帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

帰国子女のことも褒めてあげて下さい。

本日のテーマ  
「あの子は、ほら、帰国だから」

 

どーもー、おりばーです。

気付けば夏が終わり、秋が来たかと思えば、一気に冬になるのかってくらいの寒さ。
大型の台風もあったりなんかして、色々と調子が安定しない。

この、なんだか落ち着かない10月~11月頃にやってくるのが、定期テスト

そんな定期テストにおいて、僕自身が生徒の頃から疑問に思っていたこと、というより、心にずっと引っ掛かっていたことがある。

それは、「英語」という科目において、「帰国子女」が良い点を取った時の周囲の大人の反応だ。

 

「○○先生、この生徒さん、98点取ってますよ。
テスト難しく作ったのに、いや~、最近よく頑張ってますね!」

「あ、A子ちゃん?あ、あの子はほら、帰国だからさ・・・。
でも、隣の組のB君は"純ジャパ"なのに94点よ!すごいね~!」

 

そんなやり取りが、学校や予備校でされていないだろうか?

"純ジャパ" という言葉については何時かしっかり話すとして・・・。
今日のテーマは、「帰国子女のこともちゃんと褒めてますか?」ということについて、教師・保護者の二つの観点から考えていきたいと思う。

 

 

教師に褒められない帰国子女

 

「あの子は帰国だからさ・・・」

 

「帰国」だからなんだと言うのだろう?

帰国だから褒めるのは勿体ない?
帰国だから英語が出来て当たり前?
帰国だから「頭が良くて」当たり前?

帰国子女ならば、英語に関しては褒めなくて良い。
出来て当たり前で、テスト勉強なんかロクにしなくても満点近く取れる。
授業なんて全く聞かなくても、試験前にちょちょっと勉強すれば大丈夫。
いつ帰って来たとか、どこから帰って来たとか、そんなことは関係ない。

帰国子女なんだから、英語なんて出来て当然でしょ?

そう言いたいのだとしたら、申し訳ないけどあなたは「帰国」のことを何も知らない。

周囲の生徒に比べて「苦労が少ない」から褒めなくて良いとでも思っているのだろうか。

帰国子女にだって、色々な人が居るし、色々な背景や事情を各個人が抱えている。
英語が得意な人、英語圏から来ていない人、日本人学校に通っていた人、幼い頃に帰って来た人、向こうでの生活に馴染めなかった人、などなど。
それらを一緒くたにして扱い、全員が英語が出来て当たり前だと思うのはあんまりだ。

practicemakesbetter.hatenablog.com

 

そして、

仮に英語が得意な生徒だとしても、得意なら褒めなくて良いのだろうか?

おそらく、「頑張らなくても点が取れる」という思い込みがあるのだろう。
成績が平均して高い生徒は、元々の「能力」が高いから良い成果を上げているわけではない。
多くの教師は伸び率の良い生徒に感動や成果を感じることが多いと思うが、良い成績を維持することの難しさというものを考えたことがあるだろうか?

「帰国なんだから英語くらい出来て当然でしょ」

直接生徒にそう言わないにせよ、その周囲から伝わる暗黙のプレッシャーが生徒にどれだけの負担をかけているのか、考えたことがあるだろうか?

「出来て当たり前」を押し付けるということは、そこで失敗したら「当たり前が出来ない」という烙印を押されることになる。
海外から帰国して、居場所を模索して、日々の生活の中で様々な文化や人間関係の調整を繰り返している生徒に対して、憶測でプレッシャーを課していいものだろうか。

帰国子女のことも、ちゃんと褒めてあげてください。

 

保護者に褒められない帰国子女

 

大学院での帰国子女研究において分かった事があるとしたら、帰国子女とその保護者の関係と言うのは、子ども側の成長や自尊心に絶大な影響力を持つということだろう。

国や地域、学校やクラスを転々とする帰国子女にとって、長期間の継続した関わりを持ち続けるのは基本的に家族だけだ。
親・兄弟との関わりが帰国子女の成長過程に大きな影響をもたらすということは様々な研究ですでに明らかになっている。

特に注目すべきが「帰国子女の保護者は教育熱心である傾向が高い」ということだ。

海外からわざわざタイミングを考慮して日本に戻った以上、海外での経験や学びを無駄にして欲しくないと願う親は多いだろう。

教育熱心なこと自体は問題では無いのだが、親から過度な期待をされて、息苦しい思いをしている帰国子女も多いのではないだろうか?
そして、いつしか親自身も、「この子は英語が出来て当然」と思ってしまってないだろうか?

英語の成績が良くても一切コメントせず。
他の成績がイマイチの科目に対して説教をする。
英語の成績が少しでも良くないと、また説教をする。

子どもの「出来ていない点」を指摘することに時間を使いすぎて、「出来ている点」を見落としてはいないだろうか?

