帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

英語が「できる」「できない」の間にあるもの

本日のテーマ  
Can you English?

 

どーもー、おりばーです。

大学院を無事卒業し、現在は英語教育に関わる仕事を毎日やっております。
多忙過ぎる。
けど、楽し過ぎる。
今後も不定期更新になりそうだなーこりゃ。

それでも良ければ、たまに覗きに来てください。
飛んで喜びます。

 

今日は、ふと最近疑問に思ったことについて。

僕らが日常会話において、そして特に英語の教育現場において何となしに使っている言葉、「英語できる」「英語できない」

「○○君は英語できるからね~」
「小テストの点が悪かった?あー、あの子はさ、もともと英語できないからさ。」

勿論、上手・下手という意味で「できる」「できない」を使っているのは分かる。
Can / Can't じゃなくて、その才能の度合いに対して使っている。


分かるんだけども・・・。

どうしても、この「英語できる」「英語できない」があまりにも極端なものの見方だと思うんだ。

 

 

できる・できないの基準はどこにあるの?

 

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どこまでいったら「できる」の?
どれくらいのレベルなら、「できる」って言っていいの?
「できる」って言えるようになるには何をすればいいの?

誰かが決めたわけでもないのに、まるで「できる」と「できない」の境目となるラインが、全員の共通認識の中にあるかのように、僕らは話す。

「君って英語上手なの?」
なんて聞かれて自信満々に「はい!」って答えられるような人なんてほとんど居ない。
そう答えた時点で、ありもしない一定の基準を期待されてしまうからだ。
「私は英語ができます」なんて言ってしまったら、「言う割には大したことないじゃん」と思われてしまう恐れが常に付きまとうことになる。

だから、僕らはいくら英語の勉強に時間と労力を使っても「英語ができる」なんて言い切れない。
「できる」に辿りつけることがないんだ。

単語帳を何冊買っても。
英語必勝本とかを何冊読み漁ったとしても。
一向に「できる」って言えない。

 

英語に「できた!」という瞬間はあるのか?

 

「できる」に辿り着けない理由は、努力不足だとか、才能がないってことではない。
その、「できる」「できない」の二択で考えているから行き詰るんだ。

 

例えば、逆上がりを例に考えよう。

「逆上がりができる」というのは、結果を見れば一目瞭然なわけだ。
「できる」「できない」がハッキリしている。

鉄棒を掴んで、身体を前に勢いよく出す。
地面を蹴って加速してゆく感覚。
身体が一瞬、宙に浮く感覚。
身体がしっかりと上まで登らなくても、そのゴールまでの距離が実感できる。

あとほんの少しだ!
その感覚が身体で分かるし、他人から見ても分かる。

身体がしっかり一回転するその時をめがけて、懸命に努力するわけだ。

 

一方で、英語はどうだろう。

「できる」という結果になるのはいつなのだろう
後少しだ!って、背中を押してくれる人は居るのだろうか。

「できた!」って瞬間があれば、努力は報われる。
その実感が近くにあるのが分かっているなら、努力しやすい。

でも、英語だと、その「できた!」を実感できる機会と言うのは本当に稀だ。
日本に居て、「英語を使う」という意志と機会が日ごろから無いと、なおさらだ。

「できる」というタイミングが来ない以上、僕らはずっと「できない」止まり。
そんなの、あまりにも悲しいじゃないか。

英語が「できる」と「できない」、その間こそが大事

 

英語は「できる」「できない」の二通りしかないわけじゃない。

そりゃ、「今できないこと」があるのは当然だ。
言語を完璧にすることなんて、永久に出来ないんだから。

 

でも、多くの人が「今できていること」に対して気が付いてあげられない。
教育者も、そして何より学習者自身も。

単語を沢山知っていたり、文法理解が早かったり、「できている」点は人それぞれ沢山ある。
発音やリスニングが苦手だとしても、「できている」点があることに変わりはない。

働いていて日々思うのが、学習者自身が自分を極端に過小評価しているということ。
小テストや授業中のプリントを正確に素早く解けても、英語が「できる」に繋がらない、繋がっている気がしない。

英語が「できる」ってのは発音がネイティブの様に聞こえるってことなのか?
英語が「できる」ってのはネイティブが使うようなスラングを使いこなせることなのか?

 

違うだろ。

その「ネイティブのマネをする」=「良い英語」という発想を捨てるべきだ。

「今できている」ことが着実に昨日より増えているのに、どうしてそれを「できない」だなんて言ってしまうんだ。

そんなんじゃあ、英語学習なんて楽しいわけがない。

一生成功することが無い鉄棒に向かって、挑み続けられるものか。
英語が完璧になることなんて一生ない。
「完成させる」なんてことはゴールにできない。

なら、「できる」「できない」の間の「やっている」という状態こそが一番大事じゃないのか?

