帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

「英語ができない帰国子女」だって普通に居ることを分かって欲しい

本日のテーマ
「帰国子女-英語=?」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

帰国子女=英語ができる

 

日本人学校に通ってようが、英語圏以外に住んでいようが関係ない。
何歳の時に行ってようが、帰国してから何年経ってようが関係ない。

帰国子女ならば全員英語が「ペラペラ」

その安易な発想が、密かに多くの帰国子女を苦しめていることをご存じだろうか。

羨ましい!ずるい!などと言われる一方で、「帰国子女」という肩書きから英語を取ると何が残るのか、考えたことがあるだろうか。

世間が帰国子女の「英語」にしか期待や興味を示さなくなった結果、その「英語」を持たない人たちがどのような思いをしているのか。

今日は一緒に考えてみよう!

 

羨ましい!ずるい!の対象はほぼ「英語」

 

以前の記事でも書いたけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女は羨望や嫉妬の対象になりやすい。

でも、帰国子女の何をずるいと思って、何を羨ましいと思っているのか

 

おそらくだけど、その感情の9割以上が「英語」に対するものじゃないだろうか?

いいなー英語ができて。
ずるいよなー、英語の勉強しなくても点取れて。
受験とか英語できれば楽勝じゃん。ずるいなー。

僕自身が言われてきたものを考えても、やはり「英語」に関するものばかり。
英語ができるというのは今の日本社会においてかなりのアドバンテージを与えられている。
その過剰にも思える付加価値には様々な問題がある。
国語をないがしろにしてまで英語を学ぶ必要はないと思うし、言語という本来はコミュニケーションの為のものを完全な知識競争にしている教育の現状も残念極まりない。

けれども「英語ができる」という部分が「羨ましい」や「ずるい」の対象になっているのは明らか。

幼い頃から友達と離ればなれにさせられるなんて、羨ましい!
知り合いも誰も居ない、言葉も通じない学校に放り込まれるなんて、羨ましい!
帰国した後に「外国かぶれ」とか「調子に乗ってる」とか言われるなんて、羨ましい!

なんて言う人は居ないだろう。

「英語ができる」という一面だけ見れば輝かしいかもしれないけど、帰国子女の人生って、決してキラキラしたもんじゃない。

海外でも、帰国してからも常に「よそ者」扱い。
外国では「アジア人」とバカにされ、帰国したら「外国かぶれ」とバカにされる。

ずるい!羨ましい!
なんて言葉が向けられるのは、僕らの「英語」だけ。

実はみんなが憧れているのは、帰国子女じゃなくて「英語ができる人」。

では、帰国子女から「英語ができる」を引いたら何が残るのだろうか? 

「帰国子女」というハンディキャップ

 

日本語が変。
空気が読めない。
クラスになじめない。
日本のことを良く知らない。
地元と呼べる場所が日本にない。
友達と呼べる人はみんな海の向こう。

日本の外で過ごした時間は、たちまち「ハンディキャップ」となって帰国子女に襲いかかる。
クラスメートと同じ土俵に立てない。
常に追いつこうと必死。

日本に居なかったことに対するペナルティを与えられ、帰国子女は大きな「マイナス」を所持して日本での生活をスタートする。

そんな大きな「マイナス」を、何とか帳消しにしてくれるのが「英語ができる」という勲章だ。

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photo credit: DiariVeu - laveupv.com gettyimages - medalla via photopin (license)


日本社会からとてつもない価値を与えられたこの勲章によって、帰国子女はその数々のハンディキャップとのバランスが取れる。

空気が読めなかろうが、日本語が下手だろうが関係ない。
「英語ができる」というその一点さえあれば、社会に価値を認めて貰える
喜べることではないけど、事実である。

 

それがどうだろう。

英語ができない帰国子女は、日本社会から課せられたハンディキャップを打ち消すための勲章を持たない。
「英語ができる」というステータスを持たぬ帰国子女は、負の重りを背負わなければならない。

ペナルティを乗り越えて日本社会で行けてゆく為に、英語ができない帰国子女ができることは、たった2つだけ

その1 「隠れ帰国」になる

 

一つ目の方法。
それは「隠れる」こと。

帰国子女である、という風に認識されないようにする。
昔海外に居たという話題をなるべく避ける。
自分は「帰国子女」のカテゴリーには当てはまらないと自分に言い聞かせる。

もし誰かに

「え?昔海外の学校行ってたの?帰国子女じゃん!」

と言われたら、たちまち

「いや、でもほんの少ししか居なかったから」
「あ、でもずっと昔のことだから・・・」

などと相手に言い聞かせる。
いや、そうせざるを得ない状況を社会が作っている

「帰国子女」というカテゴリーに認定されてしまった瞬間、その人は「英語ができる」というレッテルを一方的に貼られてしまう。

「隠れる」ということは、自らの過去をなかったことにすること。
自分が通ってきた道を、乗り越えてきた苦難を、誇りに思わないということ。
それは、あたかもずっと日本に居ました、という風に自分を投影すること。

本来ならば隠す必要のないものなのに。

帰国子女ならば英語ができて当然という誤った認識によって、英語ができない帰国子女は、その存在を否定されているのだ。

 

その2 英語を必死に勉強する


帰国子女なのに英語ができない。
そう思われたくない。
海外に何年かいたのに、英語ができないなんて恥ずかしい。

そう思う人は、人一倍努力して英語を身につける

それは、
誰かと会話したい!
自分の将来にこう活かしたい!