 

僕自身、ずっと英語の成績は学年トップで当たり前だと親に教え込まれてきた。
いや、言葉で教え込まれてきたというより、態度を通して自ずと感じる様になった。
少しでも点数が伸び悩むと、酷く叱られ、自分の情けなさに嫌気がさした。
「英語すら出来ない自分なんて・・・」
親を見返そうと必死に英語のテスト勉強をして、念願の満点を取った時も、通知表を見た親は英語には見向きもせず、平均並みの成績だった数学のことを叱り始めた。

 

「出来て当たり前」

そう思ってしまった途端に、人はそのことを見なくなってしまうのだろう。
出来て当然のことならば、いちいち見向きをする必要もないのかもしれない。
赤ん坊の頃は、ちゃんとスプーンを持てただけで褒められる。
それが大きくなってゆくにつれて、「出来て当たり前」になってゆく。
そうなると、スプーンの持ち方が変だったり、食べこぼしが多かったりすることは、「当たり前が出来ていない」ということで叱られる対象となり、その行為が正しく行われている時に褒める様なことも無くなる。

 

帰国子女にとっての英語も、そうなのだろうか?


皆がそうだと言うつもりはない。
けど、僕は英語の成績を維持することがプレッシャーで、苦痛で、とても辛かった。
努力して成績という数値で報われたとしても、教師や親からは一言もない。
「息を吸って吐くように英語が出来る」と周囲に思われている一方で、帰国してから年月が経つにつれて明らかに英語が自然と出なくなっている自分に焦りを覚えた。

このままでは、「出来て当たり前」が出来ない人になってしまう。
僕から英語を取ってしまったら、もう何も残らない。
そう思った僕は、叱られないために英語の勉強を続けた。

 

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褒められたかった。
「今回もよく頑張ったね」の一言でも良い。
それを言われることがあの頃の僕にとってどれだけ大事だったかを、大人たちは知らない。

得意科目であれ、元々上手なことであれ、関係ない。
たった一言で良い。

帰国子女のことも、ちゃんと褒めてあげてください。

 

「出来て当たり前」じゃないんだ

 

褒めることって、決して簡単では無い。
褒め方も、タイミングも、その効果を大きく左右する。
あれもこれも、褒めれば全て良くなるわけではない。

だからと言って、褒める努力を大人側が放棄してはいけない

「出来て当たり前」だと思って、褒めることすら視野に入れてない。
そんな大人に囲まれることで、その「出来て当たり前」は本人が自らに言い聞かせるプレッシャーへと形を変え、追い込んでしまう恐れがある。

 

だから、帰国子女のことも褒めてあげてください。

「たまに」で良いんです。
たまにで良いから、帰国子女のことも褒めてあげてください。

 

僕から以上!

 

「米国史上最悪の銃乱射事件」 死傷者の数より語るべきこと

10月1日(日本時間では2日)、米国ラスベガスにおいて銃乱射事件が起きた。

テレビを一瞬でも見ていた人ならすでに事件の詳細は知っているだろうから、事件の映像へのリンク等は一切行わないし、写真も貼らない。

テレビを点けて見ればどこも似たような報道。
どの局でも犯人の顔がデカデカと報じられ、テロップに流れるのは死傷者の数。
そして、「米国史上最悪の銃乱射事件」というフレーズが何かしらの形で現れる。

"The worst mass shooting in American history"
"The deadliest mass shooting the country has ever seen"

この日、アメリカはその「史上最悪」の記録を更新することとなった。
2016年におきた、フロリダ州でのナイトクラブ銃乱射事件からたった一年の期間を経て。

 

死傷者の規模で言えば、確かに今まででの「最高値」なのだろう。
でも、本当に大事なのはそこなのだろうか?

死傷者が100人だろうが、10人だろうが、1人だろうが。
被害に遭った本人と遺族にとって、それは常に「史上最悪」のコトである。

そこに被害の総数なんて関係ない。
被害の合計が高いから痛ましい事件なのではない。
巻き込まれた日本人の数がゼロか否かが大事なのではない。

「史上最悪」かどうかが、そんなに大事なのだろうか。

 

犯人像についても語らねばならない。
現在多くのメディアにおいて、今回の事件が「テロか否か」について議論が噴出している。
テロリズム」という単語が「イスラム過激派」というイメージに結び付けられ過ぎた結果、人々は犯人が地元民であったという事実を中々に消化できないでいる。

犯人が目に見えた「テロリスト」なら世論は団結しただろう。
よそ者を排除せよ。
アメリカをもう一度素晴らしい国へ。

でも、犯人像が明らかになりつつある今、アメリカの世論は混乱している。
それは事件の報道に関するYouTubeビデオのコメント欄を見れば一目瞭然だ。
もはや読んでいて眩暈がするほどに、それらのコメントは荒れている。

一方が犯人の政治思想や精神状態を論じる中、もう一方は銃規制を訴える。
つまりは「武器そのものに罪があるのか、所有者に罪があるのか」の議論。
銃乱射事件が起きる度に巻き起こる、全く同じ議論。

このような事件が起きると必ず政治家や一部の人々が言うセリフ。

「こんな非常時に銃規制うんぬんの話をするのは不謹慎だ。」

では、いつ議論すればいいのだろうか。
銃による被害が日常的に起きている中、いつ銃規制の話をすればいいのだろうか。
たった一年の間に「史上最悪」の記録が2度更新される中、いつ議論すればいいのか。

そして、海の向こうの話だからと「銃社会って怖いな~」で終わらせて良い話だろうか。
直接日本に被害が無かったからと言って、数日盛り上がればいいだけの話だろうか。

 