英語が「できない」なんてことはない。
皆がそれぞれの歩幅で「やっている」ってだけの話だ。
英語をやってさえいれば、それでいいじゃないか。

「できるようになっていっている」
つまりはそういうことだ。

 

 

英語が「できる」「できない」。
その考えから、離れてしまおう。

 

では、僕から以上!

継続できる強さと、辞められない臆病さは紙一重

本日のテーマ  
桐島、部活やめたくてもやめられないってよ

 

どーもー、おりばーです。

 

「継続は力なり」。
その言葉の示す通り、何かを諦めずに続けるということは一種の美徳と言えよう。
辛い時を耐え抜き、それでも続ける覚悟と精神力!
確かに、カッコいいよね。

一方で、「本当に辛かったら逃げても良いんだよ」。
そんな言葉も最近聞かれるようになってきている。
自分に合わなければ無理に続けなくていい、逃げることは悪いことじゃないんだ!
つい先日、仕事を辞めたいと相談してきた同期にそんなアドバイスをしてしまった。

 

でも。。。

何かを継続して続けることの大切さ。
自分の為にならないと思った物を切り捨てる勇気。

これらの境界線って凄く難しいと思うんだ。

今日は、続ける勇気と辞められない臆病さが如何に紙一重かについて考えてみたいと思う。

 

部活動に苦しんだ中学高校時代

 

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僕は極度の運動音痴だ。
体力測定では毎年結果の用紙をすぐにカバンに隠して、親にも見せなかった。
体育の先生に、「真面目にやってるのか?」と疑われるほど、動きが遅い・固い。

そんな僕にとって、運動部での活動はかなりのハードルだった。

アメリカから帰国して間もない中学生の頃の話。
居場所と友達を求めて僕は無謀にも体育会系の部活に入ることに決めた

運動音痴の僕には厳しい激しい運動と、それ以上に厳しい精神的なプレッシャー。
先輩からの極端な「指導」に毎日嫌気がさし、中1の時点で僕は限界を迎えた。

「よし、部活をサボろう」

そう決心した僕は同級生のケースケと共に、授業終了後、速やかに帰宅した。
いや、しようとした。

あいにく、廊下で先輩とすれ違い、僕らの計画は無に帰した。
翌朝、校内放送で顧問に呼び出され、説教。
ますます部活を辞められない空気になってしまった。

中高一貫校という事もあり、中学卒業時にも辞めることが出来ず。
結局僕は中高6年間その部活動を嫌々続けることになってしまったのだ。

部活がある日はいつも心がキューーーっと締め付けられる。
夏合宿の一か月前から吐き気がする。
顧問や先輩とすれ違うだけで足がすくむ。
そんな状態でも、結果として僕は6年間「継続」したのだ。

 

その「継続」は強さか弱さか?

 

部活が本当に嫌で、辛くて、辞めたくて仕方がなかった。
それでも僕が続けたのは、何事も諦めない強さとタフさがあったからではない。

 

辞める勇気がなかったんだ。

 

同期に嫌われたくない。
途中で投げ出したらカッコ悪い。
他の皆も同じだけ辛い中頑張ってるのに、自分だけ逃げるなんて・・・。

覚悟を持って続けたんじゃない。
辞める事より楽な、ダラダラ続けるという道を選んだのだ。

 

「辛かったら逃げても良い」って言うけど

 

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何かを変える・辞めるには覚悟が必要だ。
そしてその覚悟は、辞めずに嫌々続けることよりも遥かに体力と精神力を使う。

「本当に無理だと思ったら辞めちゃえばいい」

そんなアドバイスをする人が居るだろう。
けど、辞める事って嫌々続けるよりもずーーーーーーっと難しい!
僕はそう思う。

現状がどれだけ苦しいのか痛いほど分かっていても。
それでも、変革に動き出す力が、勇気が出ない。
そういう人、沢山いるんじゃないだろうか?

 

結果論にしかならない

 

続けて本当に良かったのか。
辞めて正解だったのか。

その答えが分かるのは何時だって遠い未来。
数か月、数年経ってから振り返って初めて感じること。

あの時諦めずに続けていたら・・・。
あの時勇気を出して辞めていたら・・・。
自らが取らなかった選択肢は、いつだって後悔として残る。

同様に、結果的にその行動が正解だったかどうかは、後からいくらでも正当化できる

僕は部活を辞めなくてよかったと今は思っている。
辛い瞬間を乗り越えられた、その経験が今の僕にとって大きな財産になっている。

でも、部活を辞めていたとしたら、それはそれで美談となっていただろう。
「辛い時に、周りに流されずに自分の道を切り開けた勇気と覚悟が自分の財産だ。」
そんな風にね。

こんなの、結果論として何とだって言えてしまう。
辞める覚悟も、継続する覚悟も、後から言い繕えばいくらでも正当化出来るんだ。

だとしたら、一体何に従って選択を行えばいいのだろうか?