というモチベーションじゃない。

できないなんて言えない!
というある種ネガティブな動機だ。

帰国子女は努力しないで英語ができる?

そんなことはない。

帰国子女の「英語」にしか興味がない世間に振り回され、苦しんでいる。

英語を保持し続けることの難しさ。
一方的に流暢であると期待されるプレッシャー。
それらをもっと理解してあげる必要がある。

帰国子女が英語の勉強をしていないと思うのなら、それは大きな間違いだ。

帰国子女で英語ができないことの何が悪い

 

以前の記事でも話したけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女だけど英語ができない。
という考え方はもう止めにしよう。

帰国子女という曖昧で、広いカテゴリーの中で、英語ができない人くらい、むしろ居て当然じゃないか。

「帰国子女なのに英語ができない」というのは言ってしまえば、
イギリス人なのに紅茶が嫌い、
ブラジル人なのにサンバが踊れない、
イタリア人なのにコーヒーが飲めない、
というのと何ら変わらない

そんな人が居たって、別になんらおかしくもない。
でも、個人じゃなくて集団で見てしまうと、どうしてもカテゴリーで考えてしまう。
イギリス人ならこうだ。
ブラジル人ならこうだ。
帰国子女ならこうだ。

 

僕も留学先ではよく言われる。

「おりばー!日本人なんだろ!寿司握ってくれよ!」

握り方知らないし。
握りたいって思ったこともないし。
日本人なら誰でもSUSHI作れると思うなよ!?

寿司を握れるようになるまで、一体どれだけの長い道のりがあるのか
それを知らないから「日本人だから寿司握れるっしょ?」という安易な発想になる。

個人のことをもっと知ってもらえばその誤解は解ける。
でも初対面の相手に一方的に「英語ができる」と思われてしまう。
日本国内で常にそのプレッシャーにさらされている。

そんな人たちが居ることに、僕らは気づかなくてはならない。

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photo credit: andrew and hobbes Reaching out via photopin (license)

 

帰国子女で英語ができない?

そんなの別に普通だよ。

恥ずかしがることでも、隠すことでもない。

 

そういう考えを、「常識」にしてゆかなければならない。

 

結論!帰国子女なら英語ができて当然なんて思うな!


これからの時代、帰国子女はどんどん増えてゆくだろう。
英語圏にこだわらず、世界中から羽ばたいてくるだろう。

そんな彼ら彼女らを、英語ができるかできないかなんて狭い視点でしか見ることができないままだと、

その子たちが日本に持ち帰ってくる豊富な異文化交流経験や、多種多様な言語との関わりという日本社会の国際発展を前進させる為の大事な「財産」を、

気づくことなくドブに捨ててしまうことになる。

 

さぁ、改めて心に刻もう。

 

帰国子女で英語ができない、それは普通のことだ。

それとも何か?

君は「日本人なのに寿司も握れないのかい?」

 

 

では、僕から以上っ!!

BBCの取材中に子どもが乱入、を面白ニュースで終わらせるのは勿体無い

本日のテーマ
「偏見と差別」

 

どーもー、おりばーです。

 

 

BBCの取材中に子どもが乱入!

ここ数日間、テレビやネットを見ていた人ならば恐らく目にしたであろう例の動画

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テレビ取材に答えている真っ最中に、部屋に入ってきたのはノリノリの子ども。
続いて歩行器を巧みにあやつる赤ん坊。
そして慌てて子ども達を連れ戻しにきた「一人の女性」

すでに海外メディアでは盛んに報じられていることだけど、現在この女性をめぐって、ほのぼのニュースとはかけ離れた大論争が巻き起こっている。

 

この女性は母親なのか?乳母なのか?

この女性が母親ではないと決め付けるのは差別なのか?

そして主に日本の一部ネットで巻き起こっているのが、

これをいちいち差別・偏見っていうのは敏感になりすぎなのでは?

 

という3点の論争が起きている。

今回は、

人種に対する差別と偏見がいかに僕らの中に深く、根強く埋め込まれているのか。
そしてそれについて議論することは「敏感になりすぎ」なことなのかについて一緒に考えていこう。

 

 

第1の論争:母親なのか、乳母なのか?

