帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

「考えさせられる」と言わなきゃいけない、現代人の病

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どーもー、おりばーです。

 

ニュースに関して、
事件に関して、
ブログ記事に関して、

フェイスブック等でよく見かける発言。
「考えさせられる」

「とても考えさせられる記事ですね、シェアします」
「非常に考えさせられる、悲惨な事件だ」

このようなコメントがあふれてる。
そう思わないだろうか? 

この通称、「"考えさせられる"発言」が何故ネット上であふれているのか?
そして果たしてこの発言はしばしば批判されるように中身のない言葉なのか?

一緒に考えてみようじゃないか。

 

 

情報発信が気軽な時代へ

 

大半の人が何かしらのSNSをやっている。
そんな現代において、情報の発信はどんどん手軽になってきている。

気軽に自分の意見を発信できる。
それはすばらしいことである一方で、新たな問題を作り出している。

それは、SNSが生活に密接になればなるほど、匿名性が下がっていることだ。

 

「考えさせられる」は匿名性の低い場所にしか現れない

 

僕が思うに、匿名性が高いサービス上なら、「考えさせられる」という発言はあまり出てこないんじゃないだろうか。

僕が「考えさせられる」を見かけることが多いのは間違いなくフェイスブックだ。

 

フェイスブックにあふれる、「考えさせられる」コメント

 

なぜ特にフェイスブックでこの例のコメントが目につくのか。

それは、

  • 匿名性が低い
  • 実名で利用している
  • 実生活でつながりのある人とつながっている

という三つの理由があると思う。

実生活とSNSでコミュニティを共有していると、うかつに意見を発信できない
もしかしたら誰かに間違いを指摘されるかも。
もしかしたら誰かを傷つけちゃうかも。

実名が互いに出ている以上、ふとした発言が個人攻撃と誤解されてしまうかもしれない。

話題性のある、議論が起こりそうな話題であるほど、フェイスブックでは気軽に発信しにくい。

 

議論の余地のない話題に「考えさせられる」は使われない

 

そもそも白黒がはっきりしている話題では、「考えさせられる」なんて誰も言わない。 

答えが明確じゃない、善悪がハッキリとしない話題でこそ、この言葉はその力を発揮する。

「考えさせられる」とは言ってしまえば、
立場をハッキリさせないこと。
自分の意見を明確に出さないこと。

自分がどちら側の意見かハッキリさせなければ、誰かを怒らせてしまう心配もない。
明日学校や職場で会う可能性のある人の意見に、フェイスブックというある種の公衆の面前で真っ向から反対してしまう可能性もなくなる。

そう、「考えさせられる」対立を避けるための安全策

実生活とSNSが重なり合っている現代において、他人を刺激しない言葉は大変便利である。

 

「考えさせられる」は実際は何も考えてない?

 

そこで気になるのが、
「意見を言うわけでもないのなら、わざわざコメントするな!」
という指摘だ。

「考えさせられる」
ってコメント自体には何の意味もない。
議論を進展させてるわけでもないし、掘り下げているわけでもない。

確かにそうかもしれない。

かくいう僕もいつもこう思って、なんだかイライラしていた。

なんでわざわざ中身の無い発信をするのさ。
「考えさせられる」なんていいながら、 ホントはなにも考えてないんだろ
って。

でも、よく考えてみたら実はある種意味のある発言だったことに、最近気がついた。

 

「考えさせられる」を言わなきゃならない本当の理由

 

何故このような、中身のなさそうなコメントが溢れているのか。

僕が思うに、その本当の理由は・・・
「何も考えてないと思われてしまうのが怖いから」
ではないだろうか。

「考えさせられる」は何も考えてない、という批判のまるで逆をゆくように。

何も考えてない、って思われたくないからこそ「考えさせられる」発言なのではないだろうか。

さっきも言ったように、SNSと実生活において、人間関係が重複している人が多い。
そこで例えば、フェイスブックのタイムラインにとても話題性のある、議論の余地のある、痛ましい事件に関する記事が流れてきたとしよう。

そのまま何もコメントせず、素通りしてしまうとどうなるだろう?

 

 

まぁ、何も起きないのだけれども、そうだからこその「病」という表現だ。

僕ら現代人は、気軽に情報発信が出来ることを得た代償として、情報発信をしないと無関心だと思われてしまう、という被害妄想のような「病」を自らにかけてしまったのではないだろうか。

気軽に意見が言えるからこそ、意見を言わないとその話題に関心がないと思われてしまう。
知り合いが見ているフェイスブック上なら、なおさらその勝手なプレッシャーは強くなる。

社会的に物議をかもしている話題に、関心がないなんて思われたくない!
でも、自分の意見をハッキリ言ってしまうと、友達とか同僚と意見が対立してしまうかも。

という一連の葛藤が、無意識に起きるのではないだろうか。

その結果生まれるのが、「考えさせられる」なのである。

無関心だと思われたくない。
けど対立もしたくない。
とりあえず何か発信しなければ!

という自らに課した強迫観念に迫られ「考えさせられる」は生まれる。 

 

SNSで気軽に情報発信する時代は終わったのかもしれない

 

コメントしなかったからと言って、無関心だなんて決め付ける人はいない。
他人のSNSでの一挙動をそこまで気にしている人も少ないだろう。

でも、実生活でのコミュニティとSNSのコミュニティがあまりにも密接になりすぎて、僕らはこうも息苦しいことになっている。

ネットで気軽に発言できる時代。
その気軽な時代は終わりを迎えているのかもしれない。

互いを検閲し合い、意見の異なる者は数の暴力で捻じ伏せる。
そんな時代になりつつある気がする。

それは、トランプ当選後のアメリカの友人たちの投稿を見たら一目瞭然だ。

同じ小学校に通っていたアメリカの友人たちが、「議論」とは呼べないような個人攻撃の嵐を互いに浴びせあう。
選挙という話題に触れなければ怪我をしない。
けれども、選挙に無関心だと思われるのも嫌

そうして次々と巻き込まれてゆく。

選挙戦後の数日間、僕のフェイスブックはアメリカに居た頃の友人たちの喧嘩と、突然アメリカ政治のご意見番に名乗りを上げた日本の大学の知り合い同士の言葉の殴り合いであふれた。

「考えさせられる」とは、この息苦しい時代で生きるためのある種の知恵なのかもしれない。

 

答えの無い思考にだって、意味はある

 

最後に。

「考えさせられる」は確かにその発言自体にはあまり意味がない。

でも、「考えさせられるって言うくらいなら答えを言え」という批判には注意が必要だ。

答えが明確でない話題、だからこその「考えさせられる」だ。
答えがハッキリしない問題だからといって、思考をすることすら諦めてしまっては意味が無い

考えて、
考えて、
考え抜いた結果、答えが分からないことだって沢山ある。

納得いかないけど、意見が上手くまとまらない。
そういう議論で世の中あふれてる。

その、「考える」という過程の重要性を忘れてはいけないと思う。

答えがない問題だからこそ、自分なりに考えられるだけ考えてみる。
それでも何て表現すればいいか分からない。
そんなこと、沢山あるんじゃないか?

