならない音だろう。
でも、図書館の静寂の中では、この音がまるで道路工事のように響き渡る。

うるさい。
うるさすぎる。

  

そんな音の大きさを、百歩譲って許したとして、それでも納得いかないのが・・・
彼ら彼女らの「ドヤ顔」だ。

コンクリートを掘削するドリルのような咀嚼音を響かせながら、奴らは清々しい顔をする。

「俺、食べるものにはめっちゃ気を使ってるからさっ!」
「私はオーガニックなものしか受け付けないわっ!」

という言葉が、顔から滲み出ているようだ。

チョコレートやキャンディーの包み紙の音を物凄く申し訳なさそうに立て、コッソリと食べている学生たちをまるで見下すかのように。
食べているものの栄養価が高いからといって、優越感に浸っている

 

ぜんっぜん納得がいかない!!

 

大学図書館での飲食で大事なのは、音を立てないことと、匂いを出さないこと。
そして何より、堂々としないことだと思う。

原則的には飲食禁止なのだから、仮に小腹が空いたのならパパっと済ませてよ。
人目に付かない形でやってくれよ。
体裁だけでもいいから、せめて申し訳なさそうな素振りをしてくれよ

それを、スナック菓子じゃなくて、フルーツを食べているからという理由で堂々とされる。
優越感に浸った表情で音を立てて、自らの存在を図書館のフロア中に知らしめる。

 

果汁はじけてますけど!?
PCの画面にめっちゃ飛んでますけど!?
本にもかかっちゃいますけど!?

 

栄養価の問題じゃないだろ!!

 

だったら明日から真横でオールブランでもグラノーラでも食べてやろうじゃんか!
ボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリ!!!

 

あーーーー!納得がいかないーーーーー!!

 

 

**************** 

という記事を、先週書き溜めていた。
まさに真横の席でリンゴを食べている人が居てムカついたから。

こういう下らないこと書いてるから、研究が進まないんだよなぁ・・・。

下書きに書き溜めてあるいろいろな雑記も、たまには公開してみようかな。
臆病者なので読者さんの反応を見て考えるとしよう。
そうしよう。


では、僕から以上っ!!

努力を続ければいつか英語を「マスター」できるという勘違い

本日のテーマ
英語マスターに俺はなる!


どーもー、おりばーです。

 

「英語を最短でマスターする勉強法」
「たった一年で英語をマスターできる10のコツ」
「英語嫌いの僕が、一ヶ月で完璧な英語を身につけた方法」

どれも目を引くタイトル。
いったいどんな極意があるんだ!?どんな秘密があるんだ!?
多くの人が食いつくことだろう。

(結局は「沢山努力しろ」という内容のものが多い気がするけど・・・)

英語の学習法、独自の勉強法を紹介すること自体は素晴らしいと思う。
他の学習者を見習って、自分も頑張ろ!という気持ちになれるならそれで良い。

 

でも、僕にはずーーーっと気になってることがある。

 

英語を「極める」「マスターする」「完璧にする」って、可能なのだろうか?
どこまでいけば、僕は「完璧な英語」を身に着けたことになるのだろうか?


多くの第二言語学習者が無意識に目標にしてしまう「完璧」。

実はその目標、どう頑張っても達成できない。
どう頑張っても達成できない目標は、それだけで学習意欲を削いでゆく。
そのトラップに他の人が落ちてしまわぬように、今日は一緒に考えてみよう。


「ネイティブのような完璧な英語を目指さなくて良い」というのもある種同罪なので注意!

(完璧主義さえ止めればすぐに上達する!という記事ではないのであしからず。)

 

 

あなたの日本語は完璧ですか? 

 

英語の話をする前に、日本語について考えてみよう。

「あなた」の日本語は完璧ですか?
知らない単語なんてない、読めない漢字なんてない、と言い切れるだろうか?
試しにこれらの単語の意味が分かるか試してみよう! 

第1問!

最近接発達領域
板書計画
校務分掌

第2問!

曖気
移乗動作

第3問!

三角持ち合い
持ち合い解消
無配転落

第4問!

まじメンディー
まじTBS
イチキタ


どうだったかな?

第1問は言語学や教育学を学んだ人にはおなじみの言葉。
第2問は僕が介護体験を行ったときに覚えた介護現場における言葉。
第3問は適当に金融関係でググッた言葉。(一つもわからん)
第4問は若い読者ならわかるかな?(一つもわからん)

人によっては、知ってて当然というものだったのではないかな?

 

正解者に拍手!よくできました!よくできました!(某番組風)

 

専門用語ばっかで、こんなの分からなくて当然?

いやいや。
その分野の人ならば知っていて当然のものばかり。
でもまぁ、ちょっと意地悪な問題だったことは認めよう。

 

何が言いたいのかというと、

母語においても、「完璧」なんてありえない。
ただそれだけのこと。

その理屈でいえば、
「ネイティブ」の英語だって、「完璧」にはなれないんだ。

知らない単語なんてない!
読めない単語なんてない!
僕の言語は完璧だ!