悲しいことが、最近本当に多すぎる。
多すぎて、冷静に一つ一つのことを考えていられないのかもしれない。

 

先日、中央線が朝から人身事故で大幅に遅れた時のこと。
朝食のパンを食べながら父親の言った一言が忘れられない。

「うわぁ、こりゃオフィスに間に合わないなー。いい迷惑だよ全く。」

なんてことない日常の風景の中に、この「人身事故」はあった。
自殺だろうと、人間1人がその命に終わりを迎えた。
その瞬間はあまりにも呆気なく、面識も関係も無い我が家ではその無くなった命に対する思いなど1ミリも無かった

自ら選んで行った自殺と、今回の銃乱射は確かにまるで違う話だ。
でも、僕らはこういった自分と無関係の「死」に簡単に慣れてしまえるのではないか。
ラスベガスの一件も、数日も経てば僕らの日常から消えてゆくだろう。

アメリカの現状も似たようなものだと思う。
銃乱射事件が起きる度に銃規制の話題が過熱し、ほとぼりが冷めた頃にまた事件が起きる。
規制は進まず、ただ虚しさと無力さが残る。
そうして、いちいち考えていたら疲れてしまうから、人々は次第に「慣れてゆく」。
議論をすること自体に、疲れてゆく。

 

10月現在、アメリカにおける2017年の銃による死者の数は11600人。
それは、8月末までの日本における今年の自殺者数14600人よりも少ない。

「総数」という形で話しをするならば、現実はそんなものなのだ。
人の手によるものか、自分の手によるものかという差は大きいとは言え、「命の数」で言えばこれだけの悲劇が僕らの周りで日常的に起きている。

僕らは忘れてはいけない。

被害の規模が「史上最悪」だろうとなんだろうと、残された遺族や関係者にとっては、それは「慣れること」など出来ない残酷な現実であるということを。

死傷者の総数よりも、伝えるべき大事なことが、一杯あるんじゃないだろうか。
被害の規模にのみ話が終始するならば、今後必ず今回を上回る事件が起きるであろう。

 

今の僕らには何ができるのだろうか。
慣れて、前に進めてしまう「無関係」な僕らには、一体何ができるのだろう・・・。

 

まとまりのない文章で申し訳ないです。
自分の考えをまとめる為に書いたのですが、やっぱりそんな簡単に書けるものじゃないですね。

しっかりと向き合って、答えが出なくとも考え続けることが、今の僕に出来る事だと思います。

 

 

では。

 

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参考にしたサイト

http://www.gunviolencearchive.org/

https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/jisatsu.html

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ホームシックは弱さじゃない

本日のテーマ  
ネスはいえがこいしくなった。

 

どーもー、おりばーです。

留学をしている際に、多くの人が、様々な形で体験する「ホームシック」
それは旅立った「巣」への愛着であり、未練である。

僕たちは、そのホームシックを、心の弱さとして考えていないだろうか?

折角努力して、一人はるばる遠くの国までやって来た。
その決断・決意に対する揺らぎのように考えてしまっていないだろうか?

 

先に断言しておこう。
ホームシックになるのは、君が弱いからではない。

 

 

留学で得るものとは?

 

留学に行ったら人は何を得て学ぶのか。

海外の文化、海外の言語、海外の友人。
勿論それらもあるだろう。

でも、留学とは、なにも違う景色や価値観に触れるだけのものでは無い。

自分とは一見異なるものを見て体験して、そこから似ている点を見つけ出したり、違いを乗り越えて分かり合える点・分かり合えない点について実感したり、そしてなにより、それらの価値観や世界観の変動によって今までの「自」が広まることこそ、留学での学びだと僕は思う。

自分のこと。
自分の言語のこと。
自分の家族のこと。
自分の友人関係のこと。
自分の価値観や恋愛観のこと。

留学に行くと世界が広がる。
それは、「世界は本当に広いな」という実感と、「自分も本当に色々あるな」という実感、それらの二つの側面があるのだと僕は考える。

留学は、これまでの自分と、自分の世界について振り返る、最高の機会だ。
日本のコンビニの有難みだったり、家族の暖かさだったり、玄関で靴を脱ぐことの素晴らしさだったり、シャワーの温度調節が簡単に出来る嬉しさだったり。

些細なことでもいい。
そこには「自」についての学びと気付きが溢れている。

 

ホームシックとはその学びに気づけたという証 

 

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僕も留学中にホームシックを経験した。

些細なストレスから、結構な理不尽まで、本当に様々なことの積み重ねの結果、僕は留学開始から半年ごろにホームシックになった。

ちゃんとした日本食が食べたい。
日本の友達と会いたい。
ペットに会いたい。
家族に会いたい。
帰りたい。

留学先での学業や人間関係は順調だったのに、ふとした瞬間に大学の頃の写真を振り返っていたり、昔の思い出を掘り起こしている自分に気が付いた。

それは、海外が嫌いになったというわけじゃない
むしろ、日本が好き、そういう気持ちだった
日本という国の風土、日本に居る人々、これまでの自分の歩み、学び、経験、作ってきたコミュニティ、あらゆるものの有難みを痛感し、同時にそれらが恋しくなる。