答えにたどり着かない思考は
無価値か?
無意味か?

そんなことないと思う。

考え抜いて、その問題の複雑性に気付けたからこそ、意見をハッキリさせない。
いや、できないのだ。

双方の対立点を理解せず、自分の意見を一方的に言う人こそ、実は一番、「考えさせられる」べき人なのかもしれない。

 

結論!「考えさせられる」という言葉は非常に「考えさせられる」

 

中には本当にな~んにも考えずに「考えさせられる」って言っている人もいるかもしれない。 

けど、僕が思うにそういう人は少数。
ホントは考えに考えた結果としての「考えさせられる」なんだと思う。

SNSという、公共の場になりつつある場所で、人間関係に波風を立てず、なおかつ、議論されている話題に関心があることを示す。
そのために選んだ言葉。

 

僕はそうであると信じたい。

 

この「病」の唯一の治療法は、気にしないという非常に難しいものなのだ。

 

僕はどうかというと、「考えさせられる」と発言することも無ければ、意見を言うこともない。
無関心って思われたって、別にどーだっていい。
だいたい、ストレスたまることの方が多いから、フェイスブックなんて見ない!

 

なんて言いながら、フェイスブックを退会するわけでもなく、毎日なんだかんだ開いてしまっている。
そんな僕こそが、一番重い「病」にかかっているのかも・・・

 

では、僕から以上っ!!

僕らは、英語の「ネイティブ」には一生なれない

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どーもー、おりばーです。

 

ネイティブ

日本で英語の話をしていて、この言葉を聞かない日はない。

ネイティブのようになりたい、
ネイティブの人に教わりたい、
ネイティブじゃない英語はダメだ、
ネイティブはそんなこと言わない、
ネイティブに笑われる英語フレーズ100選、
ネイティブにたった○ヶ月でなる秘訣、

言い出したらキリがない。

 

そんな、日本の英語教育を語るにおいて避けることのできない「ネイティブ」。

 

ここで質問。
僕はネイティブになれますか?
というのが今日のテーマ。

語源に触れつつ、日本社会におけるネイティブ信仰、そしてそれらが結果として誰も「ネイティブ」になれなくしている

その理由について一緒に考えてみようじゃないか。

 

 

 

native と 「ネイティブ」の違い

 

まずはじめに、
 

日本における「ネイティブ」は英単語の native とは違う。
それはすでに知っている人が多いんじゃないかな。

native とは基本的に「原生の」「生まれつきの」または「原住民」をさす。

この意味で言えば、僕らはみな native だ
日本に生まれ、日本に住んでいる。

厳格に言えば、日本の先住民は縄文人だ!弥生人だ!
と言う事もできるかもだけど、まぁ言いたいことは伝わっただろう。

でも、カタカナでの「ネイティブ」は明らかに違う意味で使われている。

 

「ネイティブ」= native speaker 

 

日本における「ネイティブ」は "native speaker" を意味している。

goo国語辞書によると、

ネイティブ‐スピーカーの意味

ある言語を母国語として話す人。

となっている。

 

確かに、世間で使われている「ネイティブ」は、「英語が母語の人」を意味しているのだろう。

んん???
ボゴ?ボコクゴ?どっち?

ここで気をつけなければいけないのが、母語母国語の違いだ。

 

母語と母国語の違い

 

これらの単語をごちゃ混ぜに使う。
僕もたまに勘違いしちゃってるかも・・・。

でも、一緒の意味じゃないんだよね。

三省堂 Web Dictionaryがその違いを短く分かりやすくまとめてくれている。

母語とは、

生後数年間のうちに、話者が生活環境のなかで自然に身につけた第一言語を言う。

「母国語」とは、

話者が国籍を持つ国で、「公用語」または「国語」とされている言語である。

つまり、
母語は必ずしも生まれた国に限定されず、
母国語は国籍によってすでに決まっている、

ということだ。

 

例えば、

日本で生まれて、日本国籍を持っていれば、母国語は「日本語」だ。

でも、生まれてすぐに渡米して、日本語を身につける前からずっと英語を使って暮らしていたとしたら、母語は「英語」の可能性もある。

そこで難しいのが帰国子女だ。

 

帰国子女の母語と母国語は?

 

以前にもこちらで話したように、

 

「帰国子女」とみなされるには日本国籍がぜったいに必要だ。

となると、帰国子女の母国語は全員「日本語」ということになる。
一方で、母語は人それぞれで違う。

 

例えば僕の場合

生後まもなくして渡米。
記憶がある時点からすでにアメリカ。
家庭内では日本語。
一歩外を出れば英語を使っていた。

そんな僕の母語は、おそらく日本語だけど・・・。
これが意外と断言しづらい。

最初に口にした言葉はおそらく日本語で「まま・ぱぱ」だっただろう。
でも、日本語が不自由な時期もあったし、英語のほうが自分の言いたいことが言える、小学校まではずっとそうだった。

僕のように生後すぐに海外に飛ばされた子には、母語という概念が結構難しかったりする。

 

では、「ネイティブ」に話を戻そう。

 

帰国子女は「ネイティブ」には絶対になれない

 

ここまでをまとめてみよう。

 

「ネイティブ」は「ネイティブ・スピーカー」のことである。

そして、「ネイティブ・スピーカー」とはある言語を母国語として話す人である。

帰国子女の母国語は、「帰国子女」という言葉の定義上、絶対に「日本語」である。

 

つまり、帰国子女が今の日本で使われている「ネイティブ」の定義において、英語のネイティブになることは、絶対に不可能なのである。

というより、日本国籍を持っている時点で誰も「ネイティブ」になんてなれやしない
日本語の「ネイティブ」なら話は別だけどね。

 

改めて言われなくても、ということだろうけどもハッキリさせる必要がある。

僕らは日本に生まれた時点でネイティブ には絶対になれない。

 

では、英語が「ネイティブ」と全くの同レベルで扱える人はどうだろうか?
国籍こそ日本であれ、人生の大半を海外で過ごした帰国子女だってたくさんいる。
英語を第一言語とする帰国子女も「ネイティブ」になれないのだろうか?

 

「ネイティブ」は見た目が10割

 

学校の「ネイティブ」の先生。
英会話の「ネイティブ」の講師。

それらに大事なのは見た目である。

鼻が高いイケメンが良い。
ブロンドの美女が良い。

そんな単純な話ではな・・・

いや、そんな単純な話なのかもしれない。

 

考えてみてほしい。

仮に、

英語を第一言語、つまりは母語とする帰国子女「A子ちゃん」が居たとしよう。
A子は世間一般で言う「強い訛り」もない。
声だけ聞けば日本人とは思えないほど、自然で、流暢な英語を話せる。
彼女の英語は「ネイティブ」そのものだ。

A子は英会話学校のネイティブ講師募集にアルバイトとして応募することにした。

さて、A子は「ネイティブ」講師として採用されるだろうか?