 

今の自分の感情に従う勇気

 

僕は、どんなことがあっても結果的には良かったと思い込む人間だ。
本当に辛い経験も、「良い学びになった」と言い切る。
上手く行かなかったことがあったら、「失敗が成長に繋がる」と言い聞かせる。

そうやって、後からなんだって正当化できるのなら、本当に大事なものはなんなのか。

それは、「今の自分の感情に従う」ことではないだろうか?

感情に任せて辞めたって後悔は付き物。
同じく、感情を押し殺して続けても後悔は付き物。
もしあーしてれば、こーしてれば。
その後悔は少なからず常に付きまとう

だったら、感情にもう少し率直に生きてもいいんじゃないだろうか?

「他の皆も辛い中頑張ってるのに・・・」という悩みもあるだろう。

でも、自分の辛さや痛みは他人と数値化して比べられるものじゃない
他の人が大丈夫な痛みでも、自分にとっては深い心の傷にだって成る。
自分が「辛い」と思ったら、それは疑いもなく「辛い」ことなんだ。
共感を得られない痛みだって、痛みであることに変わりはないんだ。

だったら、僕はもう少し今の自分に素直に生きてみたい。

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いや、そう生きてゆけるように努力をしていきたい。
周りを気にして、辛くても辞めるに辞められない僕だからこそ。
「自己中に生きてやる」、覚悟を決めてそう言い切ってやりたい。

自分の人生を歩めるのは自分だけだし、自分の感情は自分でしか感じられない。
皆が各々の人生を、後悔や選択をしながら生きているんだ。

自分中心で生きてあげられるのは、自分だけ。

辞めるのも続けるのも、周りがどうこうじゃなくて自分で決める!
「自分の判断を信じる勇気」、それを持つことから一緒に始めてみようじゃんか。

 

では、僕から以上っ!!

リスタート

本日のテーマ  
ぼちぼち再開

 

どーもー、おりばーです。

お久しぶりです。

全て終わった。
研究も、執筆も、製本も。

終わってみたら何とも呆気ない。

元々暇な時間の使い方が非常に下手なので、最近はやることが無くてモヤモヤ。
軽い無気力症状って奴だろうか。
というわけで、ぼちぼちブログの更新を再開しようかなと。

再開って言っても、もはや覚えてくれている人がどれだけ居るのか分からない。
ので、ゼロからゆっくり始める気持ちで書いていこうかな。

ブログの方針としては変わらず英語・教育・帰国子女を中心に、書きたいことを書く。

 

あと、コレもまたまた需要なさそうだけど、近い内にサブブログを作ろうかなと。

過去記事の一部を全文英語で書き直したり、英語で書きたい雑談を書いたり。

というのも、海外からの閲覧者が意外と多いみたいで。
帰国子女に読んでもらいたいと思って書いている記事も多いから、英語で書いた方がより多くの人に届くかなと。

(本音は英語で文章を書く習慣を作りたい、ってだけなんだけど)

 

まぁ、予定は未定で確定じゃないんで。
どうなるかは分からない。

 

ひとまず、次からちゃんとした記事を書けるよう、ワンクッション置くための近況報告でした。

 

では、僕から以上~。

ブログ書く時間がないよ

本日のテーマ  自由帳
正念場を迎えてます

 

どーもー、おりばーです。

 

あのですね・・・・

 

 

 

 

むちゃくちゃ忙しい。

実は昨日、全授業日程が終了したのよ。

いよいよ大学院生としての生活も、残り僅かになってきたわけで。
寂しさが込み上げてくる。
このまま、一生勉強してたいなー、なんて贅沢なこと思ったり。

好きなことを学ぶ喜びって、スゴイ。

それを、高校や大学で出会わせてあげられない今の教育は、勿体ないと思う。

勉強が好き、なんて言ったら「ガリ勉」だとか、ネガティブに捉われがちだけど、好きなことを学ぶのって、もはやただの趣味だよ。

僕は、今の趣味をずーーーっと続けたいなーなんて。

まぁ現実はそんな甘くないんだけどさ。

 