そんなことは、例え母語であっても叶わない。

「若者言葉」と呼ばれるもののように、新しい言葉もどんどん生まれている。
それらを日本語じゃないと言い切ってしまって良いのだろうか?

「ネイティブ」の今時の言い回しとかを凄く気にする学習者が多いのに、日本語の若者言葉は認めないというのはいかがなものだろう。

 

誰だって部分的に流暢

 

僕は新聞の経済欄を読んでもぜんぜん言葉の意味が分からない。
一方で、言語教育に関する学術論文の言葉はすらすら読める。

プログラマーが入院したら、病院で飛び交っている単語の意味なんて分からないだろう。
同じように、医者がプログラミングを始めようとしたら、知らない単語だらけだ。

IQの問題じゃない。

僕らの言語というのは、何時だって「完璧」ではないんだ。
でも、完璧じゃないからといって、日常生活に支障が出るわけではないよね。

会話していて知らない単語が出れば、聞けば良い。
「分からない」ものに出会った時に、恥だと思わずその場でしっかり学習する。
そうすれば「分からない」は「分かる」に変わる。

日々新しい言葉が生まれ、古い言葉は「死語」として忘れられる。
使う人たちによって、言語は常に代謝を繰り返している
使っている人たちが生きている社会が常に変化しているのだから、当然のこと。

「既読無視」
イクメン
ブラック企業

数十年前なら誰も使いもしなかった言葉。
今の時代に必要だから生まれてきた言葉。

 

言語とは何時だって「不完全」で良いんだ。

「完璧」や「極み」という到達点なんて、言語には端から存在しない

 

もちろん、本当に全ての単語を覚える!という意味で「マスター」とか「完璧」を使っているわけではないのは重々承知だ。

でも、そういう言葉を口にしていると、無意識にでも到達点を意識してしまう。

「僕の英語なんて、まだまだ完璧からは程遠い」
「絶対に間違えたくない」

存在もしない「完璧」を目指してしまうと、自分で自分の学習を苦しいものにしてしまう。

 

英語を完璧にするって言わないで・・・

 

ただの言葉遊びだと言われてしまうだろう。

でも、僕は英語を「完璧にする」って言って欲しくない。

英語に限らず、言語学習はプロセスであって、「道」なんだ。
自分が学びたいように学び、自分が使いたい言葉を使う。
自分に必要だと思う範囲で勉強すれば良い。
何も全ての言葉を覚えようとする必要なんて一切ない。

本当に大事なのは、
単語帳をいくつ読破したのかではない。
文章を何分で読めるようになるかではない。
TOEICで何点取れるかではない。

本当に大事なのは、自分がその言語を学びたいと思った理由。

旅行で使いたい。
あの人と話せるようになりたい。
仕事の会議で使えるようになりたい。

その理由こそが言語学習の目標であって、自分が目指すべきもの。
言語学習の目標なんて、人それぞれ違っていいんだ。

言語学習に終わりはない。
ここまでいったら「完璧」なんてラインがない。
だったら最初から100%になろうなんて思わなければいい。

 

覚えておいて欲しい。

言語学習は、常に+1をしてゆく作業。

昨日までの自分に、これまでの自分に少しずつ足してゆく。

その作業に終わりはない。
終わりがあるとしたら、それは自分で「もういいや」と思った瞬間。

俺は英語をマスターした!という人は、もう努力することを辞めてしまった人。
英語を極めた!という人は、もうこれ以上の学習に意味を感じなくなった人。

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"完璧とは、停滞である"

そういう意味では、言語学習に「完璧」はなくとも、「満足」という終着点はあるかもしれない。

でも、興味があり続ける限り言語学習に終わりはない。
コミュニケーションで使いたいと思う限り、話し相手や時代が常に変化する以上、英語が「完璧」になることなんてない。

 

だから焦らず、一歩ずつ進んでゆけば良い。

「完璧」じゃなくて、昨日+1の自分を目指そう!

 

結論!英語は一生「完璧」にならない! 

 

言語を極めるとか、英語を一ヶ月でマスターするとか、もう言わないで!

「ネイティブのような完璧な英語を目指さなくていい!」という記事も同罪
「ネイティブ=完璧」「非ネイティブ=不完全」という前提で話してしまっている。
「ネイティブ」だって完璧じゃないということを忘れてはならない。

 

そういう言葉を使った時点で、不可能なゴールを目の前に設けることになる。
いくらがんばっても絶対に届かない目標に、意味なんてないよ。
自分で自分の学習にハードルを設けないで。

そして、ミスリードを誘うようなタイトルを安易に使わないで。
たかが言葉、されど言葉。
そういうタイトルを読めば読むほどに、自己暗示をかけてしまう。

 

だったら、逆に暗示をかけてしまおう。
心の中で三回唱えよう。

完璧なんてない、完璧なんてない完璧なんてない

 

 

では、僕から以上っ!! 

※ 英語を知識競争にして、あらゆるものに点数をつけて、「英語"力"」という数値化されたパワーを競わせる今の教育も問題だとは思うんだけどね~。

 

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