帰国子女の悩みドコロ

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帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

「アジア人」という言葉で差別を考えていいのだろうか?

メディア
本日のテーマ  
あじあじん

 

どーもー、おりばーです。

先日、フェイスブック上で知人がシェアしていた記事がとても気になった。

toyokeizai.net

今日はこの記事を軸にして、
「アジア人」という言葉を使うことの問題点
そして差別を訴える為に他の差別を生み出す危険性について一緒に考えて見よう。

 

記事の内容について

 

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ユナイテッド航空における「アジア人」男性の引きずりおろし事件を起点に、米国における「アジア人」への人種差別について丁寧にまとめてある。
興味深い記事なので、是非読んでみてね。

「アジア系」の見た目に生まれた人が遭遇する差別については僕も同感。
#thisis2016についての記事でも似たテーマのことを書いた。

practicemakesbetter.hatenablog.com
"Asians" とひとくくりにされて、バカにされる。
見た目で判断されて、偏見やステレオタイプを押し付けられる。

筆者の「アジア人は結局、米国で差別されているのか」という問い。
それに対する僕個人としての答えは、「はい」。

差別を体験したことなんて数えきれないほどあるし、現在の留学先でも似たようなものだ。
僕が「アジア系」の見た目で無くなることなんて一生ない。
何年英語圏に住もうが、第一印象では "Asian" なのは一生変わらない。

 

「アジア人」という言葉

 

内容には賛同するけど、記事を読んでいる中で物凄く気になったことがある。

人種について問題提起する一方で、「アジア人」という言葉については特に説明がない

文化も慣習もまったく違うバックグラウンドであっても、「アジア系」はアメリカでは一くくりだ。

とアメリカ社会における大雑把なカテゴリー化を批判しつつも、筆者は文中で当然のように「アジア人への差別が~」と述べている。
差別の現状を訴えている一方で、筆者自身もその言葉の枠組みに囚われてしまっている。

アメリカには、「マイクロアグレッション」という言葉がある。
これは自分とは異なる人種・文化背景の相手に対して、発言者が相手を傷つける意図なく、発した言葉の中に人種や文化に対する偏見や差別が含んでしまうことによって起こる「些細な攻撃」を指す。

筆者の記事も一種のマイクロアグレッションになりかねない。
つまり、筆者は悪気があるわけでは全くない。
でも、文章の組み立て方、論じ方がすでに「アジア人」という枠に頼ってしまっている。
差別を訴える過程で、自らもそのカテゴリー化をしてしまっているのだ。

日本
中国
韓国
インド
マレーシア
シンガポール
ネパール
ベトナム
モンゴル
タイ
インドネシア

などなど、アジアと一言で言っても様々。

1つの国の中でさえ文化や慣習が地域や地方でまるで異なるのに。
これらのあらゆる国の人を全て「アジア人」にまとめてしまう。
全然違う人たちのことを、まるで同じであるかのように扱ってしまう。

それは、僕自身も含め、多くの人が無意識にやってしまっていること。

「アジア人への差別が~」と言う前に、その「アジア人」に含まれる僕ら自身が、いま一度その言葉の意味を考えてみた方が良いのかもしれない。

悪意のないマイクロアグレッションのようなものであれ、直球な差別的発言であれ。
差別が存在する事実を否定するつもりは一切ない。

でも、そんな差別の「被害者」という立場で話をする前に、自分たちの使っている言葉にももっと注意を向けるべきではないだろうか?

「アジア人」と何の疑いもなく使うことで、自らそのカテゴリーを受け入れてしまっている。
僕ら自身が差別を再生産してしまっている。

 

差別を訴える過程で他の差別を生み出すな!

 

また同様に。

差別への声を上げる過程で、他のグループへの差別を生み出してはならない

僕はこの記事のYahoo!ニュース版のコメント欄を見て、心底ガッカリしている。

headlines.yahoo.co.jp

「白人の国では差別が多いね」

「白人はすぐ差別するので嫌いです」

※あくまでも記事本文ではなくYahoo!ニュースのコメント欄の内容。

などと言ったコメントが(4月21日現在)多くの共感を集めているようだ。

人種差別とは、個人を見ずに、まるで全員に共通する特徴があるように決めつけること。
偏見で人種・民族全体を判断して、差別してしまうこと。

ならば、これらのコメントは人種差別そのものではないか。

「アジア人」への迫害や差別を訴える過程で、「白人」への差別を生み出している
これでは全く意味が無い上に、健全な議論になるはずがない。

 

「アジア人はみんな〇〇だ」
という差別的な扱いが気に入らないからと言って、
「白人はみんな〇〇だ」
なんて言い返していたら意味なんてないよ!

「アメリカ人ってレイシストばっかりだよね」
という発言がそもそもレイシズム(人種差別)だという事に気づくべきだ。

 

見た目の違いは無くならないけれど


差別に立ち向かうことは大切なこと。
SNSやデモ運動などを通して、人々の人種への考え方もどんどん敏感になっている。
だからこそ、「黒人」「白人」「アジア人」という発想をそろそろ辞めるべきではないだろうか?

そこに何の違いもない!なんて話では無い
どれだけ人種差別に反対したとしても、見た目の「違い」があることは認めざるを得ない

大事なのは、その見た目に対して特徴や価値を関連づけないことだ。

「黒人は低所得者や犯罪者が多い。」
「白人は人種への意識が低い特権階級だ。」
「アジア人は結局は白人には敵わない。」

そういう発想を辞めなければならない。

見た目の違いは確かに存在する。
でも、その「見た目」に特定の価値や優劣を与えるのは僕らの社会・メディア・教育。
見た目の違いは見たら明らか。
でも差別は学習されてゆくもの
「黒人」に犯罪者が多いと思うのも、「アジア人」が「白人」より劣等だと思うのも。
どれも生まれた時から備わっている感情ではない。
学び、受け継がれていくものだ。

 

だったら、「アジア人」という言葉を見直す時なのではないだろうか?
「アジア人」というカテゴリーに属する僕ら自身がその言葉を無条件に使ってしまっている、その現状を変える時ではないだろうか?

「アジア人」なんて人種はないんだ。
「アジアン」なんて言語は存在しないし、「アジア」全体に共通している文化もない。

差別と闘う過程で、自ら差別を再生産してはいけない。
ましてや、他の差別を生み出してもいけないんだ。

 

結論!差別を訴えるなら自らの言葉にも注意しよう!


東洋経済オンラインの記事の内容が間違っている!と言いたいんじゃないんだ。

大事な点を話題に上げているし、良くまとまっていると思う。
でも「アジア人」という言葉を平然と受け入れてしまっていては、僕らは差別され続けるだろう。

差別と闘ってゆくのならば、まずは自分たちの使う言葉から見直してもいいんじゃないかなって。
そう、思ったのでした。

そして、アメリカでの差別うんぬんよりも、「白人はレイシストだ」なんてナンセンスな意見が共感を集めている現状の方をもっと問題視すべきだと思うんだけどな~。

 

では、僕から以上っ!!