 

僕自身がいろいろリサーチして文章にしなくとも、すでに本家 BBC News の Helier Cheung (ヘリエ・チュン氏)が記事にまとめている。

問題の全容をつかむためにも一読をおすすめする

www.bbc.com

話の焦点になっているのは、

元のビデオを報道したメディアの一部、そしてそれをツイート、コメントした人の多くがビデオに登場した女性を「Nanny = 乳母」だと思っていたこと。

当然、元のビデオでは乱入した子どもを部屋から出そうと必死になっている女性が映っただけ。
彼女が母親なのか、乳母なのか、ベビーシッターなのか。
それに関する明確な情報はなかった。

後日、動画があまりにもネットで話題になったため、今度は家族全員で取材に応じた。
そのとき、世界は初めて「あの女性」が Jung-a Kim (キム・ジュンア) という名の母親であることを知った。

(実はビデオの中で子どもが韓国語で「ママ、どうして?」と言っていることから、韓国語が分かる人には答えは明らかだったんだけども)

 

結果として、母親か乳母か?という第一の論争は、彼女を母親だと主張していた人たちが正しかったという結果に終わった。

だけどここで巻き起こったのが第二の論争

 

第2の論争:母親じゃないと決め付けるのは差別なのか?

 

元動画がヒットした時点では、正確な情報がなかった以上、動画を見て面白い!って思った人々はその女性が何者なのかについて自分で考えざるを得なかった。

その中で、
当然のように母親だと思うもの。
当然のように乳母だと思うもの。
これらの二つに分かれたのは、一体どのような原因があるのかを考える必要がある。

 

乳母だと主張する側の意見には、様々な理由があった。

  • 慌てている様子が雇われのベビーシッターっぽい
  • 男性が教授という権威のある職だから乳母を雇っていてもおかしくない
  • 教授の住んでいる韓国では乳母を雇うことは珍しくない

たしかに肯定しようと思えば色々と根拠を見つけられる。
けれども、あの短い、「面白動画」として拡散された映像をみて、そこまで瞬時に色々と考えた人も少ないのではないだろうか?

 

そのことから、乳母だとツイートした人、乳母だと報じたメディアは、

乳母だと決め付けるのは、アジア人女性への偏見だろ!

と各方面から多大なバッシングを受けてしまった。

 

乳母という職業に対するイメージや偏見も関係しているだろう。
特定の職業に特定の人種が従事しているという偏見は世間でありふれている。
白人の家で雇われている黄色人種、という風に人種の優劣を無意識に考えてしまった人も中にはいるかもしれない。

だけど何より一番の偏見は、人種を超えた結婚に関するものだろう。

悪気がなくとも、多くの人が無意識にもってしまっている。
「同じ人種同士で結婚するのが普通だ」という偏見を。


乳母だと認識した人の多くは、アジア人女性と白人男性の夫婦という選択肢を最初から考慮しなかったのだろう。

それは、意図的に「そんなのありえない!」と除外したのではない。
人種の異なる二人が夫婦であるという発想を、そもそも思い浮かべる「枠」を持ちあわせていなかったのだ。

僕たちは、自分の持つ思考の「枠」にとらわれている。
それは教育やメディアによって小さいうちからコツコツと形成されてゆく。
その「枠」を広げるには、「枠」の外にも実はいろいろあるということを知るキッカケが必要。
自分の「常識」以外にも様々な発想や意見がある。
それを認識して初めて人は自らの思考の「枠」に気づくする。

 

今回の論争で大事なのが、

多くの人が意図的に人種差別的な発想をしたのではないということ。
メディアや教育の中で無意識に培われてきた「常識」
その思考の「枠」そのものが差別的な価値観を無意識に抱えてしまっていた

 

このようなレイシズムを、
"Covert Racism" (無自覚の・内在化された人種差別) と呼ぶ。

人種差別はなくなってない。

前の記事でも話したように、僕らの周りにも日常的にあふれている。

practicemakesbetter.hatenablog.com

そんな中でも特に厄介なのが、無自覚の人種差別。
僕らの社会が成り立っているシステムそのものが、それを助長しているときもあるし、教育、テレビ、広告などから少しずつ形づくられてゆくものもある。

それに気づいて、違和感を感じられるかどうかが大事なのだと思う。

 

結果として、

乳母だと決め付けるのは人種差別なのか?
それとも正当な根拠があるのか?
という第二の論争は現在も続いている

 

話はそこで終わるはずだった・・・。

けれども、日本のメディアにこの議論が伝わったことで、実は第三の論争が始まったことを知っているだろうか?

 

第3の論争:「アメリカ人、人種差別に敏感すぎじゃね?」

 

多くの人が有意義な議論を重ねている一方で、日本の各メディアサイトを見ると、その反応は案外冷め切っている

「こんなんでいちいち人種差別だー!とか言うの?」
「これのどこが差別なのかぜんぜんわかんね。」
「アメリカ人、人種差別に敏感すぎじゃね?」

もちろんこのような反応が国を代表しているとは一切思わない。
ごく一部の意見であってほしい。

けれども、事実として今回の一連の議論が日本ではあまり活発に行われていない。

国際結婚は日本でもある程度広まりつつあるものの、まだまだ偏見が多い。
「外の人」である「外国人」と結婚するという発想から抜け出せない人も多いだろう。
「同じ人種同士で結婚するのが普通だ」という考えは日本でもかなり根強い。

日本人に対する人種差別や偏見もまだまだあることから、議論に関心を示す価値は十分にある話題だと思うのだけれども。

なぜか「過剰に敏感になりすぎ」という風に捉えられてしまう。

 

「こんなの」でいちいち話題にするのは、敏感になりすぎなのか?