 

答えはNOである。
なぜダメなのか、答えは簡単。

 

 「ネイティブに見えないから」

その一点のみだ。

生徒さんは「ネイティブ」な講師に教わりたい。
そこには言語のレベル、教授法への理解、説明の上手さ、などはあまり関係ない。

何より大事なのが説得力実感だ。

ネイティブに教わっている!
そこから来る安心感を生徒は求めているのではないだろうか?

幾ら英語が母語でも、アジア圏出身の人はネイティブ講師にはなれない。

アメリカで生まれたとしても、アジア系の見た目であれば、説得力を持たないためにネイティブ講師扱いにはなりづらいだろう。

 

「ネイティブ」とは、
世間が「外国人」と見た目で判断できる人
これに他ならない。

これが現実ではないだろうか。
決して良い現実ではない。
あまりに視野の狭い見方だ。

でも、英語教育がビジネス化している以上、顧客である人々のニーズを無視することはできない。
英会話講師を採用する教室側も、それを重々理解している。
A子ちゃんがネイティブとして採用されないのは「英語力」の問題じゃない。
「英語ができる人」のイメージに合わないからだ。

 

僕は英語教員を目指し、大学・大学院と勉強を必死にしている。

しかし、僕は一生「ネイティブ」にはなれない。


僕個人の「英語力」うんぬんは関係ない。
おそらく日本の学校に採用されたら、日本人講師として扱われるだろう。
コミュニケーションを重視する授業、例えばディスカッション、ディベート、プレゼンテーションを扱うものは、基本的にネイティブ講師の仕事。
僕に与えられる仕事は、文法教授やリーディング、シャドーイングなどになるだろう。

適材適所、なのかもしれない。
でも、僕の「適所」を見た目と人種で判断されたくはない。

 

最後に、コレを見てどうか考えてほしい・・・

 

最後に、少し見てほしいものがある。

これを見てどのように受け止めるか、それは「あなた」次第。

 

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https://eigox.jp/info_tutor-types/


特定の英会話教室を非難したいのではなく、あくまでも一例として。
探せば似たような学校ばかりだ。

 

どうだろうか?

英語はフィリピンの公用語だ。
フィリピン人であるという点で、その教師の価値、英語の良し悪しが決まっている。

見た目や出身地に応じて講師の価値が変わる。
発音や訛りに応じて英語の価値が変わる。

これが日本における英語教育の現状。

英語の良し悪しはいったい誰が決めるのさ?
価値がないと判断された訛りの英語は、もはや学ぶ必要すらないのか? 

 

自分が今から入ろうとしている業界が、このような現状にあること。
僕はそれが悔しくて仕方がない。

この気持ちを分かってくれる人が他に一人でも居てくれたら、僕は救われるだろう。

 

結論!僕らは「ネイティブ」になれないし、ならなくていい

 

ここまで話しておいてなんだけど、
「ネイティブ」になる必要なんか、一切ない

「ネイティブ」に対する盲信を捨て、表面的なモノマネじゃなく自分の英語に誇りを持つ。
そこがようやくスタート地点。

「ネイティブ」の英語が正解ってわけじゃない

英語母語話者と勘違いされる、そのような目標に意味はあるのだろうか。

 

英語に、言語に、近道なんてない。
楽な道を探す時間を努力する時間にする者は、着実に前進できる。

僕ら帰国子女だって一生「ネイティブ」にはなれない。
「日本人」として認めてもらうこともできず、「外国人」になることもできない。
僕らは狭間に生きる、そんな存在なのかもしれない。

でも、僕はそんな狭間が大好き

いいじゃんか、どっちつかずの存在で。
狭間に生きるもの同士、支え合って生きていこうよ。

 

持ってないものにこだわる人生より、自分がすでに持っているもの、その大切さとすばらしさに気付き、胸を張って生きられる人生。

僕はそっちを歩みたいな。

 

君も一緒にどーだい?

 

 

では、僕から以上っ!!

 

 

 

Thumbnail photo credit: いらすとや

英語が「ペラペラ」って表現が嫌い

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どーもー、おりばーです。

 

今日はいつもに増して、

ヒドく個人的な話。

 

 

大学生に成りたての頃、

予備校のバイトをしようと思い

面接に行った時のこと。

 

 

案内されるがまま事務室に入り、

履歴書を渡す。

 

そして履歴書を読んで

面接官が一言、

 

「へぇ~。小学校まで海外ね~。

んじゃ、

英語ペラペラじゃんか

なるほどね~

 

と言った。

 

ペラペラじゃんか

ペラペラじゃんか

 

 

僕は子どもの頃から、

この「ペラペラ」って表現が

どーも好きになれない。

 

薄っぺらい、

ペラペラと良くしゃべる奴、

などなど、

 

「ペラペラ」という表現には

ネガティブな意味が込められている、

そう感じてしまう。

 

もちろん、

「流暢な」

って意味で使っているのは分かる。

 

けれども、

もう少し別の表現はないのだろうか、

考えてみることにした。

 

 

 

ペラペラの意味

 

いつものように、

goo国語辞書

で意味を調べてみよう。

 

ぺら‐ぺら の意味

  1. 軽々しくよくしゃべるさま。
  2. 外国語をよどみなく自由に話すさま。
  3. 続けざまに紙をめくるさま。
  4. 紙や布が薄くて弱いさま。

 

1の意味から分かるように、

日本語に対して

「ペラペラ」と使うと、

 

「軽々しく」

言い換えれば、

よく物事を考えずに

喋っていることになる。

 

 

これがあら不思議、

外国語に対して、

「ペラペラ」と使うと、

 

「よどみなく」

という意味になるのだ。

 

 

なんとも不思議な言葉である。

 

ペラペラと良く喋る人だ

否定的な意味合いが強く、

英語をペラペラと喋る人だ

肯定的な意味合いを持つ

 

表裏一体の言葉。

 

He talks fluently (流暢)

He talks gibberish (戯言)

 

言ってみればこれら両方の意味が、

「ペラペラ」

という一単語で可能なのである。

 

 

僕が「ペラペラ」と言われて、

どこか嫌な感じがしたのは

ここに原因があったのか。

 

 

しかーし!

これだけでは終わらない!

 

「若者言葉」としての「ペラい」

 

言語というものは

いつの時代も、

常に変化し続けているものだから、

 

「若者言葉」、

ってフレーズは好きではないけど、

 

 

最近、

ペラい

という表現が使われているのを、

ご存じだろうか?