大学図書館内の飲食について納得がいかないこと

雑記
本日のテーマ  自由帳
図書館と飲食

 

どーもー、おりばーです。

留学先は現在イースター休暇の真っ最中。
大学院の図書館も閉まってて研究のスイッチがまーったく入らない。

 

というわけで、今日はただの雑記。
あんまり雑記を書かないけど、ホリデー脳でマジメな記事を書く気力が無いもので。
読者の皆さんお許しくださいませませ。

 

「図書館が閉まっている」というわけで、今日のテーマは「図書館」

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大学図書館について、納得いかないことがある。
それは、図書館内における「飲食」について。

僕が通っている大学院の図書館における飲食のルールはこのようになってる。 

基本的には飲食禁止。例外として以下のものを認める。

① 大きな音を立てないもの
② 匂いが強くないもの

水筒のお水を飲むくらいならばOK。
チョコレートをササっと口に入れるのもまぁOK。 

バリバリと音を立ててポテトチップスを食べるのはダメ。
ピザなどの匂いのするものを食べるのも当然ダメ。

単純明快で、わかりやすいルールだ。

まぁ図書館という場所だから基本的に飲食禁止なのは当然だろう。
むしろ図書館内で食事を取ろうなんて思う方がおかしいと思う。
けど、こっちの学生さんは結構ランチボックスを広げてパクパク食べている。

サンドイッチだったり、夕飯の残り物っぽいものだったり。

でも、基本的には音の出ないもの、匂いのしないもの、というルールに沿った範囲内で、申し訳なさそうにコソコソ食べてる。

だから別になんとも思わない。

食べる間も惜しんで勉強しなきゃいけないという気持ちは分かるし、応援したくなる。

僕も研究に行き詰った時は、チョコレートとかグミをコッソリ食べる。
もちろん、申し訳なさそうに、コソコソと。

 

問題なのが、「リンゴ」だ。


僕の留学先は、お洒落さんな学生が多い地域で、

ベジタリアン
ヴィーガン
マクロビアン

などの、食にこだわりを持っている人がとにかく多い。
アレルギーや体質のせいではなく、信条やダイエットとして自主的にやっている人ばかり。
オーガニックという言葉が妄信的に崇拝され、最先端のお洒落フードに目がない。
(その割には肥満体系の方が非常に多いんだけどね)

そういう人は、
ジャンクフードなんて!
ファストフードなんて!
という感情がとても強く、一緒に食事をするだけでも気を使うことが多くて疲れる。

以前住んでいたシェアハウスの同居人もヴィーガンで、もう気を使いっぱなし。

そんなお洒落さん御用達のおやつが「リンゴ」だ。

そりゃもう、まるかじり。
皮ごとバクっと。

そしてこのまるかじりってのが、ものすごい音なんだ。

パク?
シャリ?

そんなもんじゃない。
新鮮なリンゴを、皮ごとバクっと食べたときの音はそんなかわいいもんじゃない。

 

 

ガッポン!
ボッキュン!!
ガップリン!!!

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肉片がエグり取られるようなおぞましい音。
生命が散ってゆく音。

そしてまだ新鮮な果肉を、歯ですり潰してゆく。

ガシュ!ガシュ!
ゴリュ!ゴリュ!

おぞましい音を立てて、リンゴは咀嚼されてゆく。

普段ならばそこまで気にならない音だろう。
でも、図書館の静寂の中では、この音がまるで道路工事のように響き渡る。

うるさい。
うるさすぎる。

  

そんな音の大きさを、百歩譲って許したとして、それでも納得いかないのが・・・
彼ら彼女らの「ドヤ顔」だ。

コンクリートを掘削するドリルのような咀嚼音を響かせながら、奴らは清々しい顔をする。

「俺、食べるものにはめっちゃ気を使ってるからさっ!」
「私はオーガニックなものしか受け付けないわっ!」

という言葉が、顔から滲み出ているようだ。

チョコレートやキャンディーの包み紙の音を物凄く申し訳なさそうに立て、コッソリと食べている学生たちをまるで見下すかのように。
食べているものの栄養価が高いからといって、優越感に浸っている

 

ぜんっぜん納得がいかない!!

 

大学図書館での飲食で大事なのは、音を立てないことと、匂いを出さないこと。
そして何より、堂々としないことだと思う。

原則的には飲食禁止なのだから、仮に小腹が空いたのならパパっと済ませてよ。
人目に付かない形でやってくれよ。
体裁だけでもいいから、せめて申し訳なさそうな素振りをしてくれよ

それを、スナック菓子じゃなくて、フルーツを食べているからという理由で堂々とされる。
優越感に浸った表情で音を立てて、自らの存在を図書館のフロア中に知らしめる。

 

果汁はじけてますけど!?
PCの画面にめっちゃ飛んでますけど!?
本にもかかっちゃいますけど!?

 

栄養価の問題じゃないだろ!!

 

だったら明日から真横でオールブランでもグラノーラでも食べてやろうじゃんか!
ボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリボリ!!!

 

あーーーー!納得がいかないーーーーー!!

 

 

**************** 

という記事を、先週書き溜めていた。
まさに真横の席でリンゴを食べている人が居てムカついたから。

こういう下らないこと書いてるから、研究が進まないんだよなぁ・・・。

下書きに書き溜めてあるいろいろな雑記も、たまには公開してみようかな。
臆病者なので読者さんの反応を見て考えるとしよう。
そうしよう。


では、僕から以上っ!!

努力を続ければいつか英語を「マスター」できるという勘違い

英語
本日のテーマ
英語マスターに俺はなる!


どーもー、おりばーです。

 

「英語を最短でマスターする勉強法」
「たった一年で英語をマスターできる10のコツ」
「英語嫌いの僕が、一ヶ月で完璧な英語を身につけた方法」

どれも目を引くタイトル。
いったいどんな極意があるんだ!?どんな秘密があるんだ!?
多くの人が食いつくことだろう。

(結局は「沢山努力しろ」という内容のものが多い気がするけど・・・)

英語の学習法、独自の勉強法を紹介すること自体は素晴らしいと思う。
他の学習者を見習って、自分も頑張ろ!という気持ちになれるならそれで良い。

 

でも、僕にはずーーーっと気になってることがある。

 

英語を「極める」「マスターする」「完璧にする」って、可能なのだろうか?
どこまでいけば、僕は「完璧な英語」を身に着けたことになるのだろうか?


多くの第二言語学習者が無意識に目標にしてしまう「完璧」。

実はその目標、どう頑張っても達成できない。
どう頑張っても達成できない目標は、それだけで学習意欲を削いでゆく。
そのトラップに他の人が落ちてしまわぬように、今日は一緒に考えてみよう。


「ネイティブのような完璧な英語を目指さなくて良い」というのもある種同罪なので注意!