そんな気持ちだった。

それは、日本に残っていたら当たり前すぎて気が付けなかったものかもしれない。

今の自分が、生まれ育った場所とは違う土地に来て、関わったことの無い人や物に囲まれている。
その状況を可能にしてくれたのは、自分をここまで来させてくれたのは、今までの経験や出会い。

そう思うと、もの凄くホームシックになった。

生まれ育った環境を恋しく思い、関わってきた人々を懐かしむ、その気持ちのどこが「弱さ」なのだろうか?
うしろ髪を引かれるような思いをするのは、「今」の自分がいるのが「過去」のおかげだと気が付けたから。

未来を見据える力と、過去を振り返ってそこから学ぶ力。
どちらが良い悪いではなく、どちらも成長への大事な過程なのだと思う。

 

ホームシックは受け入れるもの

 

そんなホームシックは、home"sick"というけど、病気ではない。
克服すべきものでもなければ、「乗り越えなきゃ」というものでもない。

僕は受け入れるものだと思う。

「あぁ、日本が恋しいんだな」
そう認めてあげる事が、なによりも大事なのだと思う。

 

ホームシックはある日、突然やってくる。
大事なのは、その到来を事実として受け止めて、認めてあげること。
自分が「今」感じている気持ちを、正直に受け入れてあげること。

留学生活というもの、時には立ち止まる必要もある。
がむしゃらに前だけ見続けることが、「強さ」ってわけじゃないんだから。

 

では、僕から以上っ!!

 

英語が「できる」「できない」の間にあるもの

本日のテーマ  
Can you English?

 

どーもー、おりばーです。

大学院を無事卒業し、現在は英語教育に関わる仕事を毎日やっております。
多忙過ぎる。
けど、楽し過ぎる。
今後も不定期更新になりそうだなーこりゃ。

それでも良ければ、たまに覗きに来てください。
飛んで喜びます。

 

今日は、ふと最近疑問に思ったことについて。

僕らが日常会話において、そして特に英語の教育現場において何となしに使っている言葉、「英語できる」「英語できない」

「○○君は英語できるからね~」
「小テストの点が悪かった?あー、あの子はさ、もともと英語できないからさ。」

勿論、上手・下手という意味で「できる」「できない」を使っているのは分かる。
Can / Can't じゃなくて、その才能の度合いに対して使っている。


分かるんだけども・・・。

どうしても、この「英語できる」「英語できない」があまりにも極端なものの見方だと思うんだ。

 

 

できる・できないの基準はどこにあるの?

 

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どこまでいったら「できる」の?
どれくらいのレベルなら、「できる」って言っていいの?
「できる」って言えるようになるには何をすればいいの?

誰かが決めたわけでもないのに、まるで「できる」と「できない」の境目となるラインが、全員の共通認識の中にあるかのように、僕らは話す。

「君って英語上手なの?」
なんて聞かれて自信満々に「はい!」って答えられるような人なんてほとんど居ない。
そう答えた時点で、ありもしない一定の基準を期待されてしまうからだ。
「私は英語ができます」なんて言ってしまったら、「言う割には大したことないじゃん」と思われてしまう恐れが常に付きまとうことになる。

だから、僕らはいくら英語の勉強に時間と労力を使っても「英語ができる」なんて言い切れない。
「できる」に辿りつけることがないんだ。

単語帳を何冊買っても。
英語必勝本とかを何冊読み漁ったとしても。
一向に「できる」って言えない。

 

英語に「できた!」という瞬間はあるのか?

 

「できる」に辿り着けない理由は、努力不足だとか、才能がないってことではない。
その、「できる」「できない」の二択で考えているから行き詰るんだ。

 

例えば、逆上がりを例に考えよう。

「逆上がりができる」というのは、結果を見れば一目瞭然なわけだ。
「できる」「できない」がハッキリしている。

鉄棒を掴んで、身体を前に勢いよく出す。
地面を蹴って加速してゆく感覚。
身体が一瞬、宙に浮く感覚。
身体がしっかりと上まで登らなくても、そのゴールまでの距離が実感できる。

あとほんの少しだ!
その感覚が身体で分かるし、他人から見ても分かる。

身体がしっかり一回転するその時をめがけて、懸命に努力するわけだ。

 

一方で、英語はどうだろう。

「できる」という結果になるのはいつなのだろう
後少しだ!って、背中を押してくれる人は居るのだろうか。

「できた!」って瞬間があれば、努力は報われる。
その実感が近くにあるのが分かっているなら、努力しやすい。

でも、英語だと、その「できた!」を実感できる機会と言うのは本当に稀だ。
日本に居て、「英語を使う」という意志と機会が日ごろから無いと、なおさらだ。

「できる」というタイミングが来ない以上、僕らはずっと「できない」止まり。
そんなの、あまりにも悲しいじゃないか。

英語が「できる」と「できない」、その間こそが大事

 

英語は「できる」「できない」の二通りしかないわけじゃない。

そりゃ、「今できないこと」があるのは当然だ。
言語を完璧にすることなんて、永久に出来ないんだから。

 

でも、多くの人が「今できていること」に対して気が付いてあげられない。
教育者も、そして何より学習者自身も。

単語を沢山知っていたり、文法理解が早かったり、「できている」点は人それぞれ沢山ある。
発音やリスニングが苦手だとしても、「できている」点があることに変わりはない。

働いていて日々思うのが、学習者自身が自分を極端に過小評価しているということ。
小テストや授業中のプリントを正確に素早く解けても、英語が「できる」に繋がらない、繋がっている気がしない。

英語が「できる」ってのは発音がネイティブの様に聞こえるってことなのか?
英語が「できる」ってのはネイティブが使うようなスラングを使いこなせることなのか?