議論している人たちは、差別反対!とただ大声で叫んでいるだけの人なのか?

 

そんなわけない。

 

でも、僕は別に怒っているわけでも、落胆しているわけでもない。
なぜなら、「敏感になりすぎ」という風にバカにされているとしても、それは、それだけ多くの人の目と耳に情報が届いているということを意味しているから。

差別という言葉が話題にすらならない。
差別という発想がそもそも認知されていない。
差別があって当たり前だと思われている。

そのような時代に比べて、僕らはだいぶ前進したと思う。
まだまだ戦ってゆかなければならないし、現状で満足してはいけない。

けれども、
「敏感になりすぎ」だとバカにする人が出てくるくらい、議論が活発に行われて、話題に上がっている
それは素直に喜ばしいこと。

 

Gandhi が言ったとされている文言の中で、このようなものがある。
実は出処がハッキリとしていない言葉なのだけど、今回の話に通ずるところもあるだろう。

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https://www.walldevil.com/507111-mahatma-gandhi-first-they-ignore-you-wallpaper.html

はじめに彼らはあなたを無視し
次に笑い・からかい、
そして挑みかかってくる。

そうして我々は勝つのだ。

人種差別の話題が挙がりすらしなかった。
無意識な人種差別が存在することに気づくことすらできなかった。

そんな時代を乗り越え、議論が活発に行われるようになってきた。

声が上がり始めたら、それをあざ笑い、バカにする人も出てくるだろう。

でもそこを耐え抜いて、声を上げ続ければいつか変化は訪れる。

からかう人を恐れて、黙ってしまってはいけない。

 

だからこそ僕は、この第三の議論もある意味でとても有意義で、価値のあるものだと思う。
多少でも話題に上がって、人の目に触れれば、それだけ多くの人の思考の「枠」を広げられる。
その議論に賛同する・しないは別にして、その考えに触れるキッカケを与えられる。

バカにする人が出てくるくらい話題になっていることに、感謝しよう。

 

結論!それでも面白い動画であることに変わりはない!

 

最後に、

「議論せず、楽しんでみてほしい」

乱入者たちの母親であるキム・ジュンアさんの言葉だ。

この動画が巻き起こした大論争は、議論する価値のあるものだ。
けれども、いくら真面目な話題に発展したからといって、あの例の動画が最高に面白く、たった数秒で多くの人々を笑顔にできることに変わりはない。

踊りながら入場した子供。
歩行器を巧みにあやつる赤ちゃん。
状況に絶望しつつ、威厳を保とうとする父親
そして夫のために必死に駆けつけてきた妻。

いまや世界中がこの家族の大ファンになりつつある。

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http://indianexpress.com/article/trending/trending-globally/twitterati-is-loving-the-bbc-interview-kid-hails-her-the-queen-and-president-of-earth-4571205/

 

人種差別、
国際結婚への風当たり、
数々の偏見、

それらを乗り越えて、幸せな家庭を築いている。

あの動画は多くの人に笑いを提供しただけでなく、人種・偏見に対して一度考え直すキッカケを与えてくれて、なおかつ、幸せな家族の形を僕たちに示してくれた。

 

ただの面白ニュースで終わらせるのは勿体無い。

僕がそう伝えたいのは、
差別や偏見について真面目に考えろ!と言いたいのではない。

面白ニュースとして始まり、僕らに考えるキッカケをくれて、かつ幸せな気分にさせてくれる。

BBC例の動画は、それだけ多くの学びと発見を与えてくれる。

 

 

ただの面白ニュースで終わらせるのは勿体無い。

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http://indianexpress.com/article/trending/trending-globally/twitterati-is-loving-the-bbc-interview-kid-hails-her-the-queen-and-president-of-earth-4571205/

 

 

では、僕から以上っ!!

「ネイティブに笑われる英語」なんて宣伝文句はもうやめよう

本日のテーマ
「ネイティブに笑われる英語」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

その英語、ネイティブに笑われてますよ!

ネイティブに笑われる言い回しトップ10!

 

なんて記事が出回ってるけど、僕はこういうのを見かける度にガッカリする。
「ネイティブに笑われる英語」というのを気にする人がとにかく多い。

 

英会話や英語教材の宣伝文句も、

日本人の英語の9割が実はネイティブに笑われてます!

ネイティブに笑われないホンモノの英語を身につけませんか?

 

とかそんなんばっかり。
9割ってどこ情報だよ。ホンモノの英語ってなんだよ。
日本人の喋る英語はニセモノって言いたいのだろうか。
そう考えているのならば、その人は教育者としてニセモノだと思うんだけどな。

うーむ、腹立たしい。

確かに、話せるように頑張って勉強したのに、笑われるのは決して心地よい気分ではないだろう。

でも待ってほしい。
本当に「ネイティブに笑われる」ことなんてあるのだろうか?