(完璧主義さえ止めればすぐに上達する!という記事ではないのであしからず。)

 

 

あなたの日本語は完璧ですか? 

 

英語の話をする前に、日本語について考えてみよう。

「あなた」の日本語は完璧ですか?
知らない単語なんてない、読めない漢字なんてない、と言い切れるだろうか?
試しにこれらの単語の意味が分かるか試してみよう! 

第1問!

最近接発達領域
板書計画
校務分掌

第2問!

曖気
移乗動作

第3問!

三角持ち合い
持ち合い解消
無配転落

第4問!

まじメンディー
まじTBS
イチキタ


どうだったかな?

第1問は言語学や教育学を学んだ人にはおなじみの言葉。
第2問は僕が介護体験を行ったときに覚えた介護現場における言葉。
第3問は適当に金融関係でググッた言葉。(一つもわからん)
第4問は若い読者ならわかるかな?(一つもわからん)

人によっては、知ってて当然というものだったのではないかな?

 

正解者に拍手!よくできました!よくできました!(某番組風)

 

専門用語ばっかで、こんなの分からなくて当然?

いやいや。
その分野の人ならば知っていて当然のものばかり。
でもまぁ、ちょっと意地悪な問題だったことは認めよう。

 

何が言いたいのかというと、

母語においても、「完璧」なんてありえない。
ただそれだけのこと。

その理屈でいえば、
「ネイティブ」の英語だって、「完璧」にはなれないんだ。

知らない単語なんてない!
読めない単語なんてない!
僕の言語は完璧だ!

そんなことは、例え母語であっても叶わない。

「若者言葉」と呼ばれるもののように、新しい言葉もどんどん生まれている。
それらを日本語じゃないと言い切ってしまって良いのだろうか?

「ネイティブ」の今時の言い回しとかを凄く気にする学習者が多いのに、日本語の若者言葉は認めないというのはいかがなものだろう。

 

誰だって部分的に流暢

 

僕は新聞の経済欄を読んでもぜんぜん言葉の意味が分からない。
一方で、言語教育に関する学術論文の言葉はすらすら読める。

プログラマーが入院したら、病院で飛び交っている単語の意味なんて分からないだろう。
同じように、医者がプログラミングを始めようとしたら、知らない単語だらけだ。

IQの問題じゃない。

僕らの言語というのは、何時だって「完璧」ではないんだ。
でも、完璧じゃないからといって、日常生活に支障が出るわけではないよね。

会話していて知らない単語が出れば、聞けば良い。
「分からない」ものに出会った時に、恥だと思わずその場でしっかり学習する。
そうすれば「分からない」は「分かる」に変わる。

日々新しい言葉が生まれ、古い言葉は「死語」として忘れられる。
使う人たちによって、言語は常に代謝を繰り返している
使っている人たちが生きている社会が常に変化しているのだから、当然のこと。

「既読無視」
イクメン
ブラック企業

数十年前なら誰も使いもしなかった言葉。
今の時代に必要だから生まれてきた言葉。

 

言語とは何時だって「不完全」で良いんだ。

「完璧」や「極み」という到達点なんて、言語には端から存在しない

 

もちろん、本当に全ての単語を覚える!という意味で「マスター」とか「完璧」を使っているわけではないのは重々承知だ。

でも、そういう言葉を口にしていると、無意識にでも到達点を意識してしまう。

「僕の英語なんて、まだまだ完璧からは程遠い」
「絶対に間違えたくない」

存在もしない「完璧」を目指してしまうと、自分で自分の学習を苦しいものにしてしまう。

 

英語を完璧にするって言わないで・・・

 

ただの言葉遊びだと言われてしまうだろう。

でも、僕は英語を「完璧にする」って言って欲しくない。

英語に限らず、言語学習はプロセスであって、「道」なんだ。
自分が学びたいように学び、自分が使いたい言葉を使う。
自分に必要だと思う範囲で勉強すれば良い。
何も全ての言葉を覚えようとする必要なんて一切ない。

本当に大事なのは、
単語帳をいくつ読破したのかではない。
文章を何分で読めるようになるかではない。
TOEICで何点取れるかではない。

本当に大事なのは、自分がその言語を学びたいと思った理由。

旅行で使いたい。
あの人と話せるようになりたい。
仕事の会議で使えるようになりたい。

その理由こそが言語学習の目標であって、自分が目指すべきもの。
言語学習の目標なんて、人それぞれ違っていいんだ。

言語学習に終わりはない。
ここまでいったら「完璧」なんてラインがない。
だったら最初から100%になろうなんて思わなければいい。

 

覚えておいて欲しい。

言語学習は、常に+1をしてゆく作業。

昨日までの自分に、これまでの自分に少しずつ足してゆく。

その作業に終わりはない。
終わりがあるとしたら、それは自分で「もういいや」と思った瞬間。

俺は英語をマスターした!という人は、もう努力することを辞めてしまった人。
英語を極めた!という人は、もうこれ以上の学習に意味を感じなくなった人。

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"完璧とは、停滞である"

そういう意味では、言語学習に「完璧」はなくとも、「満足」という終着点はあるかもしれない。

でも、興味があり続ける限り言語学習に終わりはない。
コミュニケーションで使いたいと思う限り、話し相手や時代が常に変化する以上、英語が「完璧」になることなんてない。

 

だから焦らず、一歩ずつ進んでゆけば良い。

「完璧」じゃなくて、昨日+1の自分を目指そう!

 

結論!英語は一生「完璧」にならない! 

 

言語を極めるとか、英語を一ヶ月でマスターするとか、もう言わないで!

「ネイティブのような完璧な英語を目指さなくていい!」という記事も同罪
「ネイティブ=完璧」「非ネイティブ=不完全」という前提で話してしまっている。
「ネイティブ」だって完璧じゃないということを忘れてはならない。

 

そういう言葉を使った時点で、不可能なゴールを目の前に設けることになる。
いくらがんばっても絶対に届かない目標に、意味なんてないよ。
自分で自分の学習にハードルを設けないで。

そして、ミスリードを誘うようなタイトルを安易に使わないで。
たかが言葉、されど言葉。
そういうタイトルを読めば読むほどに、自己暗示をかけてしまう。

 

だったら、逆に暗示をかけてしまおう。
心の中で三回唱えよう。

完璧なんてない、完璧なんてない完璧なんてない

 

 

では、僕から以上っ!! 

※ 英語を知識競争にして、あらゆるものに点数をつけて、「英語"力"」という数値化されたパワーを競わせる今の教育も問題だとは思うんだけどね~。

 

関連記事もどうぞ!

practicemakesbetter.hatenablog.com

practicemakesbetter.hatenablog.com

 

パンが「日本文化」になれない理由

メディア
本日のテーマ
朝はパン、パンパパン♪

 

どーもー、おりばーです。

 

www.huffingtonpost.jp 

道徳の教科書における「パン屋」を「和菓子屋」に変更というニュース。
かなり話題になってるね。

教育に関わる者として、日本の外に居る僕も、このニュースには色々と思うところがある。

でも、僕には政治に関する知識も、日本の歴史に関する知識もあまりない。
帰国子女が日本のことを知ったように語るな!
なんてお叱りを受けるかもしれない。

だからこそ、自分の研究分野の「文化」グローバル化いう観点から、自分なりに今回の件について考えてみようと思う。

どうして「パン」が「和菓子」になったのか?