 

 

日本語俗語辞書

なんて面白いものがあって、

そこに「ペラい」の説明として、

こう書かれている。

 

ぺらいとは「薄っぺらい」の略で、

ギャルを中心に若者の間で使われる。

 

ただし、

若者が使う場合、

多くは人の軽薄さ

中身の無さを指して使うことが多い。 

 

チャラい男性のことを

チャラ男というように、

ペラ男という言葉も存在する。

 

だそうな。

 

まぁ、ペラ男という

表現に関しては

置いておくとして、

 

軽薄、中身のない

という点から分かるように、

 

ペラい

という単語は、

今や完全にネガティブな意味

で使われている。

 

ここには「ペラペラ」にあったような、

流暢な、よどみなく、

という意味はもはや存在しない。

 

ただの・・・

ただの悪口じゃんかっ!!

 

 

そして、

英語が「ペラペラ」って表現が、

何だかスッキリしない理由、

実はもうちょっとだけあるんじゃ。

 

どこまで行けば「ペラペラ」なの?

 

僕が「ペラペラ」を好きになれない、

一番の理由、

 

それは、

「ペラペラ」の基準がないからだ。

 

どこまで喋れたら「ペラペラ」なの?

 

あなたの言う「ペラペラ」って、

一体どのようなものなの?

 

語源的に「ペラペラ」が

喋ることに関係していると考えると、

 

ライティング、

リーディング、

リスニング、

これらの能力は関係ないの?

 

「たった〇〇日で英語ペラペラに!」

「CDを聞くだけで英語ペラペラに!」

「僕が〇〇しただけで英語ペラペラになれた方法」

 

なんてキャッチフレーズが溢れてるけど、

一体何をもって「ペラペラ」

って言うのさ?!

 

大学院での友達の多くは、

インドネシア

シンガポール

タイ、メキシコ、

とかから来ているけど、

 

発音という点に限って言えば

決して聞き取り易いものばかりではない。

 

でも流暢そのもの

僕にとって慣れていない発音

というだけで、

よどみなく」話せている。

 

彼ら彼女らは「ペラペラ」か?

 

今の段階で「ペラペラ」ではない人は、

一体どこまで行けば「ペラペラ」になるの?

 

 

僕はこう思う。

 

「ペラペラ」という言葉で、

人の言語を評価することは出来ない、

 

だって、

「ペラペラ」の基準なんて、

人それぞれで違うんだもの。

 

主観的で、

明確なラインが無い。

 

だからこそ、

予備校の面接官に、

書類の経歴を見られただけで、

 

「んじゃ、英語ペラペラじゃんか」

 

と言われたのが、

何だかスッキリしなかったのだ。

 

だって、

アナタの言う「ペラペラ」を、

満たせているか分からないし、

どこまでを期待されているのかも

分からないのだから。

 

結論!「ペラペラ」って言うのやめませんか?

 

へぇ~、英語ペラペラなんだぁ~

 

と言われると、

言い方にもよるけれども、

 

僕はやっぱり良い気分ではない。

 

良く喋るけど中身がない、

物事を考えずに喋っている、

 

と受け取れなくもないし、

なにより、

 

人の言語の出来・不出来を、

なぜアナタが判断するのか

どのような判断基準なのか、

 

モヤモヤして仕方がない。

 

 

そして、

巷で溢れている

 

「〇〇するだけで英語ペラペラに」

「勉強嫌いの俺が、〇〇で英語ペラペラに」

 

系の英語教材や有料購読型のサイト、

これもどーもスッキリしない。

 

特に基準があるわけでもないのに、

 

自分で自分のこと「ペラペラ」

って言っちゃあいかんだろ、

とか思ったり。

あくまで個人的な意見です、ゆるしてスピードラー〇ング

 

 

とまぁ、

僕の個人的な愚痴に

なっちゃって申し訳ない。

 

 

だからと言って、

「ペラペラ」の代わりに

何を使えばいいのかとなると、

 

すらすら・・・

さらさら・・・

つるつる・・・

 

うーーーーーん、

思いつかん!!ごめん!!

今後の若者たちに任せるとしよう。

 

 

とにかく!

 

他人に対して「ペラペラ」を使う、

それは相手の言語のレベルを

自分のモノサシで評価する、

 

ということだから、

 

「へぇ~、〇〇語ペラペラなんだ~」

 

って言う前に、

一度その意味を考えてくれると

僕はうれしいな。

 

 

そして、

 

「〇〇語ペラペラになりたいなー」

と漠然と自分に言うよりも、

 

もっと明確な目標を決めた方が

上達も実感できるんじゃないかな?

 

他人から見てどうか、

ではなく、

昨日の自分に比べて

どれだけ成長しているか、

 

それが大事だと思う。

 

言語なんて、 

誰かに上手い・下手を判断される

知識勝負じゃなくて、

必要な相手に伝わればそれでいいのだから。

 

誰に伝えたい言葉なのか、

それがハッキリしている人は

上達が早いと思うんだよなー。

 

 

 

最後まで「ペラペラ」と、

中身のない話を

軽々しくしてしまい、

ホント、申し訳ない。

 

では、僕から以上っ!!

 

P.S.

真面目に書く時もあるよ。

良かったら読んでみてね!

 

 

practicemakesbetter.hatenablog.com

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Thumbnail photo credit: Marc Wathieu Speech bubbles at Erg via photopin (license)

「帰国子女ってずるい」と「帰国子女が羨ましい」は全然違う

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どーもー、おりばーです。


今日のテーマは「言葉」。

 

「帰国子女ってずるくない?」

 

初めて会った人から、
クラスメートから、
互いをよく知る友人から、

今までの人生の中でというほど聞いてきたこの言葉。
何気なく使ってる人が多いと思うけど、僕は結構コイツに傷つけられてきた。

「帰国子女」という道は、自らの手で選んだものじゃない。
「帰国子女」というレッテルも、他人から貼られたものに過ぎない。

自分の力ではどうしようもない、他人の都合で決められた肩書きを背負って生きるしかない。

 

そんな帰国子女たちは、 なぜ「ずるい」と言われるのか。
一緒に考えてみよう。

 

帰国子女は楽をしているのか?