 

本当に「ネイティブに笑われる」のか?

 

おそらく、一番真っ当な答えは、

ネイティブは他人の発音なんかで笑わない!
日本人が実は一番発音を気にしている!
笑われると思い込んで萎縮するな!
自信を持ってどんどん話すのが一番!

というものだろう。

この意見にはおおむね賛同する。
実際に発音で笑われるケースは、留学先よりも日本国内の方がよほど多く目の当たりにしている。
ネイティブではなく、日本人同士にどう思われているかを気にし過ぎなところもある。

日本人の発音に訛りがあるのは、世界中どこに行っても周知の事実。
むしろ訛りの無い英語なんてないという話はいつかしっかり話すとして、発音に訛りがあるくらいで笑われることはそう無いだろう。
正直な話、初めから流暢な英語が出てくることなんて期待されていないのだから。

 

んじゃ結論として、
「ネイティブに笑われる英語」なんてありません!
で終わらせていいのだろうか。

 

いや、違う。

極端な意見かもしれない。
けれども、あえて言わせてもらいたい。

 

 

ネイティブに笑われない英語なんてない。

 

なぜかって?
一緒に考えてみようじゃないか。

 

ネイティブに笑われない英語はあるのか?

 

日本人が流暢な英語を話せることは、残念ながら最初から期待されていない
いや、これは日本人に限らないんだ。

「アジア圏で生まれたような顔」をしている人から流暢な英語が出てくること、それが未だに信じられない人が大勢いる。
「アジア圏で生まれたような顔」というヒドく差別的短絡的な表現をあえて使わせてもらう。
実際にどこで生まれ、どの文化圏で育ち、何の言語を話して生きてきたかは一切関係ない。

「アジアの血」が顔から感じられれば、その人は英語ができないという決めつけ。

そんなあまりにも単純で、今の時代にそぐわない考えを未だに持っている国。
それには僕らが「ネイティブ」と称賛するアメリカイギリスも含まれている。

 

#thisis2016 アジア系アメリカ人の苦悩

 

"Asian American" のことを知っているだろうか?

アメリカに住む、アメリカ生まれの、「アジア系」のアメリカ人
彼ら彼女らは疑う余地もなくアメリカ人だ。
生まれも育ちもアメリカで、ただ見た目が「アジア系」というだけのこと。

でも見た目が「アジア系」というだけの理由で、アメリカ社会でどれだけの苦労と、不公平・不条理を強いられているか考えたことがあるだろうか。

 

#thisis2016 というハッシュタグのもと、多くのアジア系アメリカ人が直面する現実を訴えた New York Times 社の記事が昨年末に大きな反響を呼んだ。

これが2016年の現状だ。
2016年にもなって、現実は未だにこうだ。
国際化が進んでいるとされている中での悲痛な思いが、このハッシュタグには込められている。

時間がある時で良いから、下のビデオを絶対に見てほしい。

www.nytimes.com

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どれだけ英語が国際言語として普及しても、
どれだけ国際化が進み、人・文化・言語の交流が活発になっても、

まだまだ僕らの間にある国境や、文化的な境界線という空想の分け目は消えることがない。

アジア系の顔をした人が英語ができたら面白いか?笑えるか?

 

そんなわけない。

 

けれども現実として、多くの人が目標とする、「ネイティブ」のような流暢な英語を持っている彼ら彼女らでさえ、笑われている。
いや、第一言語が英語だから、むしろこの人たちは正真正銘の「ネイティブ」なのに

見た目が「アジア系」だという、ただそれだけの理由で偏見や差別を受ける。
「アジア系」は全員同じ、という発想も間違いでしかない。

これは言語の問題ではない。
これは「英語力」の問題ではない。
いくら英語が流暢でも、僕らは「ネイティブに笑われる」のだ。

 

外国人が日本語を話せたらいけないのか?

 

日本でも似たようなことが起きている。

街中で道に迷ってそうな「外国人のルックス」の人がいたら、多くの人が頑張って英語で話しかけてみようと考えるだろう。
その人が日本で生まれた可能性、日本語が話せる可能性というものは頭をよぎらない。
見た目から「日本語は話せないだろう」と決めてしまっている。

 

別の例で言えば、

テレビに出てくる日本語が「ぺらぺら」の外国人タレント
とりあえず欧米のルックスの人をCMに出して、日本語をしゃべらせたら面白い。
日本語がカタコトでも笑えるし、もの凄く流暢ならそれもそれで違和感があって笑える。

そんなのばっかり。

別に日本が悪いとか、そういうことじゃない。
世界中で、まだまだ文化・言語・民族への先入観が消えないどころか、メディアによってより強調されている。

「笑う」というのも別に悪気があるわけではないだろう。
だけど人種と言語の不一致、その違和感を感じる理由として、固定概念があることは疑いようのない事実だろう。

 

"Cultural Assumption" = 文化的先入観

 

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アジア系の人は英語がしゃべれない。
外国人は日本語がしゃべれない。

個人という単位で見たら、その考えが間違いなのはすぐに分かる。
けれどもまだまだ文化的な先入観 "Cultural Assumption" はなくならない。

僕らの中での「常識」が、メディアにおける扱われ方が変わらない限り、この先入観は消えない。

 

ネイティブに笑われない英語がほしい?