「違い」の中でしか「文化」を定義できないことの危険性
文化の独自性、純粋性を求めざるを得ない「国家」というものの存在

そして、グローバル化の進む現代において、今までの「文化」の考え方にどのように向き合えばいいのかについて、一緒に考えてみよう!

 

 

パンこそ日本の文化だろ!という真っ当な批判

 

僕の両親は僕が小学生のころから共働きだ。

忙しい朝からお米が炊けているなんてことは滅多になく、基本的に朝食はパン。
ヤマ○キ春のパン祭りで当たる「白いお皿」が、我が家には溢れている。

現在留学中の国においても、惣菜パンのお店の看板には "Japanese Bakery" の文字。
あんぱん、メロンパン、焼きそばパン。

パンが日本の食卓の身近にあり、尚且つ独自の成長をとげていることは明らか。

でも、こんなにパンを食べているのに、日本の文化として認めないなんて!
という批判は、今回の件に関してはあまり適切ではないと思う。

というのも、
どれだけ身近にあろうが、何枚パンを食べようが、実はあまり関係がないんだ。
和菓子とパンの消費量や生産量の比較は重要ではない

 

「文化」に「独自性」を求めてしまう

 

文化理論の権威である Stuart Hall(スチュワート・ホール)。
彼は従来の「文化」への考え方について、次のように批判した。

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https://www.theguardian.com/politics/2014/feb/10/stuart-hall

"The object of Cultural Studies ~ is to bring forward the distinctive and unique, often peculiar, experience of a social group" (1983, p.32)

(従来の文化研究は)「独自性」「特有性」、そして時には「奇妙な」、人々の活動や経験に焦点を当てることを目的としていた。

Hall, S., Slack, J. D., & Grossberg, L. (2016). Cultural Studies 1983 : A Theoretical History. Durham : Duke University Press, 2016.


僕らは「文化」という言葉を思い浮かべるときに、無意識に「日本固有の」「日本独自の」 という考えをしてないだろうか?

文化とは、人々の生き方、生活そのもの。

国境や人種が一つの「文化」を共有しているという発想にそもそも無理がある。

日本に住む人はみな同じ「文化」を共有しているか?
日本人ならば全員同じ価値観や考え方をしているのか?

冷静に考えれば、そんなことが有り得ないことくらい、すぐに分かる。

地方と都会でも異なるし、関東・関西でも異なることだろう。
関西ではこうでも、関東ではこう。
日本ではこうなのに、フランスではこう。
違いを面白おかしく、「奇妙なもの」として取り上げるテレビ番組があふれている。

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テレビが日本人をダメにする『世界の日本人妻は見た』出演拒否された友人の話

個人の行動でも「文化」という言葉を使うと、その国の全員に共通した特徴として見てしまう。

国籍や人種に特定の「個性」を当てはめることに無理がある

それでも、僕らは「文化」という言葉を国単位で使ってしまう。
そしてその国を特徴づけるものとして、広く一般化してしまう。

 

「文化」を「違い」の中でしか認識できない

 

どうしてパンは日本文化になれないのか?
その理由は簡単。

日本以外の国でもパンを食べているからだ

文化に独自性・特有性を求めた結果、僕らは文化を「違い」の中でしか認識できなくなっている

アメリカ文化と違う点はどこか。
日本にしかない文化は何か。

他との対比でしか文化を語れなくなっている。

「日本の文化」を考えるときに、僕らは無意識に他との比較をしてしまう。
「日本にしかない」、「アメリカとは違う点」という考え方をしてしまう。
文化の共通点よりも、相違点にばかり興味を持ってしまう。

 

今の僕らの生活を想像してみよう。

僕らはスーツやネクタイを着て、皮製の靴を履く。
iPhone を片手に、洋楽や、英語の歌詞が混じった Jpop を聞く。
昼食はおにぎりやお茶に限らず、紅茶にコーヒー、サンドイッチやパスタ。

僕らの日常は、「日本独自」じゃないものにあふれている。

「文化」が人々の暮らしのあり方だとするならば、スーツやパスタだって身近な僕らの文化だ。

当然パンだってそう

 

「独自性」「他との違い」にこだわる必要なんてあるのだろうか?
起源がどこであれ、僕らは毎日のように多種多様な文化を許容しているのに。

一方で、その「日本特有の」にこだわらざるを得ないものが存在する。

それが「国家」だ。

 

独自性を求めざるを得ない「国家」という仕組み 

 

今の時代において、人、モノ、アイデア、金、あらゆるものが国境を容易く越える。

でも、国境に縛り続けられるものがあるとしたら、それは「国家」だろう

あらゆるものが国という縛りにとらわれず飛び交う時代において、国家」は人々を何らかの方法で団結させなければならない

「日本人」として、まとめあげなければならない。
僕らは「日本人」であって、他の国の人ではないということを示さなければならない。

何が「日本人らしさ」なのか。
何が「日本」を他の国と分けるのか。

それを考えていかなければ、「国家」は成り立たないんだ。

日本人にのみ認められる権利、日本に住む「外国人」には与えない権利。
内と外を分ける何かがないと、「日本」という国が成立しない。

「日本人らしさ」を決めることに、「国家」は常に必死になっている。

そうしたときに、教育に「国家」の思想が反映されることなんて、歴史的に見ても良くあること。
(良いことかどうかは関係なく)

 

「パン」が「和菓子」に変えられたのは、
「パン」が「国のイメージして欲しい日本像」に合わなかったからではないだろうか?

それが出版会社側の意図であったとしても、検定教科書という形で審査しているのが「国家」ならば、どちらの責任かなんて議論に意味は無い


「国家」はいつだって「日本人」を定義しようと必死なんだ。
「純粋な日本人」「純粋な日本文化」を求めて必死なんだ。

でも、外からの影響を一切受けず、日本という国境の中でのみ存在する「文化」なんて、本当にあるのだろうか?