 

違うだろ。

その「ネイティブのマネをする」=「良い英語」という発想を捨てるべきだ。

「今できている」ことが着実に昨日より増えているのに、どうしてそれを「できない」だなんて言ってしまうんだ。

そんなんじゃあ、英語学習なんて楽しいわけがない。

一生成功することが無い鉄棒に向かって、挑み続けられるものか。
英語が完璧になることなんて一生ない。
「完成させる」なんてことはゴールにできない。

なら、「できる」「できない」の間の「やっている」という状態こそが一番大事じゃないのか?

英語が「できない」なんてことはない。
皆がそれぞれの歩幅で「やっている」ってだけの話だ。
英語をやってさえいれば、それでいいじゃないか。

「できるようになっていっている」
つまりはそういうことだ。

 

 

英語が「できる」「できない」。
その考えから、離れてしまおう。

 

では、僕から以上!

継続できる強さと、辞められない臆病さは紙一重

本日のテーマ  
桐島、部活やめたくてもやめられないってよ

 

どーもー、おりばーです。

 

「継続は力なり」。
その言葉の示す通り、何かを諦めずに続けるということは一種の美徳と言えよう。
辛い時を耐え抜き、それでも続ける覚悟と精神力!
確かに、カッコいいよね。

一方で、「本当に辛かったら逃げても良いんだよ」。
そんな言葉も最近聞かれるようになってきている。
自分に合わなければ無理に続けなくていい、逃げることは悪いことじゃないんだ!
つい先日、仕事を辞めたいと相談してきた同期にそんなアドバイスをしてしまった。

 

でも。。。

何かを継続して続けることの大切さ。
自分の為にならないと思った物を切り捨てる勇気。

これらの境界線って凄く難しいと思うんだ。

今日は、続ける勇気と辞められない臆病さが如何に紙一重かについて考えてみたいと思う。

 

部活動に苦しんだ中学高校時代

 

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僕は極度の運動音痴だ。
体力測定では毎年結果の用紙をすぐにカバンに隠して、親にも見せなかった。
体育の先生に、「真面目にやってるのか?」と疑われるほど、動きが遅い・固い。

そんな僕にとって、運動部での活動はかなりのハードルだった。

アメリカから帰国して間もない中学生の頃の話。
居場所と友達を求めて僕は無謀にも体育会系の部活に入ることに決めた

運動音痴の僕には厳しい激しい運動と、それ以上に厳しい精神的なプレッシャー。
先輩からの極端な「指導」に毎日嫌気がさし、中1の時点で僕は限界を迎えた。

「よし、部活をサボろう」

そう決心した僕は同級生のケースケと共に、授業終了後、速やかに帰宅した。
いや、しようとした。

あいにく、廊下で先輩とすれ違い、僕らの計画は無に帰した。
翌朝、校内放送で顧問に呼び出され、説教。
ますます部活を辞められない空気になってしまった。

中高一貫校という事もあり、中学卒業時にも辞めることが出来ず。
結局僕は中高6年間その部活動を嫌々続けることになってしまったのだ。

部活がある日はいつも心がキューーーっと締め付けられる。
夏合宿の一か月前から吐き気がする。
顧問や先輩とすれ違うだけで足がすくむ。
そんな状態でも、結果として僕は6年間「継続」したのだ。

 

その「継続」は強さか弱さか?

 

部活が本当に嫌で、辛くて、辞めたくて仕方がなかった。
それでも僕が続けたのは、何事も諦めない強さとタフさがあったからではない。

 

辞める勇気がなかったんだ。

 

同期に嫌われたくない。
途中で投げ出したらカッコ悪い。
他の皆も同じだけ辛い中頑張ってるのに、自分だけ逃げるなんて・・・。

覚悟を持って続けたんじゃない。
辞める事より楽な、ダラダラ続けるという道を選んだのだ。

 

「辛かったら逃げても良い」って言うけど

 

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何かを変える・辞めるには覚悟が必要だ。
そしてその覚悟は、辞めずに嫌々続けることよりも遥かに体力と精神力を使う。

「本当に無理だと思ったら辞めちゃえばいい」

そんなアドバイスをする人が居るだろう。
けど、辞める事って嫌々続けるよりもずーーーーーーっと難しい!
僕はそう思う。

現状がどれだけ苦しいのか痛いほど分かっていても。
それでも、変革に動き出す力が、勇気が出ない。
そういう人、沢山いるんじゃないだろうか?