 

そんなこと、もう言わないでくれ。

 

ネイティブ並みの、ホンモノの英語を身につけたい?

 

残念ながら、僕らの口から発せられる以上、僕らの英語は全部ニセモノ

 

僕らが戦うべきは、
僕らが本当に目指すべきものは、
「ネイティブに笑われない英語を身につける」ことじゃない。

 

本場の英語こそが全てで、それ以外の英語はニセモノに過ぎない。
英語はネイティブの所有物で、僕らが使っているのは「まがい物の借り物」。

 

その先入観を捨てる覚悟。
その固定概念から抜け出して、自分の英語は自分のものだと言い切る勇気。
僕らが目指すべきものはそこじゃないだろうか。

 

これは日本人だけの戦いじゃない。
英語学習者全員がいっしょに戦ってゆかなければならない。
自分たちの中での文化的先入観と戦い、世の中から少しずつ無くしていこう。

#thisis2016 誰が英語をしゃべったっていい。
#thisis2016 「ネイティブ」の英語以外の英語も立派な英語だ。
#thisis2016 見た目が民族・言語・文化を表してるわけじゃない。

 

結論!「ネイティブに笑われない英語」を目標にするな!

 

ネイティブに笑われる。

そんなことを恐れてたら英語は一歩も前進できない。

文化的先入観が無くならない限り、流暢であれカタコトであれ、アジア系の人の英語は違和感を生んでしまう。

だったら、笑われたっていいじゃんか

笑われるということは、何か発信・発言しようと努力した証。
口を閉じて黙ったままでは何も進まない。
どんどん英語を発話して、笑いたい奴らには笑わせておけばいいさ。

立ち止まって、からかう奴らなんて気にしないで。
前に進み続ける限り、確実に自分の中で成長してゆける。

ネイティブに笑われる、
日本人に笑われる、
そんなことよりも、
昨日の自分に笑われないことの方が大切。

 

2017年現在、民族・文化・言語に対する先入観はまだまだ根強い。

これを今後変えてゆけるかどうかは、僕らの努力にかかっている。

小さなところからコツコツと。

自分の中の先入観を無くしてゆくところから一緒に始めよう。

 

 

では、僕から以上っ!!

 

 

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帰国子女は空気が読めないくらいがちょうどいい

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本日のテーマ
「空気を読む」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

帰国子女ってさ、ホントに空気読めないよね

 

帰国子女の悩みの中でも、恐らくトップ5に入るであろう「KY(空気読めない)問題」。

もはや一般常識となりはじめている「帰国子女=空気読めない」という認識。

今日は「空気を読む」ということの意味を考えつつ、どうして帰国子女にとって難しいのか、そして帰国子女は「空気が読める」必要があるのか、について一緒に考えていこうじゃないか。

 

 

どうして帰国子女は「空気が読めない」のか?

 

まず初めに言っておきたい。
帰国子女だからと言って、皆が空気が読めないわけではない

日本での生活が長ければ、同じ学校に居る時間が長ければ長いほどに、空気は読めるようになってくる。

けれども、やはり事実として多くの帰国子女がKYと呼ばれ、また帰国子女自身もその「空気を読む」という行為の難しさについて悩んでいる。

 

その理由・原因はなんだろう?

 

他の方の記事やサイトで良く言われているのが、

外国には空気を読むという文化が無い。
個人主義の国では
空気なんて読まない。

と言ったように、

海外では「空気を読む」ことなんてない!
だから帰国子女は日本に来て、その新たな文化に適応できないのだ!

という解釈である。

たしかに、日本の集団主義的な価値観が個人の欲望や欲求よりも、他人との調和を重視しているから「空気を読む」という特有の文化を生み出しているのだ!

そう考えると、「空気を読む」という文化は海外には無くて、だからこそ帰国子女は「空気を読む」技術や知識に欠けているのだ!

と考えられなくもない。

 

でも、果たしてそうなのだろうか? 

 

外国には外国の「空気」がある

 

海外に居た時は「空気を読む」必要なんてなかった?
個人主義のアメリカでは、皆が自分のことばかり考えてるから、協調なんて考えない?