授業は終わっても、ここからの一ヶ月がまさしく正念場。

論文と毎日向き合って、少しでも良いモノを完成させたい。

自分が納得の行くモノに仕上げたい。

まぁ、そんな状態なので、今後もしばらくは更新頻度が低くなりそう。
ストックしてある記事は15個くらいあるんだけど、勢いで書いたものも多いから論文が落ち着いてからまた普段のペースに戻せたらいいなと。

なんだかんだ、ブログ書くの好きだしね。
続けたいとは思っとります。

 

それはそうと、ブログから離れていれば離れているほど、ブログに戻って来づらくなるね。
なんなんだろう、この現象。
一週間も書かないでいると、書きたくても書けなくなってくる。

 

ブログの書き方。

忘れちまったよ。

 

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では、僕から以上~ってね。

日本人を避けることが留学をより良いものにする訳では無い

本日のテーマ  
孤高の留学生

 

どーもー、おりばーです。

 

留学先大学のクラブ、サークル、学生団体。
何かに所属して知り合いを作りたいな~と思うはず。

どこに入ろうか迷っている時に、とても不思議な現象が起きていることに気が付く。

香港クラブには香港出身の生徒が集まる。
コリアン・ソサエティには韓国出身の学生が集う。

でも、ジャパニーズクラブには日本人が一人も居ない

漫画やアニメなどの日本文化に興味のある学生が集っているものの、「日本人」は見当たらない。
これは、何も僕の通っている大学に限ったことではないと思う。

留学や渡航経験者なら誰しもが一度は考える、現地での日本人との関わり方

「日本人を避けて、英語漬けの生活をするんだ!」という目的意識が、必ずしも留学を良いものにするわけでは無いということについて、今日は一緒に考えていこう。

 

日本人と過ごす時間は勿体ない?

 

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「わざわざ留学してるのになんで日本人ばっかりと遊んでるの?」
語学留学や「遊学」と揶揄されるような留学に対する批判で良く耳にする言葉だ。

語学力の上達を目標としている留学ならば、日本語ばかり使っていては勿体ない。
自分から積極的に外国語を使わざるを得ない環境に飛び込め。
日本人と居ると日本語に甘えてしまう。
もっと自分を追い込め!!

おそらくそのような気持ちが結果として、「日本人を避ける」という心理に繋がるのだろう。

日本語に甘えたくない!
もっとがむしゃらに外国語を使いたい!
そう思うのなら、好きなだけ英語でも何でも使えばいいさ。
チャレンジする覚悟というのは確かに留学において貴重なスキルだ。

でも、「日本人を避ければ英語が上達する」わけではない
過酷な環境に身を置けば、自然と言語が上達するだなんて思わない方が良い。

practicemakesbetter.hatenablog.com


英語を上達させたければ英語を好きになろう
英語を話す人を好きになろう
そして、自分と同じように、そんな英語を学ぼうとしている者たちを好きになろう

忘れてはいけない。
留学先で出会う日本人は言語習得の邪魔をする敵なんかじゃないんだ。
同じ目標を持ち、そして似たような悩みを持つ大切な仲間だ。

別にずっと一緒に居る必要なんてない。
チャンスがあるときは積極的に自分の安心できるゾーンの外に出てゆけば良い。
でも、いざと言う時に戻って来れる安心できる場所も、留学においては必要なものさ。

 

排他的になることにメリットなんてない

 

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日本人と一緒に居たくない。
日本人と関わりたくない。
日本語を使いたくない。

そうやって排他的になることは、結果として自らの交流の機会を削ってしまっている。

日本人との交流の時間は別に無駄じゃない。
そこから広がる人脈で思わぬ人や交流の場に出会えるかもしれない。

自分を甘やかしたくないというその気持ちは立派だ。
どんどん自分の意志でチャンスをつかんでゆけばいい。

でも、折角そんな立派な志を持っているのなら、「日本人を避ける」なんて極端なことにエネルギーを無駄に使わないで

自分を追い込んで、追い詰めて、逃げ道を奪う。
過酷な環境を自分で作り上げて、その「環境」に任せて自分を成長させようとする。

「自分を追い込めること」が強さなんじゃない。
「その先の目標が見えてる」ことが大事なんだと僕は思う。

何のための留学か。
何のために言語を学ぶのか。
それがハッキリわかっているのなら、「環境」に任せなくても自分の力で成長できる。

異文化や他言語の理解を深める為の留学を、自国の文化と言語の否定でしか身につけられないのだとしたら、それは凄く、もの凄く勿体ないことだ。

留学は何も外のモノを学ぶことだけじゃない。
知らなかった世界に触れることで、自分の世界を広め、そして再認識することだ。

外国の文化だって、新しい言語だって身につけてやる!
同じ国から目標を同じくして来ている人たちのことだって、ドーンと受け入れてやる!
それくらいの寛容さを、是非とも持って欲しいものだ。