 

結果論にしかならない

 

続けて本当に良かったのか。
辞めて正解だったのか。

その答えが分かるのは何時だって遠い未来。
数か月、数年経ってから振り返って初めて感じること。

あの時諦めずに続けていたら・・・。
あの時勇気を出して辞めていたら・・・。
自らが取らなかった選択肢は、いつだって後悔として残る。

同様に、結果的にその行動が正解だったかどうかは、後からいくらでも正当化できる

僕は部活を辞めなくてよかったと今は思っている。
辛い瞬間を乗り越えられた、その経験が今の僕にとって大きな財産になっている。

でも、部活を辞めていたとしたら、それはそれで美談となっていただろう。
「辛い時に、周りに流されずに自分の道を切り開けた勇気と覚悟が自分の財産だ。」
そんな風にね。

こんなの、結果論として何とだって言えてしまう。
辞める覚悟も、継続する覚悟も、後から言い繕えばいくらでも正当化出来るんだ。

だとしたら、一体何に従って選択を行えばいいのだろうか?

 

今の自分の感情に従う勇気

 

僕は、どんなことがあっても結果的には良かったと思い込む人間だ。
本当に辛い経験も、「良い学びになった」と言い切る。
上手く行かなかったことがあったら、「失敗が成長に繋がる」と言い聞かせる。

そうやって、後からなんだって正当化できるのなら、本当に大事なものはなんなのか。

それは、「今の自分の感情に従う」ことではないだろうか?

感情に任せて辞めたって後悔は付き物。
同じく、感情を押し殺して続けても後悔は付き物。
もしあーしてれば、こーしてれば。
その後悔は少なからず常に付きまとう

だったら、感情にもう少し率直に生きてもいいんじゃないだろうか?

「他の皆も辛い中頑張ってるのに・・・」という悩みもあるだろう。

でも、自分の辛さや痛みは他人と数値化して比べられるものじゃない
他の人が大丈夫な痛みでも、自分にとっては深い心の傷にだって成る。
自分が「辛い」と思ったら、それは疑いもなく「辛い」ことなんだ。
共感を得られない痛みだって、痛みであることに変わりはないんだ。

だったら、僕はもう少し今の自分に素直に生きてみたい。

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いや、そう生きてゆけるように努力をしていきたい。
周りを気にして、辛くても辞めるに辞められない僕だからこそ。
「自己中に生きてやる」、覚悟を決めてそう言い切ってやりたい。

自分の人生を歩めるのは自分だけだし、自分の感情は自分でしか感じられない。
皆が各々の人生を、後悔や選択をしながら生きているんだ。

自分中心で生きてあげられるのは、自分だけ。

辞めるのも続けるのも、周りがどうこうじゃなくて自分で決める!
「自分の判断を信じる勇気」、それを持つことから一緒に始めてみようじゃんか。

 

では、僕から以上っ!!

日本人を避けることが留学をより良いものにする訳では無い

本日のテーマ  
孤高の留学生

 

どーもー、おりばーです。

 

留学先大学のクラブ、サークル、学生団体。
何かに所属して知り合いを作りたいな~と思うはず。

どこに入ろうか迷っている時に、とても不思議な現象が起きていることに気が付く。

香港クラブには香港出身の生徒が集まる。
コリアン・ソサエティには韓国出身の学生が集う。

でも、ジャパニーズクラブには日本人が一人も居ない

漫画やアニメなどの日本文化に興味のある学生が集っているものの、「日本人」は見当たらない。
これは、何も僕の通っている大学に限ったことではないと思う。

留学や渡航経験者なら誰しもが一度は考える、現地での日本人との関わり方

「日本人を避けて、英語漬けの生活をするんだ!」という目的意識が、必ずしも留学を良いものにするわけでは無いということについて、今日は一緒に考えていこう。

 

日本人と過ごす時間は勿体ない?

 

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「わざわざ留学してるのになんで日本人ばっかりと遊んでるの?」
語学留学や「遊学」と揶揄されるような留学に対する批判で良く耳にする言葉だ。

語学力の上達を目標としている留学ならば、日本語ばかり使っていては勿体ない。
自分から積極的に外国語を使わざるを得ない環境に飛び込め。
日本人と居ると日本語に甘えてしまう。
もっと自分を追い込め!!

おそらくそのような気持ちが結果として、「日本人を避ける」という心理に繋がるのだろう。

日本語に甘えたくない!
もっとがむしゃらに外国語を使いたい!
そう思うのなら、好きなだけ英語でも何でも使えばいいさ。
チャレンジする覚悟というのは確かに留学において貴重なスキルだ。

でも、「日本人を避ければ英語が上達する」わけではない
過酷な環境に身を置けば、自然と言語が上達するだなんて思わない方が良い。

practicemakesbetter.hatenablog.com


英語を上達させたければ英語を好きになろう
英語を話す人を好きになろう
そして、自分と同じように、そんな英語を学ぼうとしている者たちを好きになろう

忘れてはいけない。
留学先で出会う日本人は言語習得の邪魔をする敵なんかじゃないんだ。
同じ目標を持ち、そして似たような悩みを持つ大切な仲間だ。

別にずっと一緒に居る必要なんてない。
チャンスがあるときは積極的に自分の安心できるゾーンの外に出てゆけば良い。
でも、いざと言う時に戻って来れる安心できる場所も、留学においては必要なものさ。

 

排他的になることにメリットなんてない

 

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日本人と一緒に居たくない。
日本人と関わりたくない。
日本語を使いたくない。