そんなわけないよね。

海外には海外の、
その国にはその国の、
「常識」というものがある。

 

アメリカの大学を例にしてみよう。

アメリカを含む海外での大学の多くは、出席すること自体に意味を置かない。
授業中の積極的な参加態度、ディスカッションへの貢献度合いなどが評価される。

講義を静かに聞いて、言われたことを黙ってノートに写す。
それだけでは全く評価されない。

仮に教授に名指しで、「今の議論について何か質問ある?」と聞かれたとしよう。
理解してないと思われたくないから、
「いえ、特にありません」と言ってしまうと、正直教授はガッカリしてしまうだろう。

分からなかった点を聞いていたのではなく、君自身の意見を議論に加えてほしい、という要望だったのだから。

 

慣れてない場での、暗黙の意図の読み違い

これこそが、「空気が読めない」という事だ。

留学先で「空気が読めない」行動をとってしまう人、結構いるんじゃないかな。

 

帰国子女が「空気を読む」という概念を知らないんじゃない。
日本という慣れてない場の「空気」がまだ読み取れてないだけ。

帰国子女は海外では実は「空気を読めていた」

そう考えてみたらどうだろうか。

 

日本の「空気」がどこも同じだと思ったら大間違い

 

ここでもう一つとっても大事なことがある。

 

日本にずっと住んでいた人なら誰しもが「空気が読める」と思うのも間違いだということ。

現に、空気が読めなくて苦労している人は帰国子女に限らず大勢いる。

各コミュニティーにはそれぞれの「空気」があるというのがその理由ではないだろうか。

 

例えば、

急に明日から全く違う部活・クラス・職場に入ることになったとしよう。

皆のキャラや、友好関係、そのコミュニティでの流行や言葉遣い、それらを瞬時に理解するのは、誰にだって難しいこと。
そのコミュニティには、その内部で作り上げられてきた関係性、内輪ネタやノリがある。

いわゆる「空気」と言うものだ。

 

そう考えると、帰国子女だから空気が読めない、というよりも、新しいコミュニティに入ったら、誰だってしばらくは空気が読めないということなんじゃないだろうか?

日本人なら日本中、どのコミュニティに入ってもすぐに空気が読めるかって言ったら、そんなことないだろう。

「空気を読む」というのは、何も日本特有の文化でもなければ、日本にさえ住んでいれば無条件で出来ることでもない。

 

「空気が読めない」のは悪いことなのか?

 

「空気が読めない」と言うのを、

協調性がない、
思いやりがない、
自己中心的、

と思ってしまう人も多い。

けれど、僕は「空気が読めない」 こと自体は、何も悪いことじゃないと思う。

今自分が居るコミュニティに、まだなじめてないだけで、別に誰かを傷つけようとか、自分のことばかり主張してやろう、って気持ちはない。

確かに、どんな人ともすぐに打ち解ける、そういうのが得意な人も居るだろう。

だけど、誰しもが同じペースで、「空気が読める」様になるとはても思えない。

 

特に、その暗黙のルールや内輪なノリを、共有する気が初めから無い。
そんな閉鎖的なコミュニティの場合はなおさら難しい事だろう。

「空気読め」というのは、コミュニティの部外者をハッキリさせるのに大変便利な言葉だ。

「空気」というのはその集団の中に入って、ゆっくりと覚えてゆくもの。

だけど、集団側がその新参者を歓迎しようとしなければ、「空気」を身に付ける機会すら、その人は与えられないだろう。

「空気が読めない」ってのは本当に辛いことだよね。
誰にもその「空気」を教えて貰えず、「これだから帰国子女は」と吐き捨てられる。

「空気読め」と言われるたびに、自分がこの集団においてよそ者であるという事を痛感する。

でも、帰国子女は帰ってきたこの国で生きていかなければならない。
「空気が読めない」からと集団から外されたら、僕らには居場所がないんだ。

僕らは日本で生まれた日本人。

今、まさに帰って来たこの日本こそ、僕らの居場所であるべきはずなのに。

 

「空気が読めない」からこそ気付けることもある 

 

「空気を読む」努力なんて一切する必要なし!
なんて言い切るつもりはない。

社会の中で孤立しないためにも、今いる集団を理解しようとする努力は決して無駄ではない。

だから、帰国子女は空気読むな!とは言わない。

 

しかーーーし!!

 

最後にこれだけはハッキリ伝えておきたい。

「空気が読めない」というのは、その場での「常識」が分からないということ。
そこの「常識」が「常識」に思えないということ。

言い換えれば、少し違う視点を持つということ。
「常識」に挑戦する視野を持っているということ。
それは、実はとても素敵なことだと思う。

「言わなくても分かるでしょ」に対して疑問を投げかけられる。
それは、「空気を読む」ばかりでは出来ないこと。

察するばかりでは、コミュニケーションは生まれない。

暗黙のルールに縛られ、「常識」の中でしか行動出来なかったら独自性も創造力も生まれない。

 

いいじゃん、空気読めなくて。

実はそれくらいがちょうどいいのかも。

空気を読んでたら気付けなかったこと。
空気を読んでたら出来なかったこと。

それをキミは出来ているのだから。

皆と違う事が出来るってのは、素晴らしい才能だと思わないかい?