 

「帰国子女は楽でいいよなー」、
「人生イージーモードだよなー」、

なんて言われたことないだろうか?
こう言われる背景について考えてみると、やはり大きな要因となっているのが、

「英語」である。

 

帰国子女と英語の切っても切れない関係

 

以前の投稿でも話したけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女が全員英語を使って生活をしていた、と決め付けるのは明らかな誤り
しかし、やはり世間一般において「帰国子女=英語が出来る」という誤解が定着している。

理由として考えられるのは以下の二つ。

 

1: 英語圏またはインターナショナルスクールから来る割合が多い

 

日本から海外赴任するとなると、赴任先としてはやはり先進国が多いのではないだろうか。

途上国からの帰国子女も大勢居るだろう。
でも海外赴任者の多くは先進国の都市部でグローバル企業で働いているのではないだろうか?
海外に支店を持つ企業や、逆に日本が支店である海外企業などがこれにあたる。

そういった国に赴任するというときに、大事になるのが「親の決断」である。

多くの帰国子女とは違い、親の大半は「日本にいつか帰る」ということを強く意識している。
どのような学校に子供を入れるべきか、帰国後の苦労をなるべく減らすよう、色々と選択肢を考慮したはずだ。

そうすると考えてしまうのが、英語の重要性だ。

ただの言語であり、コミュニケーションのツールである英語が、日本そして国際社会において多大なる付加価値を与えられている。

英語でコミュニケーションが取れるというのは、言ってみれば国際社会に参加するためのチケットとして扱われている。
英語帝国主義という言葉があるように、その付加価値に疑問を示している人も多い。
今の社会における英語に対する評価が正しいかどうかは確かに議論の余地があるだろう。
でも現状として、今の社会における英語の価値を否定できる人は居ないだろう。

親としては、子どもに良かれと思って英語圏を赴任先に選んだり、インターナショナルスクールにわざわざ高い授業料を払って通わせたりする。

子どもの将来を思ってそのように決断することは何も間違っていないし、むしろ感謝すべきところだろう。

 

実際に英語圏から、インターナショナルスクールから来る人が多い。
だからこそ「帰国子女=英語が出来る」という勘違いが定着しているのではないだろうか。

そしてもう一つの理由としてあるのが、そんな人たちが特に目立つからである。

 

② 英語が日本のカリキュラムにおいて必修だからこそ目立ってしまう

 

何度も言うように、英語圏以外からの帰国子女も大勢居ることを忘れてはいけない。
しかし、英語以外の第二言語を必修科目として扱っている中学高校がどれだけあるだろうか?

帰国子女がウザイ調子に乗っている、と思われてしまう一番の原因は英語の授業にある。

中高6年間の必修授業を通して、クラスメートは帰国子女の英語を目の当たりにする。
英語の授業さえなければ、帰国子女であることすら気づかれなかった、なんてこともあるのではないだろうか。

見せびらかそうとしているわけでもないし、調子に乗っているわけでもない。
けれども、英語の授業に参加しなくてはならない以上、テストの点や、授業中の発音等で、どうしても他者の目に留まってしまう。

目立ってしまうのだ。

英語圏以外の帰国子女があまり意識されないのは、そこの違いが大きいと思う。
英語圏からの帰国子女は、晒される回数が極端に多い。
目立たないようにするのがそれだけ難しいのだ。

僕のように、
授業中の音読をしない。
教師に指名されて止むを得ない時はあえて発音を崩す。
テストは返却されたらすぐに隠す。

このような生産性のないことをして、目立たないように必死に足掻いても、無理がある。

英語圏の帰国子女は、それだけ目立たないことが難しい、それを分かってもらいたい。


英語圏からの人が多く、
目立たざるを得ない状況が多い、

これらの原因が重なり、「帰国子女=英語が出来る」という誤解を生んでいるのだ。

 

それを踏まえた上で、
なぜ「帰国子女はずるい」と言われるのか。
そこにはもう一つの誤解が関係している。

 

「帰国子女=(楽に)英語が出来る」という誤解

 

英語が出来る、ということが原因でずるいと思われるのは、裏を返せば日本の英語教育の失敗を物語っている、と言えなくもない。

みんながこれだけ必死に勉強しても、なかなか英語が出来るようにならない。

「なのにお前らはずるいよな!」
「特に苦労もせずに英語が出来てさ!」

こう言った思いが、帰国子女をずるいと感じることに繋がっているのではないだろうか。

日本の英語教育についてはいつかじっくり話すとして、この「特に苦労もせずに」という勘違いが多くの帰国子女を悩ませている。

 

海外に住めば言語が勝手に身につく。
今の時代に、未だにこんなことが信じられている。

practicemakesbetter.hatenablog.com

海外留学を例にしても分かるけど、現地で日本人とばかり遊び、Youtube で日本のテレビ番組を見て、日本の友達と毎晩 Skype で会話。
そんなことが今の時代ではいとも簡単に出来てしまう。

メディアのグローバル化が急速に進んでいる今の時代において、身体が海外に置かれているからと言って、英語漬けの生活をしているとは限らない。

海外に身を置きつつ、日本のメディアと、日本語にドップリ漬かった生活を送ることはさほど難しいことではない。


海外に住むだけで英語が身につく??


違う。


本人の
努力、意志、行動力無くして、言語を「簡単に」学ぶことなど不可能。

帰国子女達が、ただ環境に任せ、一切の苦労もせずに現地で生活し、なおかつ日本社会に戻ってきて日本の学校に通っている。
本当に心の底からそう信じるのかどうか、今一度問いかけたい。

 

帰国子女は誤解されやすく、悪目立ちしてしまうことも多い。
しかし、彼ら彼女らにはそれぞれ乗り越えてきた苦悩がある。
決して「楽」な人生を送ってきたというわけではないのだ。

「特に苦労もせずに」ここまで生きてきたと思うのなら、それは大きな勘違いだ。

 

では改めて考えよう。
「帰国子女はずるい」のか?

 

「ずるい」という言葉

 

ずる休み、
テストでずるをする、

これらの言葉から分かるように、「ずる」という単語は嘘、不正、卑怯なことに対して使われる。

goo国語辞書が、デジタル大辞泉から引用した定義によると、

ずる【狡】 の意味
ずるいこと。怠けること。不正をすること。また、その人。
ずる・い【狡い】 の意味
自分の利益を得たりするために、要領よく振る舞うさま。

と書いてある。

つまり、「帰国子女はずるい」というのは、
特に苦労もせずに、正当でない方法で、良い思いをしている。
という、英語で言うところの "Cheating" の意味になる。

これは明らかに間違った認識である。
先ほども述べたように、苦労せずに生きているわけはなく、ましてや不正など行っていない。

しかし、ここで一点とても重要なことがある。

それは、「良い思いをしている」という点だ。

 

ずるいと羨ましいの違い

 

「帰国子女ってずるくない?」

以外に、

「帰国子女って羨ましい」

 

って言われたことはないだろうか?
似ているようで、これらの二つの言葉はまるで違う意味を持つ。

「羨ましい」の定義について、同じくgoo国語辞書で見てみると、

うら‐やまし・い【羨ましい】 の意味

他人の能力や状態をみて、自分もそうありたいと願うさま。

と書かれている。

 

英語でいう "Jealous" であり、先ほどの "Cheating" とは似ても似つかないものである。
卑怯な手段で利益を得ている人を見て、妬ましく思うこと。
自分に無いものを持っている人を見て、妬ましく思うこと。
そこには大きな違いがある。

「ずるい」という決め付けが間違っているとしても、帰国子女を「羨ましい」と感じる理由について、しっかり考えたことがあるだろうか。

 

「帰国子女だって大変なんだ!」
「羨ましいとか簡単に言うな!」

 

その気持ちも凄く良くわかる。
自分の苦悩を理解もせずに羨ましいと言われるのは決して嬉しい気分ではない。
でも、今一度良く考えてみて欲しい。

 

帰国子女は良い思いをしている、それを認めることの大切さ

 

人生を楽に生きている。
苦労なんてしていない。

そう思われるのが嫌なのは痛いほどに良く分かる。
でも、胸に手を当てて正直に考えてみて欲しい。

 

帰国子女に生まれたことで、得をしたこともあるのではないだろうか?