 

なに人であれ、気が合わない人と関わる暇なんてない

 

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留学は時間制限つきの滞在。

肝心なのは「日本人を避けること」じゃなくて「気が合わない人を避けること」だと僕は思う。

日本人であれ、なに人であれ、気が合わない人と無駄にしている時間なんてないはずだ。
そんな人に「あなた」の貴重な時間を浪費されるのはあまりに勿体ない。

日本人の集団と一緒に居て楽しいけど、なんだか「日本語ばっかりしゃべってる」という罪悪感があるのなら、思い切って日本人同士で英語で話してみるのもアリだ。

全員、あなたと同じ学習者なんだから、互いに助け合えばいい。
一人では行く勇気がないイベントやパーティーも、日本人の友達と一緒なら行きやすい。

そうやって互いを頼りながら社交の場を広げればいいんじゃないかな?

 

結局は至極単純な話だと思うよ。

一緒に居て楽しく思えない人とは、一緒に居るべきではない。

たったそれだけのこと。

それは日本人だろうと、なに人だろうと関係ない。
気が合わない人と過ごしてる暇なんて、留学には無いんだ。

 

結論!日本人嫌いになっちゃあ意味が無い

 

留学に行くモチベーションなんて、人それぞれ。
そりゃ志が「あなた」とは違う人だって居るだろう。

留学がより身近な選択肢になっている現代において、今までの「留学」では考えられなかったほどに、留学先で日本語・日本文化に漬かっていられるようになったのも事実。

日本の友達とスカイプする。
ユーチューブで日本のお笑いを見る。
アジアンスーパーに言って日本食を食べる。

でも、そういう海外で触れられる「日本」も、とっても大事なものさ。

留学で寂しくなったとき。
日本語が恋しくなったとき。
人間関係で辛いことを経験したとき。

そういう時にとても力になってくれる。

 

日本人を避け、自分を追い込むことでしか何かを得られないと思うのなら、それは間違いだ。

留学は「外」の世界を知ることで自分の「内」なる世界を再認識・再定義する為の旅

外国を知りたいからと言って、日本を否定しないといけないような狭い許容範囲なのなら、それは成長じゃなくむしろ退化しているとさえ言えるんじゃないかな。

 

折角日本を飛び出して羽ばたきに来たのなら「日本人を拒む」という別の殻に閉じこもらないで。

 

どんとこい!

その気持ちがあれば留学はもっと楽しくなる。

 

では、僕から以上っ!!

 

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practicemakesbetter.hatenablog.com

 

「仕事で英語を活かす」は職場の「英語担当」になることではない

本日のテーマ  
「ほら、外人だよ、英語使えよ」

 

 

どーもー、おりばーです。

「英語を活かせる仕事に就きたい」
「英語を活かせるバイトをしたい」

そう思う人って結構多いんじゃないかな?

英語を日常的に使うことで、より上達させたいという人。
英語が自分の強みだから活かしたいという人。
英語を忘れないために使い続けたいという人。

理由は個々人によって違うだろう。

求人サイトでも「英語が使える!」という風に宣伝されているものが多い。

英語を活かしたいと思った僕は、大学時代にそんなバイトを探して掛け持ちしていたんだけど、どの職場においても、「英語を活かせなかった」という話をしたいなと。

そして、そんな経験を参考に、「英語を活かせる仕事・職場」とは何かについて考えてみよう!

 

英語を使うと白い目で見られた予備校バイト

 

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英語を活かしたい。
教師になりたい。

そう思った僕は、迷わず「予備校の英語講師」のバイトを始めた。

僕が入ったのは地元の小さなマイナー予備校。
他の講師は学生のアルバイトとフリーターが数名。

よほど英語講師が少なかったのか、高校英語の大半を僕が担当することになった。

生徒とも打ち解け、生徒の英語の成績も着実に伸びていったため、僕は充実感を覚え始めていた。

でも、ひとつ、とても気になることがあった。

英語を使うたびに周囲の講師から白い目で見られるのだ。

勘違いしてほしくないけど、僕は別に不必要に英語を見せびらかしてた訳じゃない。
日本での生活が長い僕は、無闇に英語を人前で話していけないことくらい理解している。
(その暗黙のルールが良いか悪いかは別にして、もう慣れた)

でも、英語を教える以上、英語を使わないといけない場面が多い。
というより、英語を使わずに教えることなんて出来ない。
わざと発音を崩したら、間違った発音を生徒に教えることになる。