そうやって排他的になることは、結果として自らの交流の機会を削ってしまっている。

日本人との交流の時間は別に無駄じゃない。
そこから広がる人脈で思わぬ人や交流の場に出会えるかもしれない。

自分を甘やかしたくないというその気持ちは立派だ。
どんどん自分の意志でチャンスをつかんでゆけばいい。

でも、折角そんな立派な志を持っているのなら、「日本人を避ける」なんて極端なことにエネルギーを無駄に使わないで

自分を追い込んで、追い詰めて、逃げ道を奪う。
過酷な環境を自分で作り上げて、その「環境」に任せて自分を成長させようとする。

「自分を追い込めること」が強さなんじゃない。
「その先の目標が見えてる」ことが大事なんだと僕は思う。

何のための留学か。
何のために言語を学ぶのか。
それがハッキリわかっているのなら、「環境」に任せなくても自分の力で成長できる。

異文化や他言語の理解を深める為の留学を、自国の文化と言語の否定でしか身につけられないのだとしたら、それは凄く、もの凄く勿体ないことだ。

留学は何も外のモノを学ぶことだけじゃない。
知らなかった世界に触れることで、自分の世界を広め、そして再認識することだ。

外国の文化だって、新しい言語だって身につけてやる!
同じ国から目標を同じくして来ている人たちのことだって、ドーンと受け入れてやる!
それくらいの寛容さを、是非とも持って欲しいものだ。

 

なに人であれ、気が合わない人と関わる暇なんてない

 

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留学は時間制限つきの滞在。

肝心なのは「日本人を避けること」じゃなくて「気が合わない人を避けること」だと僕は思う。

日本人であれ、なに人であれ、気が合わない人と無駄にしている時間なんてないはずだ。
そんな人に「あなた」の貴重な時間を浪費されるのはあまりに勿体ない。

日本人の集団と一緒に居て楽しいけど、なんだか「日本語ばっかりしゃべってる」という罪悪感があるのなら、思い切って日本人同士で英語で話してみるのもアリだ。

全員、あなたと同じ学習者なんだから、互いに助け合えばいい。
一人では行く勇気がないイベントやパーティーも、日本人の友達と一緒なら行きやすい。

そうやって互いを頼りながら社交の場を広げればいいんじゃないかな?

 

結局は至極単純な話だと思うよ。

一緒に居て楽しく思えない人とは、一緒に居るべきではない。

たったそれだけのこと。

それは日本人だろうと、なに人だろうと関係ない。
気が合わない人と過ごしてる暇なんて、留学には無いんだ。

 

結論!日本人嫌いになっちゃあ意味が無い

 

留学に行くモチベーションなんて、人それぞれ。
そりゃ志が「あなた」とは違う人だって居るだろう。

留学がより身近な選択肢になっている現代において、今までの「留学」では考えられなかったほどに、留学先で日本語・日本文化に漬かっていられるようになったのも事実。

日本の友達とスカイプする。
ユーチューブで日本のお笑いを見る。
アジアンスーパーに言って日本食を食べる。

でも、そういう海外で触れられる「日本」も、とっても大事なものさ。

留学で寂しくなったとき。
日本語が恋しくなったとき。
人間関係で辛いことを経験したとき。

そういう時にとても力になってくれる。

 

日本人を避け、自分を追い込むことでしか何かを得られないと思うのなら、それは間違いだ。

留学は「外」の世界を知ることで自分の「内」なる世界を再認識・再定義する為の旅

外国を知りたいからと言って、日本を否定しないといけないような狭い許容範囲なのなら、それは成長じゃなくむしろ退化しているとさえ言えるんじゃないかな。

 

折角日本を飛び出して羽ばたきに来たのなら「日本人を拒む」という別の殻に閉じこもらないで。

 

どんとこい!

その気持ちがあれば留学はもっと楽しくなる。

 

では、僕から以上っ!!

 

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practicemakesbetter.hatenablog.com

 

「仕事で英語を活かす」は職場の「英語担当」になることではない

本日のテーマ  
「ほら、外人だよ、英語使えよ」

 

 

どーもー、おりばーです。

「英語を活かせる仕事に就きたい」
「英語を活かせるバイトをしたい」

そう思う人って結構多いんじゃないかな?

英語を日常的に使うことで、より上達させたいという人。
英語が自分の強みだから活かしたいという人。
英語を忘れないために使い続けたいという人。

理由は個々人によって違うだろう。

求人サイトでも「英語が使える!」という風に宣伝されているものが多い。

英語を活かしたいと思った僕は、大学時代にそんなバイトを探して掛け持ちしていたんだけど、どの職場においても、「英語を活かせなかった」という話をしたいなと。

そして、そんな経験を参考に、「英語を活かせる仕事・職場」とは何かについて考えてみよう!