 

勿論すべての帰国子女が、というわけではない。
帰国子女の定義の曖昧さ、範囲の広さについては以前話した通りだ。
僕以上に苦労している帰国子女なんて大量にいるだろうし、僕が皆の代表を気取るつもりもない

でも、帰国子女として生きてきた苦労、乗り越えてきた苦難。
それらを一端おいて、帰国子女だからこそ得られたもの、実はたくさんあるのではないだろうか。

 

僕に関して言えば、
こうして海外の大学院に来れているのも、
海外生活でコミュニケーションに苦労していないのも、
Youtube でアメリカのコメディを見て笑えるのも、
今の友人たちが居るのも、

帰国子女だったからこそ手に入れたものだ。

勿論、努力や苦労をしなかったなんて言うつもりは一切無い。

アイデンティティで苦悩したのも、いじめられたことも、英語を失いかけたことも。
全て帰国子女だった故に味わった苦悩だ。

それでも、帰国子女である故に、僕が持っている「利益」「特権」。
それらの存在を否定することはどうしてもできない。

僕らが持っているこれらは社会によって与えられた特権。
"Social Privilege"
に他ならない。
自ら欲したつもりもないし、その特権にアグラをかいてるつもりもない。
ラクしたいなんて思ってないし、努力してないなんて思われたくない。

 

けれども、受験においてトップ校ほど英語の配点が高かったり、海外経験の有無が就職活動において重要になったり。

僕らがそれを望まなくとも、現実として今の日本社会において帰国子女は様々な良い思い」をしているのだ。

 

それを忘れてはならない。

 

帰国子女はずるくない。
多くの人に理解してもらえない苦悩や苦労だってたくさんあるし、決して楽な生き方ではない。
でも、羨ましいって思う人たちの苦労や苦悩、それを考えることも大切だ。

 

結論!「ずるい」と「羨ましい」は同じではない!


ずるい、
羨ましい、

これらの単語をごちゃ混ぜにして使う人も多いだろう。

帰国子女ってずるくない?って問いかけには、
素直に「ずるくない」と答えれば良い。

それと同時に、自分もそうありたいと願う「羨ましい」と言う気持ち。
それを他人が持つ理由と、自分に与えられているものを、改めて考えなければならない。
多くの人が羨むものを与えられている、それを胸に刻みつつ、「ずるい」といった間違った誤解には立ち向かってゆく。

そうやって対話してゆくことで、世間における帰国子女への認識は変わってゆくんじゃないかな。

 

誰の人生の方が楽かだなんて、意味の無い比較はやめて、皆が自分らしく生きられる、そんな日が来ることを心から願おうじゃないかー。

 

 

こんなに長いのに、最後まで読んでくれた「あなた」。

本当にありがとう。

 

では、僕から以上っ!!

 

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シャッフル再生のはずなのに同じアーティストばかり流れる理由

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どーもー、おりばーです。

 

僕は勉強をしながら音楽を聴く。

 

単純に音楽を流さず、

イヤホンだけしている時もあるけど、

大抵の場合は

シャッフル再生にしてる。 

 

ほら、

あの矢印がグニョって交差してるやつ。

リピート再生のボタンを頻繁に押し間違えてしまうのは僕だけ?

 

ランダムで曲が流れるから、

曲順とか気にしなくていいし、

「あ、こんな曲聞いてた時期あったなー」

って発見もあるから好きなんだよね。

 

ただ、

時々摩訶不思議なことが起きる。

 

「あれ?さっきから同じアルバムの曲が続いてない?」

 

さっきまで気持ちよく勉強していたはずの脳ミソは、

この怪奇現象のことが気になって仕方ない。

 

勘違いかなと思いつつ、

一個前の曲に戻してみる。

すると・・・

 

やっぱり同じアルバムからの曲が続いてた。

合わせて700曲くらい入ってるのに。

 

これ、本当はランダムじゃないんじゃないか!?

と何故かちょっと興奮する。

 

 

こういった経験あるんじゃないかな?

 

そんな、

勉強のリズムを完全に壊しに来る、

このシャッフル再生の謎について、

今日は数学や確立の話を極力抜きで、

簡単にお話したいなと。

 

何故かって?

僕は数式を見つめると頭が痛くなるからだよ!

(高校の時に数学の成績で評価1をくらった)

 

何故このようなことが起きるのか??

 

答えは単純。

ランダムだから。

 

そんな元も子もないような答えなんて・・・

って思うかも知れないけど、

考えてみたら、

シャッフル再生で曲が連続するくらい、

ランダムなら全然起こりうること。

 

そもそもランダムとは、

どのようなことなのだろうか。

 

ランダムとは何か

 

文系の僕に理解できる範囲で、

 

ランダムとは言ってみれば、

周期性を持たない列、

ってところだろうか。

 

規則性もなければ、

全く同じように再現もできない。

 

シャッフル再生が本当にランダムなら、

不規則で、

予測もできないはず。

 

ここでこの問題を厄介にするのが、

人間の脳ミソである。

 

僕らの脳ミソは、

不規則なもの、

予測できないものを嫌う。

 

不規則の中で規則性を見つけ出そうとし、

予測できないものを予測しようとする。

 

そうやって僕らは、

物事を理解しようとし、

意味を見出そうとする。

 

では、

シャッフル再生に話を戻そう。

シャッフル再生は本当にランダムなのか?

 

本当にシャッフル再生がランダムなら、

そこには一切の規則性も、

法則もないはず。

 

ならば、

同じアルバムから連続して曲が流れる

ましてや、

アルバム内の曲順どおりに続く

 

なんてことは起きないはず!

・・・なのだろうか。

 

忘れてはいけない。

 

ランダムとは、不規則なのだ。

 

同一のアルバムを避け、

常に別のアルバムやアーティストの曲を流す、

というのは本当にランダムか?

 

シャッフルが真にランダムなら、

同じアルバムの曲が続けて流れることくらい、

偶然、起こりうるのだ。

 

それこそ、毎日シャッフル再生を使っていたら、

そこそこの確立で起こりうるのだ。

 

 

偶然。

なんてつまらない答えなのかしら。

 

でも、ここで大事なのが、

本当にランダムであることと、

僕らがランダムだと感じることとは、

必ずしも一致してないってこと。 

 

まるで規則性があるかのように感じてしまうから

僕らの脳ミソは

シャッフル中に曲が連続することを嫌う。

 

そして、そこに目をつけたのが・・・

 

スマート・シャッフルという発想

 

シャッフル再生は、

本当はランダムじゃないのでは!?