 

Cultural Purity (文化の純粋性)

 

Cultural Purity (文化の純粋性)という言葉がある。 

文化に純度を求めて、ほかとの区別化を図る。
文化の「ろ過作業」とでも呼べばいいのだろうか。

この発想の元だと、「純粋な日本文化」に当てはまらないものは、たちまち「不純物」となる。 

パンやアスレチックは日本文化に適さない「不純物」。

「純ジャパ」という言葉だって似たようなものだ。
日本の外で何かを得るということは、「日本人」としての純度を下げること。
帰国子女も、海外住まいの人も、みな「不純物」。 

「不純物」を取り込んでしまった以上、もう僕らは「純粋な日本人」には戻れない。

そんな考え方が無茶なのは明白なことだ。
時代遅れな考え方だと言い切ってもいいだろう。

でも、「国家」はそんな時代遅れな発想にすがるしかない。

グローバル化が進み、人々が国境や人種を乗り越えて関わりあう一方で、その流れに押し潰されまいと「国家」は逆にナショナリズムを推し進める。

だって、国境の意味が無くなってしまっては、「国家」の意味も無くなってしまうのだから。

 

和菓子には何の罪もない

 

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最後に。

時代が変わって、パンが身近なものになっても、それは和菓子を否定することにはつながらない
毎日着物を着なくなっても、着物というものが日本人にとって大切なことであるのは変わらない。

夏祭りの日、年に一回だけ戸棚の置くから着物を取り出すときのあの高揚感。
あの特別な気分があり続ける限り、着物や和菓子というものの「価値」は変わらないと思う。

その気持ちは、パンを何枚食べたところで、毎日スーツに袖を通したところで、変わらない。 

パンの重要性を主張するために、和菓子を批判するようなことになっては意味がない。

 

結論ってほどのものはないんだけど・・・

 

「伝統」って、なかなか難しい。

人々がそれに価値を見出し、後世に伝えてゆく努力をしてゆけば、「伝統」は途絶えない。
でも、グローバル化による急激な生活様式と価値観の変化によって、「伝統」が途絶える危機にあることも事実。

それを国が「道徳」という形で子ども達に教え込み、評価することが正しいとは思えない。

でも、国が必死になって「日本らしさ」を定義しようとしていることには驚かない。
そんなのは日本に限らず、世界中で起きていること。

大事なのは、どれだけその事に僕らが気づいて、声をあげられるか。
今回ここまで大きな反響を呼んでいる点を見て、僕は少しホッとしている。

よく分からないからって、無関心でいることが、一番危険。
分からない ≠ 考えない。

 

僕だって、何が言いたいのかよくわかってないけど、自分なりに考えてみた。
答えもないし、まとまってない。

だからこそ、みんなの意見も聞きたい!
もっと議論されるべき!
そしてそんな議論から学びたいと、そう思うわけです。

 


僕は純粋に、今とても和菓子が食べたい。
十万石饅頭が大好き。
誰か送ってちょーだい。

 

では、僕から以上っ!!

University of ○○ と ○○ University の違いについて

英語
本日のテーマ
英語における大学名

 

どーもー、おりばーです。

 

本日の通学中に面白い記事を見かけた。

lfk.hatenablog.com丁寧にまとめてあって、とても読みやすい!
素敵なブログを見つけたものだ。

その中でこのような文が引用されている。

University of Meiji Tennis Club
いうまでもなく, 明治大学のことを英語で言えば正確な名称は Meiji University であり University of Meiji (明治な大学)という英語はありえない. p82

※ あくまでその一文を見ただけの感想で、文脈全体を把握してるわけじゃない
もしかしたら前後の文で補足してあるのかも??

 

なるほど。
確かに、University of Meiji という表現は不適切かもしれない。

でも、僕は現に University of ○○ という場所に通っている。
バリバリの英語圏でだ。

調べてみれば、University of ○○ なんて調べれば幾らでも出てくる。

んじゃ、University of ~ と ~ University の違いはなんなんだろうか。
そして、そんなことにそこまで頭を悩ます必要があるのか
今日はさっくり考えてみよう。

 

 

University of ○○ の○○に入る言葉のルール

 

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University of ○○ の○○の部分に入る言葉は、何でもOKってわけじゃない。

基本的に二つのパターンがある。

土地や場所の名前

University of London
University of Washington
University of Edinburgh

のように、ロンドンの大学、ワシントンの大学、エディンバラの大学という形ならば、University of ~ で何ら問題ない。
どこも土地の固有名詞が続いている。

その理屈で行けば、東京大学が The University of Tokyo なのも納得がいくだろう。

専門分野 

土地や地名以外にも、専門分野を○○に入れる学校もある。
だけど、その場合のほとんどがその後に場所も明記している。

University of Technology Sydney
University of Electronic Science and Technology of China

○○という専門分野を扱っている大学ですよ。
という風な表現として、of を使うところもある。

でも、専門分野だけだと世界中のどこにあるか分からない。
同じ専門を扱うほかの大学と被らないためにも、基本的には場所も含めた名前になっている。

 

なぜ University of Meiji だと変なのか?


では、なぜ University of Meiji という表現じゃあ駄目なのか?
上の二つのルールに照らし合わせれば、答えは簡単。

 

「明治」という場所にあるわけではないからだ。

 

「明治」という土地に位置する大学でもなければ、「明治」を専門分野として扱っている大学でもない。
上で示したどちらのパターンにも当てはまらないのだ。

University of Meiji Tennis Club となると、"Meiji Tennis Club" の全てに of を繋げられてしまう。
「明治時代のテニスクラブを専門的に研究する大学」と読めてしまう恐れがある。

 

あ~恐ろしい!
今まで何気なく使っていた英語が、こんな大誤解を生んでいたなんて!

と思う必要は全くない。
さて、ここからが本題。

そんな意地悪な読み方する奴はいない

 

確かに、文法や単語のみで判断すれば、そのような変な解釈も可能だ。

でも、実際にそんな読み取り方をする人なんて居ない。

少し変だよね、とクスッと笑えることがあっても、本気で明治時代のテニスを研究する大学だと勘違いする人なんて居るものか。

断言しよう。
そんな奴は100%いない。
居るとしたら、ワザと意地悪をしようとしている人だけだ。

何故かって?

文脈や社会的に構成された知識が言語に意味を与えるからだ。

文法や、文の中の単語だけで文の意味が成り立っているわけではない。
文脈や状況を無視して、一部だけの単語を抜き出せば、そりゃ確かに変なこともある。
でも英語に限らず、僕らの使う言葉は、いつだって使われている状況によってその意味を与えられる。

元の記事のブックマークコメント欄にこんな意見があった。

 

「日本人の英語」は難しすぎる - Letter from Kyoto

「私はたぬき」「僕きつね」「俺山菜」言語には何語であっても文脈というものがありましてね。

2017/04/05 06:20

 

id:drinkmee さんのおっしゃる通り。

うどん屋での注文の場面を想像しよう。
動物のたぬきを食べる、動物のキツネを食べるだなんて思う人はいないだろう。

また、タヌキとキツネが登場する絵本を想像しよう。
「山菜」という奇抜なキャラクターが現れたと解釈できなくもない。
「俺」という言葉から分かるように、「山菜」君は少し背伸びした青年なのかもしれない。

 

たぬき、キツネ、山菜。
これらの単語を、文法と単語だけで解釈する。

それは、文脈が作り出した言葉の意味を全くもって無視してしまう。

このコメントを引用して、日本人はタヌキやキツネを食べる野蛮な一族だ!
なんて本を出そうと思えば出せるのかもしれない。

「ここが変だよ日本人!!」なんてタイトルはどうだろうか。

 