 

英語を使うと白い目で見られた予備校バイト

 

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英語を活かしたい。
教師になりたい。

そう思った僕は、迷わず「予備校の英語講師」のバイトを始めた。

僕が入ったのは地元の小さなマイナー予備校。
他の講師は学生のアルバイトとフリーターが数名。

よほど英語講師が少なかったのか、高校英語の大半を僕が担当することになった。

生徒とも打ち解け、生徒の英語の成績も着実に伸びていったため、僕は充実感を覚え始めていた。

でも、ひとつ、とても気になることがあった。

英語を使うたびに周囲の講師から白い目で見られるのだ。

勘違いしてほしくないけど、僕は別に不必要に英語を見せびらかしてた訳じゃない。
日本での生活が長い僕は、無闇に英語を人前で話していけないことくらい理解している。
(その暗黙のルールが良いか悪いかは別にして、もう慣れた)

でも、英語を教える以上、英語を使わないといけない場面が多い。
というより、英語を使わずに教えることなんて出来ない。
わざと発音を崩したら、間違った発音を生徒に教えることになる。

なのに、英語を発話する度に「調子に乗りやがって」という目線が他講師から飛んでくる。

「英語を使うことに対して気を使わなきゃいけない」
その時点でここは「英語が活かせる職場」ではなかったのだ

英語を使うことで変な目で見られる。
英語を使うと「カッコつけ」だと思われる。
英語を必要最低限のとき以外、使わないようにしなくてはならない

そんな仕事は、「英語を活かす仕事」なんかじゃない。
ただの、「たまに英語を求められる仕事」だ。

「おりばー君、ここの発音ってこれで合ってる?」

僕は、同僚から英語を極稀に求められる、「便利な英語屋」でしかなかったのだ。

 

「外人来たぞ、お前話して来い」のホテルバイト

 

友人から紹介され、ほぼ同時進行で始めたのが、ホテルでの接客バイトだった。

派遣会社を通し、シフト制で各地のホテルにて接客や受付をする。
外国の人が利用するホテルや、外国の人が利用するパーティーホール。
英語が必要なイベントには、派遣会社側から結構お呼びがかかっていた。

英語を使える!
英語を活かせる!

そう思ってホテルに向かうと、現実はそんなに優しいものではなかった。

英語での電話がきたら受付に呼び出されて電話対応。
外国の方が来たら呼び出されて通訳兼案内。

確かに、英語を使える機会はそこそこ多かった。
役に立っている実感もあったから、そこまで嫌な気分でもなかった。
いざという時に「必要とされている」という感覚が嬉しいと思えることもあった。

でも、
「おい、外人さんだぞ。お前が対応して来い。」
と言われて駆り出されるのは、決していい気分ではなかった。

とりあえず「英語」が関係する仕事は全部僕に回せばいい
そんな風に上司から思われていたのだろう。

結局、この職場でも「必要最低限の時だけ英語を求められる」という立場は変わらなかった。

派遣だから仕方ないけど、僕は都合のよい「使い捨ての通訳」でしかなかった。

 

英語を「活かせる」職場とは?

 

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僕はどちらの職場でも英語を使ってはいた。
英語が必要とされる時に活躍も出来た。
そういう意味では、英語を「使う」仕事をしていたのかもしれない。

でも、僕が思う「英語が活かせる職場」は、「英語が存在して当たり前の職場」のこと

別にそれは社内の公用語が英語ということではない。
全員が英語でやり取りをしている職場ということではない。

どちらかと言うと、
英語を使う人に対する理解のある職場。
英語という言語に対して偏見や過度な抵抗感のない職場。
英語というツールを使える人が自分一人だけじゃない職場。

英語関連の仕事は全部この人に回せ!
そんな風に「英語担当」にされるような職場は、英語を「活かせる」場所とは言えない。

英語でのビジネスメールは全部あなたが。
外国人の来訪者の対応は全部あなたが。
外国の取引先との会食での通訳はあなたが。

確かに、役に立つことは出来る。
そして、頼られているという気持ちになることも出来る。

でも、「英語」と付く仕事が全部回ってくるような職場で、あなたはあなたの思うように英語を「活かせて」いるのだろうか?

 

僕は仕事で英語を「活かしたい」。

英語をたまに使うとかではない。
困ったときに頼りになる「歩く辞書」になるつもりもない。
外国人が来たときに使える「お手軽通訳」になるつもりもない。

英語を自分磨きのスキルとしてじゃなくて、仕事に必要なツールとして使いたい。
そして、そんなツールを使うことに対して引け目を感じるような職場には居たくない。

英語を「使う」ことが目的じゃないんだ。

そのスキルをただ持っているだけで評価されるような職場に、僕は就きたくない。

結論!職場の「英語担当」なんてもう嫌だ!

 

英語は好きさ。
いや、大好きさ。

でも、「英語が出来る」という評価だけで生きてゆけるような仕事にやりがいなんてない。

英語が出来たとして、それを仕事でどう「活かす」のか?
その活用の場を与えてくれる職場に、僕は就きたいな。

英語で行われている会議のメモを英語で取ったら上司にビックリされた
なんて話を同期から聞いて、なんともやりきれない気持ちになっている。 

ボストンキャリアフォーラムとかで留学生や帰国子女を対象に求人を出しながら、入社した結果一切「英語を使わせない」空気の会社を、僕は許せない。

まぁ、そんなケースばかりじゃないと信じたいけどね・・・。

 

あ、最後に愚痴を言うとしたら。

英語を「活かせる」仕事を提供するわけでもないのに、求人に「TOEIC700点」とか適当に要件付けるの、止めてもらえます?

 

では、僕から以上っ!!