なのに、英語を発話する度に「調子に乗りやがって」という目線が他講師から飛んでくる。

「英語を使うことに対して気を使わなきゃいけない」
その時点でここは「英語が活かせる職場」ではなかったのだ

英語を使うことで変な目で見られる。
英語を使うと「カッコつけ」だと思われる。
英語を必要最低限のとき以外、使わないようにしなくてはならない

そんな仕事は、「英語を活かす仕事」なんかじゃない。
ただの、「たまに英語を求められる仕事」だ。

「おりばー君、ここの発音ってこれで合ってる?」

僕は、同僚から英語を極稀に求められる、「便利な英語屋」でしかなかったのだ。

 

「外人来たぞ、お前話して来い」のホテルバイト

 

友人から紹介され、ほぼ同時進行で始めたのが、ホテルでの接客バイトだった。

派遣会社を通し、シフト制で各地のホテルにて接客や受付をする。
外国の人が利用するホテルや、外国の人が利用するパーティーホール。
英語が必要なイベントには、派遣会社側から結構お呼びがかかっていた。

英語を使える!
英語を活かせる!

そう思ってホテルに向かうと、現実はそんなに優しいものではなかった。

英語での電話がきたら受付に呼び出されて電話対応。
外国の方が来たら呼び出されて通訳兼案内。

確かに、英語を使える機会はそこそこ多かった。
役に立っている実感もあったから、そこまで嫌な気分でもなかった。
いざという時に「必要とされている」という感覚が嬉しいと思えることもあった。

でも、
「おい、外人さんだぞ。お前が対応して来い。」
と言われて駆り出されるのは、決していい気分ではなかった。

とりあえず「英語」が関係する仕事は全部僕に回せばいい
そんな風に上司から思われていたのだろう。

結局、この職場でも「必要最低限の時だけ英語を求められる」という立場は変わらなかった。

派遣だから仕方ないけど、僕は都合のよい「使い捨ての通訳」でしかなかった。

 

英語を「活かせる」職場とは?

 

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僕はどちらの職場でも英語を使ってはいた。
英語が必要とされる時に活躍も出来た。
そういう意味では、英語を「使う」仕事をしていたのかもしれない。

でも、僕が思う「英語が活かせる職場」は、「英語が存在して当たり前の職場」のこと

別にそれは社内の公用語が英語ということではない。
全員が英語でやり取りをしている職場ということではない。

どちらかと言うと、
英語を使う人に対する理解のある職場。
英語という言語に対して偏見や過度な抵抗感のない職場。
英語というツールを使える人が自分一人だけじゃない職場。

英語関連の仕事は全部この人に回せ!
そんな風に「英語担当」にされるような職場は、英語を「活かせる」場所とは言えない。

英語でのビジネスメールは全部あなたが。
外国人の来訪者の対応は全部あなたが。
外国の取引先との会食での通訳はあなたが。

確かに、役に立つことは出来る。
そして、頼られているという気持ちになることも出来る。

でも、「英語」と付く仕事が全部回ってくるような職場で、あなたはあなたの思うように英語を「活かせて」いるのだろうか?

 

僕は仕事で英語を「活かしたい」。

英語をたまに使うとかではない。
困ったときに頼りになる「歩く辞書」になるつもりもない。
外国人が来たときに使える「お手軽通訳」になるつもりもない。

英語を自分磨きのスキルとしてじゃなくて、仕事に必要なツールとして使いたい。
そして、そんなツールを使うことに対して引け目を感じるような職場には居たくない。

英語を「使う」ことが目的じゃないんだ。

そのスキルをただ持っているだけで評価されるような職場に、僕は就きたくない。

結論!職場の「英語担当」なんてもう嫌だ!

 

英語は好きさ。
いや、大好きさ。

でも、「英語が出来る」という評価だけで生きてゆけるような仕事にやりがいなんてない。

英語が出来たとして、それを仕事でどう「活かす」のか?
その活用の場を与えてくれる職場に、僕は就きたいな。

英語で行われている会議のメモを英語で取ったら上司にビックリされた
なんて話を同期から聞いて、なんともやりきれない気持ちになっている。 

ボストンキャリアフォーラムとかで留学生や帰国子女を対象に求人を出しながら、入社した結果一切「英語を使わせない」空気の会社を、僕は許せない。

まぁ、そんなケースばかりじゃないと信じたいけどね・・・。

 

あ、最後に愚痴を言うとしたら。

英語を「活かせる」仕事を提供するわけでもないのに、求人に「TOEIC700点」とか適当に要件付けるの、止めてもらえます?

 

では、僕から以上っ!!

 

「定年まで働く」のは当たり前のことなのか?