文脈や、社会がその言葉に与えている意味を考えず、一部の単語だけを抜き出して批評しても意味がない。

そして、実際にそんな捻じ曲がった解釈をする人なんてほとんど居ない。 

日本人の英語が笑われる。
日本人の英語は間違いだらけ。

こういう宣伝文句の本はもうウンザリ。

そんな湾曲された解釈をする人なんて居ないのに、学習者の不安を煽って売り上げを伸ばす。
いちいち細かいミスを指摘してくる人なんて、滅多にいないのに。
第一、あいにくな事に僕らは顔を見られた時点で「英語ができない」と判断される人種だ。

practicemakesbetter.hatenablog.com

最初から期待されていないのに、そんな意地悪な解釈する人なんていないよ。

 

アカデミックイングリッシュなら話は別

 

最後にひとつだけ。

この本の著者であるマーク・ピーターセンは明治大学の教授だ。
彼の言いたいことは、何も日常会話における英語の話ではない。
学術論文などに使う、アカデミックイングリッシュについて書いているのかもしれない。

アカデミックイングリッシュは日常会話の英語とはまるで違う。
文法や構造について、専門的な知識が必要だ。

だから英語圏の大学生もアカデミックイングリッシュは自然とは身につかず、しっかりと方法論を学ぶ必要がある。

でも、英語で論文でも書かない限り、そのような英語を使う必要はない。
そのため、確かにアカデミックな英語なら文法や構造が大事でも、それは多くの人が学んでいる英語とは分けて考えるべきだろう。

 

結論!実は僕も人のこと言えない。

 

文脈を考えず、一部だけの言葉を切り取って考えてはいけない。

元の本を読まず、一部だけを切り取って批評している点では、僕も全く人のこと言えない。

なんという特大ブーメラン。
こりゃ参った。

 

では、僕から以上っ!!

P.S. 書き終えてからもう一度ブコメ欄に戻ると、こんなコメントが。

「日本人の英語」は難しすぎる - Letter from Kyoto

大学のofあるなしは「地名かどうか」が基本。だいたい「の」と同じだと思えば良い。「東京の大学」「京都の大学」とは言えるが、「同志社の大学」「立命の大学」とは言えない。

2017/04/05 10:43

なんて的確にまとめてあるんだ・・・。
僕が記事書いた意味、ないじゃんか。
短くても伝わる言葉が書けるって素敵だな~。
id:knagayama さん、見習います。

他人の留学を「遊学」とか「無駄」だとか決めつけるな

勉強 留学
本日のテーマ
「俺の留学の方がスゲーから!」

 

どーもー、おりばーです。

「遊学」って言葉、聞いたことある?

ゆうがく【遊学】の意味 - goo国語辞書

故郷を離れ、よその土地や国へ行って勉学すること。

という本来の使い方とは違う意味が、最近広まり始めているのを知ってた?
最近使われている「遊学」という言葉は・・・

  • 「留学」の名のもとに、ぜんぜん勉強せず「遊び」まくること
  • 目的意識も勉強に対する意識も低い「留学」

のように、「留学」という言葉に「遊ぶ」を組み合わせて作られた造語として使われている。

お察しのとおり、「遊学」はポジティブな意味では使われない。

 

お前の留学なんて、どうせ「遊学」だろ?
全然勉強してなかったくせに留学したとか言うな!
そんなんで「留学した」とか言われたくねーよ。

という感じに、人様の留学をバカにしたり、否定するために使われる。

そんな、本来の意味から離れて悪口として広まりつつあるこの「遊学」という言葉。
今日は、勉強だけが「学び」なのか、そして他人の留学に文句を付ける行動の生産性の無さについて、一緒に考えてゆこう!

 

 

机に向かう時間だけが「学び」なのか?

 

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海外において勉学をする。

確かに、「留学」という言葉の意味で見れば、勉強するという点が大事なのはわかる。
特に高校や大学における交換留学なら、現地での単位や成績がとても大事になる。
留学における勉学の重要性なんて、説明しなくともみんな分かっている。

でも、留学の「学」は何も「勉学」だけではない。

「遊学」とは、勉学に励まず、海外で遊びまわっている人に対する蔑称。
クラブ活動、飲み会、観光。
勉強以外への比重が大きい留学は「遊学」やら「無駄」だと馬鹿にされてしまう。

でも考えてほしい。

授業や教科書から受け取る情報だけが「学び」なのだろうか?
クラブ活動、パブでの交流、観光地を巡ることから得られる「学び」はないのだろうか?

机に向かっている時間が長ければ良いだなんて思っているなら、そんな考えは即座に捨てよう。

授業を静かに聞いて、ノートをとって、宿題やって、テストで良い点とって。
毎日授業にただ出席するだけの受動的な「学び」

自分から積極的に社交の場に出て、会話して、交流して、という能動的な「学び」。

どっちが優れているかなんて議論をする意味も全くない。
勉学をしに海外に来たのならば、思う存分勉学に励めばいい。
友達を作ったり、異国の文化を肌で感じたいと思うのならば、思う存分に社交をすればいい。

「留学」のモチベーションも目的も人それぞれ。
自分が満足できる留学ができているのならば、誰が文句を言おうと関係ない。

 

留学先で勉強することは偉いことなのか?


勉強していない人は遊びたいだけの怠け者で、勉強している自分は偉い?

人に褒められたくて留学をしているのなら、一度目標からモチベーションまで考え直してもいいんじゃないだろうか。

大金を払って海外を満喫しながら、勉強をこなしているだけで褒められる。
留学とは、単純に言ってしまえばそういうことだ。

留学は学びにあふれた素晴らしいものだ。
自分という人間を成長させるチャンスにあふれている。
でも、留学することを「偉い」ことだと考えているのなら、それは勘違いに過ぎない

 

留学を他人と比較する意味なんてない

 

「自分の留学のほうが大変だった」
「自分の留学のほうがすごかった」

自分と他人の留学を比べて、人の留学を馬鹿にすることに意味はあるのだろうか?

留学先で必死に勉強して、毎日大変な思いをしている。
授業も難しいし、課題も多いし、とにかく忙しい。

そんな中、毎日遊ぶばっかりで、全然勉強してない奴がいる。
そいつも同じ「留学生」と呼ばれているのが納得いかない。


その気持ちは分からないわけではない。
留学先での勉強は、本当に忙しく、根性の要るものだ。
自分ももっと遊びたいな~、なんて思う瞬間もあるだろう。

 

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そういう時は、留学に行きたい!と思ったときの初心にかえると良い。

自分が留学をしたい理由は何か?
人生の貴重な時間とお金を使って、わざわざ単身で見知らぬ土地に来た理由は何か?