 

そう言った疑問を持った人が多かったことを受けて、

Apple社の当時のCEOであった

Steve Jobs 氏は、

 

スマート・シャッフルという

新たな機能を発表。

 

彼曰く、

 

'We're making it (the shuffle) less random to make it feel more random.' 

 

訳:

よりランダムだと感じて貰うために、

シャッフル機能のランダム要素をあえて減らすことにした。」

引用元:Humans find the concept of randomness very hard to understand | Daily Mail Online

 

とのこと。

 

不規則、無造作ではなく、

あえて意図的に、

別々のアルバムやアーティストから

曲を引っ張ってくることで、

 

一見規則性のありそうな偶然を、

あえて避ける。

 

そうすることで、

僕らの脳ミソにとって、

心地よい、

「ランダム」であるという錯覚

を生み出してくれるのだ。

 

本当にランダムかどうか、

使っている人達にとって、

そこは実はさほど重要ではない、

 

そのことを彼は良く理解していた。

 

いやはや、やはり天才か。

 

ちなむと、

以前はオン/オフが出来たこのスマート・シャッフル、

どうやら現在ではこの項目は消えているみたい。

 

生粋の Androidっ子の僕としては、

確認のしようもないのだけれどね・・・。

 

結論!シャッフル機能って実は奥が深い!

 

いかがでしたでしょうかねー?

 

かなーり浅いレベルでしか話さなかったけど、

これで少しは疑問が解けただろうか。

 

今後、

シャッフル中に偶然連続した曲が流れたら、

確立の神様からのプレゼントだと思って、

喜ぶことにしよう。

 

それはさておき、

ランダムって単語を

何度も記事の中で書いていたら、

ガンダムに見えてきて仕方がない。

 

ア○ロ・レイ!ランダム!いきまぁーす!!

カイ・シデンが一番好き。

 

では、僕から以上っ!!

帰国子女を悩ます「英語でなんかしゃべって」は真面目に考えるだけ損

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どーもー、おりばーです。

 

以前の投稿にて、

 

「英語でなんかしゃべって!」を「死のワード」と表現してたね。

 

君も言われたことあるんじゃないかな?

 

どう返そうか悩むよね。

 

真面目に返そう。

誤魔化してみよう。

頑張って面白く返そう。

 

 

色々工夫してみても、

最終的に気分良く去ることができない。

 

そんな経験あるんじゃないかな?

 

なぜこの言葉は

こんなにも返すのが難しいのだろう。

 

各パターンがどういう結果を生むのか、

一緒に考えてみよう。

 

 

 

真面目に返す

 

僕も帰国したての頃は、

ずっとこの方法をとってたっけな。

 

Hi, I'm Oliver, and I like doing blah blah blah...

 

のように自己紹介っぽいことを言ってみたり、

その場の状況に合うようなフレーズを言ってみたり、

 

でも、これがどういう結果を招くかはもう分ってるよね?

 

素直に英語で返すと、

何こいつ調子に乗ってるの?

英語出来る自慢ですか?

 

みたいなをされるんじゃないだろうか。

あのなんとも言えない、微妙な居心地の悪さ!

うぉーーーー!思い出しただけでもなんか腹立ってきた!

 

英語でしゃべれ言うたのお前じゃんかーーー!?

 

ってね。

 

 

喋れないフリをして誤魔化す

 

真面目に返して、何度か嫌な顔されたら、

よし、これはもう英語しゃべんないほうがいいのでは!?

ってなるんだよね。

 

そこでプランB

 

「いやー急に言われてもなー、あははは」

「うーーん、会話の相手が居ればできるんだけどなー」

「恥ずかしいからムリだよぉー」

 

いろいろ状況や相手に応じて、発言しなくていいように誤魔化してみる。

 

でも、これも決していい結末を迎えるわけではない。

 

「なんだよ、大したことないじゃん」  (ほっとけ!)

「えー、うわ、空気ヨメヨー」  (なんの空気だ!)

「は?なにそれ、つまんね」   (つまんねー質問するからだろ!)

 

うわ!想像しただけでなんか凹んできた!

色々嫌なもん思い出してきたわ!

アイツだよアイツ!くそーーー!腹立つーー!

 

 

失礼・・・。色々過去のトラウマが・・・。

 

もちろん、上手く誤魔化せることもあるかもしれない。

けれども、こういうイヤーーーな対応されたこともあるんじゃない?

 

言われたとおり返してもダメ

誤魔化そうとしても結局ダメ

 

んじゃどーすればいいのよ!?

 

 

頑張って面白く返す

 

ここまで来た「あなた」は最終手段、

プランCに移行する。

 

グーグル先生の力を借りて、

「英語 何かしゃべって 返し方」

とかで検索するんじゃないだろうか?(僕も中学の頃してました、ええ。)

 

そこで色んな記事や掲示板に出会う。

 

こう返せばいいよー!

こう返したらスカッとしたよー!

こうしたら上手くいきましたー!

 

など、同じ悩みを抱えている人の多さに驚く。

 

そこで、

次こそはこう返してやろう!

って決めるんじゃないだろうか?

 

一発ギャグっぽいのを仕込んでおいたり、

代表例:有名なフレーズ系、カタカナ発音系、英語じゃないじゃん系

  • "I am your FATHERRRRRR"
  • "Thisu izu a pen"
  • "Wengardium LeviOsa!"

 

こっそり嫌味混じりなフレーズを用意したり、

  • "That is a stupid question you know."
  • "Your Japanese sucks."
  • "Talking to you is like talking to a sack of potatoes. I love it."

 

もうこの際だから(どの際だ)汚い単語を言ってみたり、

  • "#%!@"
  • "&#%$"
  • "@$!%#"

 

 

色々用意してみる。

次こそ!次こそは上手く返してやるんだ!

そう、心に誓って・・・。

 

でも、考えてみて欲しい。

ホントにそこまで考えに考えて、

上手く返す必要のある問題なのだろうか?

 

 

聞き手は何も期待していない

 

「英語でなんかしゃべって」

と言う人の気持ちになってみよう。

 

なんでそのようなことを聞くのだろうか。

 

本当に英語に憧れがあって、

ネイティブな発音が聞きたくて、

是非とも今!あなたの口から!私のお耳に!

聞かせて頂きたく思いまするーーーー!!

 

なんて人は居ない。断言する。

 

だからと言って、

わざと意地悪に聞いてきている

なんて人もあまり居ないだろう。(中にはこういう人も居るだろうけど

 

では何故このようなことを聞いてくるのか?