本日のテーマ  
人生の半分は「仕事」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

今日は英語や文化じゃなくて、教育について少し話したいなと。

中高の進路指導、大学でのキャリア教育において、職業選択の重要性を強く訴えることが多い。

どの大学に行くのか、どの学部で学ぶのか。
何の職業を選ぶのか、どの会社で働くのか。
それらの選択はすべて繋がっていて、人生の中でも1・2位を争う大きな決断となるだろう。

「20歳そこらで選んだ道によって、定年の60歳~65歳までの人生が決まる!!」
「だから進路選択・就職先は本当に慎重に選べ!!」

僕の通っていた高校の進路指導の教師がいつも言っていた言葉。

でも僕はふと思った。

労働の形がどんどん多様化して、それに伴い「生き方」すら日々変化している現代において、「定年まで働く」ということを当然の事のように扱っていいのだろうか?

もちろん、定年まで働くことは義務ではない。
65歳定年も、「希望する人は65歳まで雇用を義務化」という言わば企業側の義務だ。
労働者が60~65歳まで働きゃなきゃいけないという話ではない。

でも、僕が受けた教育の影響なのだろうか。
頭のどこかで「まぁ60過ぎまで働くよな」と何となく受け入れてしまっている
その発想を漠然と持っている人は僕だけじゃないと思う。

 

今日は、そんな自分へ言い聞かせる意味も込めて、「定年まで働く」以外の道を示す進路指導・キャリア教育の重要性について考えてみたいと思う。

 

 

進路選択という「人生の大きな決断」

 

よく言われる話からはじめよう。

進路選択・キャリア選択がなぜ大事なのかについて話すこちらの3分のビデオを見てほしい。

youtu.be

まぁ言っていることを要約すると、

  • 20歳前後での選択が65歳までの人生を決める!
  • だから進路・仕事の選択は慎重に!
  • 自分の好きなことに捧げる人生にしよう!

まぁドラマチックな音楽で盛り上げつつ内容は至って普通のもの。
ようは、好きなことを仕事にしよう、という話だ。

確かにこのように図解で示されると、ハッとする生徒もいるかも知れない。
高校、大学での選択が、自分の人生のこんな大部分を占めることになる。

考えてみたら結構恐ろしい話だ。
好きなこと、自分のパッションがまだ見つかってない人はどうすればいいのか?
仕事を始めて2~3年で、仕事が自分に合わないと苦しむ人はどうすればいいのか?
このひとつの決断が自分のこの先の40年を決めるとなると、かなりのプレッシャーだ。

高校・大学生の時期に感じている自分の「興味」が実際の職業として40年も継続する保証なんてないし、自分が今まで生きてきた倍以上の期間を一つのモノに捧げる勇気なんて、冷静に考えれば持てるわけがない。

 

仕事のあり方、生き方はどんどん多様化している

 

でも考えてみると、別に定年まで何かひとつの職業・職場に縛られるわけではない
同じ職種に就きながら職場を変えることも出来る。
なんなら職業そのものを変えることも可能だ。
40・50歳になってから大学院に行ってもう一度「学生」になることもできる。

グローバリゼーションに関する著書を多く出している僕の教授曰く、

"Jobs", in the way we think of them, will probably last for less than 10-20 years. Not that robots will take over. The whole system and meaning of "labour" is changing.


僕らが考える従来の意味での「仕事」はせいぜい10~20年そこらで消滅するだろう。ロボットに仕事を奪われる、というわけじゃない。社会が変わっていくことで、求められる「労働」の仕組みも意味もどんどん変わっているんだ。


今の時代において、働き方・お金の稼ぎ方なんて一つじゃない。

在宅でできる仕事も増えていれば、パソコン一つで出来る仕事も増えている。
ブログなんてまさしくそうだ。
企業として、じゃなくて個人としての情報発信でお金を稼げる。
従来の意味でのオフィスや工場を必要とする「労働」とはだいぶ変わってきている。

ユーチューブでの有名人なども同様だ。
大手のテレビ局がやっているような番組企画、エンタメ作りを個人やチームで行っている。
十数年前からしたら、考えられないような仕事が今は次々と出てきている。

生き方だってそうだ。
結婚しない、子どもを産まない「若者」がまるで軟弱者のように扱われている
恋愛下手、「コミュ障」、草食系。

確かに一世代上の人からしたら信じられないことなのかもしれない。
でも、僕らは生まれた時代も、これから歩まなきゃいけない時代も全く違う。
生き方が違うからと言って、それが「不幸」だとどうして思うのだろうか。

「人生の先輩」から学ぶことは確かに大事だ。
でも、国際社会も日本国内も常に変化している以上、僕らの「生きる知恵」や「常識」がいつまで通用するかなんて誰にもわからない。