勉学に励みたいと思っていたのなら、弱音を吐いている場合じゃない。
もっと友達作ったり、ショッピングしたり、お出かけしたり、そういう生活が海外でしてみたかったと思うのなら、ためらう必要なんてない。

「勉学」以外のすべての活動を「怠け」だと決め付けず、勉強と同じくらい「学び」にあふれているチャンスだと考えるべきだ。

他人にどう思われているかを気にしすぎて、やりたいことをやれない「留学」を過ごすのは、それこそ本当に勿体無い。

誰の留学のほうが大変だとか、優れているかなんて、全くもって意味のない比較だ。

気にすべきは、他人にどう思われているかじゃなく、自分が納得しているかどうか。
ただその一点のみ。

 

留学は「学び」の宝庫

 

留学とは、何も海外の言語・文化を学ぶことだけじゃない。

異なる文化を学ぶことは、自分の文化を見つめなおすキッカケになる。
新しい言語を学ぶことは、自分の言語について考えるキッカケになる

海外での「学び」は、日本や過去の自分に対する「気づき」につながる。

そう考えると、留学とはまさに「学び」の宝庫。

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友達と出かけるのだって「学び」。
見知らぬ街で迷子になるのだって「学び」。
授業についていけなくて悔しい思いをするのも「学び」。
ホームシックになって、日本のことを恋しく思うのも「学び」。

「学び」のチャンスはそこら中にあふれてる。

大事なのは、それらの「学び」のキッカケに気づけること。

「学び」は教室の中でしか起きない。
勉強することだけが「学び」だ。

そのような考え方から抜け出そう。
じゃないと自分を成長させるチャンスをどんどん見逃してしまう。

留学に限らず、「学び」は常にまわりにあふれている。
それに気づき、手を伸ばせるかどうかは、何時だって「あなた」次第。

 

ポジティブな嫉妬をしよう

 

「遊学」という言葉を使う人の中には、留学する時間やお金がなくて、自分では行けないからこそ、そのチャンスを「無駄」にしている人を認めたくない。
という思いの人も少なからず居るだろう。

学部時代の僕も、まさにそうだった。
留学に行っている友人たちが、「勉強だりー」とか「授業サボったわ」なんて言っているのを聞いて、イライラしていた。

「僕は海外で勉強したくてたまらないのに!なんて勿体無いことしてるんだ!」

自分でチャンスを掴む努力を十分にしていなかったにも関わらず、他人の留学が羨ましくてたまらなかった。

素直に、嫉妬していた。

でも、自分の価値や基準で「勿体無い」と思うものでも、その人にとってそれがどのような「学び」になっているかなんて、本人にしか分からない。

「僕の考える理想の留学と違うから、君の留学は無駄だ」なんて決め付けるのは間違いだ。

「勿体無い」と自分の中で感じる分には問題ない。
いや、むしろその嫉妬自体は良いものなのかもしれない。

僕ならこうする。
僕だったらこういう留学をする。
その気持ちをポジティブな方向に繋げてみよう。

他人の留学を否定することにエネルギーを使うんじゃなくて、自分の理想の留学を叶えるための原動力として、その嫉妬を使えばいい。

叶えたい理想があるからこそ、「勿体無い」と思うのだろう。
イライラなんてしてないで、さっさとそのチャンスを掴む努力を全力でやればいい。

他人の留学を「遊学」やら「無駄」やら言っている時間こそ、本当に「勿体ない」のだから。

 

結論!留学を他人と比べることに意味なんてない。

 

本来とは全く異なる意味で、広まり始めている「遊学」という言葉。
上から目線で他人の留学を評価しているようで、好きになれない言葉だ。
でも、こんな言葉が生まれるくらい、留学が身近になっているという証拠なのかもしれない。

様々な奨学金、交換留学の充実、私費留学をサポートするサービスの拡大。

留学は今までにないくらい、身近な存在になってきている。
みんなが留学しているとなると、どうしても「差」をつけないと気が済まない人も居るだろう。

自分の留学のほうが凄い。
俺の留学のほうが大変だった。
お前の留学は「留学」とは呼ばない。

そんな言葉を使うことに意味なんてない。
何時だって肝心なのは、自分にとってどれだけ納得のいく留学だったかということ。
ただそれだけなんだから。

そんなに素晴らしい留学ができたのなら、それでいいじゃないか。
他人の留学を否定することでしか自分の留学に誇りを見出せないのなら、それこそ本当に「無駄」な時間を過ごしていたのだろう。

 

改めて自分に問いかけてみるのも良いのかも知れない。

 

「あなた」は、自分の留学に満足できていますか?

 

 

では、僕から以上っ!!

「海外に住めば英語が身につく」という幻想を捨てよう

英語
本日のテーマ
留学さえすれば「ペラペラ」?

 

どーもー、おりばーです。

 

海外に住むだけで英語が「ペラペラ」に。
なんて考えを持っている人、未だに意外と多いよね。

海外に住んでたんだから英語が楽に覚えられていいねー。

帰国子女・留学生・海外在住者、みんな言われたことがあるんじゃないかな。
英語を学ぶなら手っ取り早く海外に住みゃいい!
なんて単純な話ならだれも苦労しないんだけどね~。

今日は、海外に住むだけでは英語が身につかない理由
そして、具体的に何に気をつければ言語習得を効果的に行えるのか
この2点について一緒に考えてみよう!

 

 

ただ環境に任せればいいの?

 

言語教育学の世界において、環境に任せて言語を習得するという考えは昔から議論されていた。
環境に任せるのが一番なのか?
現地に住みさえすれば身につくのか?

そんな中で、1978年に言語学John Schumann (ジョン・シューマン) がある発見をした。

アメリカに住む、英語を母語としない学習者6名に対して研究を行っていたところ、その中の1名が一向に英語の上達を見せなかった
その人物の許可を得て、彼の行動や生活スタイル、全てを観察した結果、シューマンはある結論に辿り着いた。

文化変容モデル (Acculturation Model)


非常に単純化すると、シューマンが提唱したこのモデルは、言語習得というプロセスを、自文化から異文化への変容だと考えた。

もう少し簡単に説明しよう。

第一言語とは違って、第二言語学習者はすでに自分の文化を持っている。
僕たちで言えば、日本文化だね。
その自文化を新しい文化にどのように関連させるのか、どのように適応させるのかが言語習得において重要だと彼は唱えたのだ。

文化が大きく異なり、カルチャーショックのような状態が続いてしまっては言語習得は難しい。
逆に言えば、文化の間の似ている箇所に気づけたり、違う部分も許容できる余裕があれば、言語習得はスムーズにいくということだ。

でもこれは文化の似てる・似てないに留まる話じゃない。

文化の類似性や、学習者の社会における扱われ方など、学習者自身ではなかなかコントロールできない要因「社会的距離」と定義する一方で、シューマン心理的距離」の重要性も訴えた。

 

英語との心理的距離

 