 

単純な話で、

なんの意図もないし、特に考えて言ったわけでもない。

ただそれだけ。

 

悪気があるわけでもないし、

別に答えの中身に興味があるわけでもないし、

強いて言うなら、

あなたという人間にそこまで興味があるわけでもない。

 

人間なんて、そんなもんだ。

適当に会話を繋げるために言っただけ。

 

僕たちを悩ますコトバの正体って、実はそんなもんだったりする。

面白くもなんともないし、聞く必要性も一切ない。

何も生み出さないし、誰も得をしない。

 

そんな適当なコトバに、

これだけ多くの人が傷つけられ、

悩まされ、

時間と労力を取られている。

 

だから僕は提案する。

 

結論!こんな下らないコトバに頭を悩ませないで!

 

どう返せば上手くいくんだろう、

なんて言えば嫌われないんだろう、

 

こんなことで頭を悩ませるのはもう今日でおしまい

 

こんな下らないコトバのせいで、

「あなた」の大切な時間を無駄にする必要も、

「あなた」が傷つく必要も一切ない。

 

どう返しても、どう工夫しても、

いい気分になるものではないんだ。

 

だって、意味もなく、価値もない、そんなコトバなんだもん。

 

だから、もうこのコトバに悩まされないで。

あなたは何も悪くないのだから。

 

もし、また言われるようなことがあったら、

いつぞやのアイツみたいにビシッと言ってやればいいのさ。

 

「英語でなんかしゃべってよ!!」

「は?なにそれ、つまんね」

 

ってね。(いや、違うだろう!

 

こんなコトバに悩まされることがない世の中、

そんな日が来ることを心から願おうじゃないかー。

 

 

では、僕から以上っ!!

 

 

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「帰国子女」の定義について考えてみよう

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どーもー、おりばーです。

 

今日はざっくりと「帰国子女」の定義について考えたいなと。
ホント、ざっくりね。

普段何気なく使って、耳にする言葉。
僕としては自分自身をずっと「帰国子女」だと認識して生きてきたわけだけど、実際にはどういう人が当てはまって、どういう人は当てはまらないのだろうか。

 

文部科学省の定義

 

まずは国がどのように帰国子女を定義しているのかを見てみよう。
・・・って言いたいところなんだけど、意外とコレが見つからない。

色々探しているうちに辿り着いたのが、文科省発行の「学校基本調査」

 

簡単に言うと、日本の学校でとった様々な統計を発表している文章なんだけど、ここの中で当然「帰国児童」って呼び名で帰国子女の数も数えられてるのよね。
数えるってことは、定義も書いてあるはず!

ってなわけで、簡単に定義をまとめると、

海外勤務者等の子供で1年を超える期間海外に在留し,帰国したもの。

 

海外勤務者等とは,日本国籍を有する者で,海外に所在する機関,事業所への勤務又は海外での研究・研修を行うことを目的として日本を出国し,海外に在留していた者又は現在なお在留している者」(p.11)

 

つまり!

親の都合で海外に居た + 一年以上海外に居た

というのが国の定める定義ってところじゃないだろうか。

 

言い換えると、

一年以上海外に居ても、親に連れて行かれて、ではなく個人の意思で行く留学とは分けて考えなければいけない、ってことだね。

また、同じ調査で「日本国籍を持たない者」を「外国人」と区別してる一方で、「日本と外国の両方に国籍を有する者は日本人とします」って書いてある。
日本の国籍を持っていないと、帰国子女にはなれないと。

ただし、帰国入試を実施している学校の募集要項を見ると、一年以上だったり二年以上だったりと、学校によって基準が違う。

「帰国子女」というものの定義がそもそも曖昧だということが表れてるね。

 

世間一般での認識

 

文科省の定義は分かったけど、これだけだと何だか納得いかない。

というのも、世間一般での「帰国子女」の定義というか認識って、少し違う気がする。
もっと具体的で、細かくて、ステレオタイプを含んでるんじゃないかな。

ここではあくまでも僕が感じた世間一般での「帰国子女」の認識について、大まかに書こう(細かく見ればもっと色々あるだろうけど)。

 

「帰国子女は英語が出来て当たり前」

 

何故か「帰国子女=英語が出来る」って認識だよね。

 

英語圏以外に住んでいた人だって沢山居るのに。
もっと言えば、海外の日本人学校に通っていた人だって居るのに。

帰国子女ってだけで英語が出来ると期待される、
それがプレッシャーで、面倒くさくて、帰国子女だってことを隠す人も多いんじゃないかな?

僕も「英語でなんかしゃべって!」という死のワードを回避する為に帰国子女であることを隠す事は多かったかな。

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女は必ずしも英語圏から来ている訳ではない!
今の時代、海外に日本人学校くらいたくさんある!

無条件に帰国子女全員が英語を使って生活していたと決め付けるのは誤りだ。

 

僕自身は英語圏で育ったから、このブログは主に英語について話すことになるけど、このことを決して忘れてはいけない、と自分にも言い聞かせておこう。

 

「幼少期までに海外に行っている」

 

上の文科省の定義を見ると、
「○○歳までに渡航した者」とは一切言及されてない。

ということは、親の都合で、という部分さえ満たせば、特に年齢制限ってのはないみたい。

だけど、実際にはどうだろう?

 

例えば、空想の人物「A太郎」君で考えてみよう。

A太郎は高校1年まで日本で育ち、高校2年の一年間のみ、親の海外転勤の都合でイギリスへ。
一年間、現地の日本人学校で過ごし、高校3年生の時に帰国し、もと居た高校に再編入した。

親の都合で、なんとも可哀想なA太郎君・・・。
そんな彼は、「帰国子女」でしょうか?

 

まぁ、定義は満たしているから答えは YES なんだけど、
何故だか世間では、幼少期(大体12歳くらいまで)に海外に飛び立っている人のことを「帰国子女」と呼ぶ傾向があると思うのは僕だけだろうか?

帰ってくる時期はさほど重要ではなく、いかに若い段階で海外に行っていたかが重要視されているような気がしてならない。

別に小学生の時であれ、中学生の時であれ、高校生の時であれ、留学ではなく親の都合で海外に一年以上居ればそれは立派な「帰国子女」なのに。

 

結論!「帰国子女」の定義は曖昧である!

 

まぁここまで色々書いて何なんだけど、

 

結論としては、
「帰国子女」って言葉は定義が曖昧で、組織や団体によって認識が多少異なる。
そして、世間一般での認識は、非常に定義が狭く、間違いが多い

ってところかね。

世間一般での認識が、あまりに狭い範囲の人しか「帰国子女」と見ていないから、

  • 英語ができない
  • 一年しか海外に居なかった
  • 高校生の時に渡航した

などの人は、「隠れ帰国」というカテゴリーにされてしまうのかもしれない。

海外がどんどん身近になってゆく現代において、このままの認識でいいのだろうか。
世間の認識が変われば、帰国子女にとってより住みやすい世の中になるんじゃないかな。

 

そんな日が来ることを心から願おうじゃないかー。

 

では、僕から以上っ!!

 

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