2017年に生まれた子が歩む道は、僕らには未知数なんだ。
同じ時代に生まれて、同じ環境に生まれたわけでもない以上、いつだって子どもの未来は「前例がない」ということを忘れてはならない。

 

「これまでの時代」のために育てても意味がない

 

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教育において大事なことはなにか。

それは教師たちの歩んできた「これまでの社会」と子どもたちが歩む「これからの社会」が違うということをしっかりと大人側が理解することじゃないだろうか。

自分たちの時代で上手く生きてゆける子を育てる。
それではダメだということだ。

その子たち自身が今後歩んでゆく、未知数で、未体験の時代に備えなくてはならない。

それは簡単なことではないと思う。

でも、大人側が自らの発想を変えることは決して難しいことではない

働き方も、生き方も多様化している。
自分たちの時代では考えられなかったようなことが起きている。
それらを否定したところで意味がないことを分かるべきだ。

ブログで稼ぐなんて、「ちゃんとした職業」じゃない?
ユーチューブで稼ぐなんて、ただの遊びで、仕事とは認めない?

時代は常に変化して行っているのに、こういう「従来の労働」という枠からはみ出た稼ぎ方をする人を、多くの人が叩き、批判する。
では、朝決まった時間に毎日オフィスに行って、結局は自宅で済む仕事を、考え方も価値観も違う人たちとデスクをつき合わせてこなすことが、果たして本当に「ちゃんとした仕事」なのか?

在宅で出来る仕事を、簡単な仕事、楽な仕事だと決め付けてはいけない。
ましてや、「ちゃんとした仕事」じゃないと決め付けるのはナンセンスだ。

 

「定年までの人生を後悔させない進路指導」ではいけない

 

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働き方も生き方も変化している時代の中で、「定年まで働く」を普通のことにすべきではない。

これまでの進路指導・キャリア教育の多くは、「定年までの40年間を後悔しないように、入り口時点での選択をしっかり考えさせる」というものだった。
でも、今後はそれだけではいけないと思う。
どうして「定年まで働く」ありきの教育なのか?

僕が思う、これからの進路指導・キャリア教育。
それは「卒業後に歩める様々な進路の可能性を提示する」ものであるべきだ。

在宅での仕事も可能性だ。
主婦や主夫も可能性だ。
結婚しないことだって、家族を持たない事だって可能性だ。
定年まで働きたいと思う程の職に出会えたのなら、それも当然ひとつの可能性だ。

大企業で働いて、定年退職または寿退社して、余生を過ごす。
そんな考え方に縛られる必要なんて、一切ない。

好きなことをやるタイミングに、決まりや期限なんてない。

20代で仕事をやめたら軟弱者か?
それが自分に合わないと思ったらどうしようとその人個人の自由だろう。

大学卒業までにパッションを見つけなきゃいけないのか?
30、40歳で好きなことが新しく出てきて、それを追うことの何が悪い。

「従来」という発想に縛られ、60歳まで縛られた人生だと思わせるような教育をすべきではない。
「少しでも楽しいと思える40年間にしよう!」という発想からいい加減離れよう。

 

結論!"Work to live, not live to work"

 

僕らは生きるために働くのであって、働くために生きているわけじゃない。

そりゃ好きなことを仕事に出来たら幸せな人もいるだろう。
でも、「好き」が仕事になると、途端に辛くなることだってある。
好きゆえに際限なく頑張りすぎて、燃え尽きてしまうこともある。

 

"Time is precious" (「時間」とは貴重なものだ)

冒頭での YouTube の動画のメッセージ自体は正しいだろう。
でも、「時間」が貴重なのは、20代での決断がその先の40年を決めるからではない。

「時間」が貴重なのは、それは「あなた」だけのものだからだ
誰かが「あなた」の代わりに使うことなんて出来ない。
「あなたの時間」を「あなた」がどう使おうが、それは個人の自由。

だったら「60過ぎまで働いて」、と当然のように人生設計をせずに、今の「あなた」がやりたいことをもっと考えてもいいんじゃないだろうか?

40年も縛られるという発想を捨てれば、失敗や後悔をする時間なんて幾らでもあることが分かる。

「やればよかったな」「やりたかったな」を「余生」と呼ばれる時まで温存する必要なんてない。

「従来」の発想や意見に縛られるな。
だって「これから」歩む人生は「これまで」のものとはまるで違うんだから。

そして人を導き、指導する者は自分たちの「これまで」に囚われてはいけない。
その子たちの「これから」を一緒に考えてゆける人になろう。

 

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photo credit: Luca Serazzi Time via photopin (license)

"Time IS precious"
(「時間」とは本当に貴重なものだ)

 

 

では、僕から以上っ!!