心理的距離」の例として様々なものがあげられる。
その中から例えをいくつか紹介しよう。

「失敗に対する恐れ」

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言語学習者にとって、失敗や間違いはつきもの。
何かを習う為には、最初から一回も失敗しないなんてありえない。
自転車だってなんだって、転びながら諦めずに頑張るから乗れるようになる。

でも、失敗や間違いは時にして学習者の意欲を大きく削ぐ

「バカな間違いをした」
「間違ったことをみんなに笑われる」

そんな不安感がたまって、「失敗や間違いをしたくないから発言したくない」という気持ちになってしまう。
答えは分かってるかもしれないけど、声を出して答えるのが怖い。

一度気持ちを閉ざしてしまったら、積極的に参加する意欲はなくなる。
そういう姿勢は教師にも伝わり、だんだんと質問を振られなくなる。

そうして学習が身につかなくなってしまう。

こういった、失敗に対する恐れが言語習得の成果に大きく影響を及ぼす。

「自分を"変える"意志がどれだけあるか」

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新しい言語を学ぶということは、新しい文化だけじゃなくて、新しい世界に入り込むということ。
今までの価値観が全てじゃないと知るということ。
今までの常識が通じない世界があることを知るということ。

そして、何よりそんな違いを「認める」ということ。

日本語じゃない言語を学ぶということは、日本語を話す自分から変わらなければいけないということ。
それは別の人格を持つということじゃなくて、今までの殻を破って自分の世界を広げるということ。

そんな「自分の変化」に寛容でなければならない
今までの自分、今まで信じてきた常識、今まで培ってきたノウハウから抜け出そうとせず、過去の自分にすがっているばかりでは言語習得はできない。

ホームシックになったり、嫌な経験が続いて現地のコミュニティーとの心理的な距離が離れてしまう、なんて自分ではどうしようもない場合もあるだろう。

各々の事情によってその言語・文化への心理的距離が変わる。
つまり、各々の事情によって言語が身につくかどうかに変化が生じるということだ。

環境さえあればいい、というのは完全なる誤解ということだ。

 

なぜ海外に住むだけでは身につかないのか?

 

シューマンが示した通り、言語を身につけるための要因というものは無数に絡み合っている。
英語にあふれた環境に身を置いたとしても、その学習者個人の言語に対する「心理的距離」が離れていれば、習得はあまり進まないだろう。
また、学習者の意思とは関係なく、文化の違い、学習者の扱われ方、学習者グループの規模など、「社会的距離」によって習得が妨げられることも多々ある。

結果として、積極的にコミュニケーションする気がない、自分から学ぶチャンスを探さないということが起き、海外に居たのに言語に成果が表れない。

勿論、この理論が全てを説明しているわけではない。
まだまだ言語習得の方法論は議論のタネになっている。

でも、1978年という約40年以上前に、環境だけでは言語習得はできないということが示されたのに、未だに当然のことのように「海外に住めばいい」という風に一部で思われている。

その認識をいいかげん改める時なんじゃないだろうか。

海外に住むだけで、
留学に行くだけで、
言語が身につくなんて思わない方が良い。

んじゃ具体的にどうすればいいの?

 

シューマンの理論を逆に利用すれば、どのようにすれば言語習得が効果的に行えるかが分かる。

成功のカギは、「心理的距離」にある。
文化の違いの大小は仕方がないこと。
でも、それに対してどのような気持ちで挑むのかは学習者次第。
学習者自身でコントロールできる点に注目すればいい。

失敗を恐れない

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「そんなの言われなくても分かってるよ!」

という意見がほとんどだろう。

失敗を恐れるな!
失敗から学べるんだ!
なんて言うのは簡単だけど、それでも人前で間違いをするのは恥ずかしい。

「バカな間違いをした」
「間違ったことをみんなに笑われる」

そのような気持ちになってしまうのも良く分かる。
これは学習者ならば誰しもが通る道。

でも考えて欲しい。

失敗せずに何かを身につけることは可能なのだろうか?

一発で成功したら、それは「身につけた」のではない。
「なんかやってみたら出来た」である。
言語において、「なんかやってみたら出来た」はあり得ない。

ということは、何度か試行錯誤、失敗を繰り返して学ぶ必要がある。

一度も失敗しない、を目的にやるんじゃない。
失敗をしなくなるためにやるんだ。

そう思えば「失敗」は学習において必要な過程となる。
必要な過程を通っているということは、前進しているということ。
失敗している度に成長しているということだ。
失敗を恐れて挑戦しないということは、立ち止まるということ。

失敗を恐れない人は言語習得が早い。
誰になんと思われようと前進しているんだから、そりゃそうだろう。

失敗ばかりを気にして、上手くいった時を忘れてない?

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言語習得の過程の中で、失敗は必要なものだし避けては通れない。

そんな中で、
上手くいった!
今日は上手に言えた!
なんかかっこよく言葉を返せた!

なんて時が必ずある。
そんな成功した時の記憶を大事にしてるだろうか?

僕らは失敗をすると、それを必要以上に引きずってしまう。
でも、良いことがあってもその気持ちはすぐに忘れてしまう。

これって凄く勿体ない!

自信過剰になれ!って話ではないけど、少しでも気分が良かったとき、上手くいった時はもっと思いっきり喜んでいいんじゃない?
失敗をものすごく恐れるのに、いざ成功したらクールに決めるのは勿体ない。

自分で自分を思いっきり褒めてやれる人は、成功する瞬間を一番楽しめている

上手くいってると思えれば、努力も続けやすいもんだ。

 

結論!海外に住めばいいなんて思わないで!

 

英語圏に住んでいれば、英語を身につけるチャンスが日本に居るより多いのは確かだ。

でも、個人の心の持ち方ひとつで、そんなチャンスを活かせないこともある。
失敗することが怖い。
変わることが怖い。
現地で嫌な思いをして関わる気力がなくなってしまった。

学習者の態度・モチベーション・外的要因で大きく成果が変わってくる。

そう考えると、環境がどうであれ、努力意思が必要なのは変わらないということだ。

海外に居るのに、思ったように成果が出ない。
そんな悩みを持つ人も居るだろう。
自分の努力不足だと責めるのではなく、自分の意志ではどうしようもない外的な要因があることも忘れてはいけない

そして、海外に今から行く人は、環境に甘んじるんじゃなくて、自分からがむしゃらに飛び込んでゆく気持ちを持ってほしい。

変わるって、怖い。
環境の変化、人間関係の変化、そして自分の変化。
変わることが怖くない人なんていない。

でも、変わるために飛び立ったのならば、そんなことでビビってる場合じゃない。
変わることを楽しめ。
今までの自分が通用しない世界を楽しめ。

本気で憧れる気持ちがあれば、文化の違いなんて乗り越えられる。

 

海外に居るだけで英語ができる?
2017年にもなって、まだそんなこと言ってるの?
そんなに簡単なことの様に言う人に限って、なんで自分で海外に行かないのだろうか。

やってみりゃ分かるよ。
そんな単純だったら誰も苦労しない、ってね。

 

 

では、僕から以上っ!!