帰国子女に限らず、ね。

 

結論!「空気が読めない」くらいがちょうどいいのかもね

 

日本に帰国した以上、日本社会になじむ努力は必要さ。

海の向こうでの生活が恋しくても、僕らのルーツである日本という国を否定する必要は全くない。

「空気を読む」なんて、今日明日で出来ることじゃない

ゆっくり時間をかけて、自分のペースでなじんでゆけばいいさ。

そして、相手側からの歩み寄りも、実は欠かせない。
相手側に受け入れる気が無ければ、空気なんていつまでたっても読めるわけない。
帰国子女に空気を教えるチャンスを、与えたことがあるかい?

ちょっと視点が皆と違うくらいの方が、実は色々と発見や気付きがあるもんだ。
違う文化で育ったからこそ、日本文化を違う目線で見れる。

その独自の目線で、日本の嫌なところばかり見つけようとしないで。
自分だから気付けた日本の良いところを、ぜひとも見つけて欲しいものだ。

 

これからの日本を変えてゆくには、今までの「常識」にとらわれない、「空気が読めない」人の力が実はとっても大事なのかもよ。

 

では、僕から以上っ!!

 

 

※ お題のデザインはこの記事を参考にしました!今後もお世話になりまする。

はてなブログを簡単カスタマイズ!⑪枠囲み編(後編)+おまけ - 無題で行こう

「帰国子女」であることがその人の性格を決めるわけではない

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"If you thought we were just some cookie-cutter characters, you couldn't be more wrong."

 

どーもー、おりばーです。

 

今日は「帰国子女」と「性格」。
これらの関係について考えてみようかと。


「帰国子女ってこういう子多いよね」
「いるよな~こういう帰国子女」


こんなことを言われたこと、結構あるんじゃないだろうか。
または、言ったことがあるんじゃないだろうか。

いわゆる「帰国子女あるある」というやつ。
(あるある~、より、いるいる~の方が近いか?)


僕らはどうして「帰国子女」と呼ばれる人々に対して、一定の特徴共通の「性格」があるかのように考えてしまうのか。

そして、「帰国子女」だからこういう奴だ!
という決め付けはある種のレイシズムになりうるのか。

その原因と危険性について一緒に考えてみようじゃないか。

 

 

帰国子女あるあると言って思い浮かぶもの

 

まずはじめに、

巷で言う「帰国子女あるある」にはどのようなものがあるのか、色んなサイトを見比べてみた。

サイトの中には、帰国子女目線での「あるあるネタ」もあるけど、今回重要なのは「帰国子女にこういう奴いるよな~」という帰国子女に対するあるあるネタ」。

サイトでよく見かけるものから、自分が過去聞いてきた・言われてきた「帰国子女あるある」をざっくりとまとめると、

  1.  とにかく英語を使いたがる
  2.  「アメリカでは~」って外国と比較したがる
  3.  自己表現・個性が強い(派手)
  4.  社交的・コミュニケーション能力が高い

という感じじゃないだろうか。

細かく見ていけばもっとあるだろうけど、だいたい共通認識として、誰もが「あるある」って頷くものはこの4点じゃないかな。

もちろん「あるあるネタ」は、すべての人がそうだ!と言っているわけではない。

けれども、こういう印象を多くの帰国子女が知らぬ間に持たれているというのは悲しくも事実だ。

 

帰国子女あるあるの問題点

 

ここで考えてみよう。

 

「帰国子女」全員に共通しているものは果たしてなんだろうか?

 

practicemakesbetter.hatenablog.com

↑ 過去記事でも何度も言っているけど、

「帰国子女」は皆が英語圏や、個を重んじる文化圏で育ったわけではない。

「帰国子女」であるという肩書きから真の意味で全員に共通して言えることは、日本以外の国で人生の一部を過ごしたという一点のみだ。

だけど、いわゆるステレオタイプというもので見られてしまいがち。

帰国子女だから英語ができる。

帰国子女だからアメリカ好きだ。

帰国子女だから服装や髪が派手だ。

帰国子女だから社交的だ。

逆もしかり。

英語できるの?あ、帰国子女だからか。

派手な髪色だね。帰国子女だからかな。

コミュ力高いね!あ、帰国子女だからか。

その「だから」は繋がっていない!
ということに気付いてほしい。

だけど」に関してもそうだ。

帰国子女だけど日本語上手だよね。
帰国子女だけど大人しいよね。
帰国子女だけど英語できないよね。

これらも、帰国子女とは本来こうである、という事を無意識に主張している。

 

本来の帰国子女ってなんじゃあああ!!
と僕は声を大にして言いたい。

 

「だから」も、
「だけど」も、
ステレオタイプに照らし合わせているだけ。
その人を「個人」として見れていない。

そして、誰しもそうだけど、「個人」として見られないのはひどく寂しいものだ。

 

「帰国子女」は百人百色

 

英語が得意な子も居れば、日本語が大好きな子も居る。

おしゃべりな人も居れば、シャイな人も居る。

外国生活が恋しい人も居れば、日本が大好きな人も居る。

 

日本での生活が長い人・短い人。
日本になじめる子、なじめない子。

色んな、いや、
いっろーーーんな人がいる!

 

「帰国子女」であるということ、それ単体でその人のことは何も分からない。
分かるはずがない。

海外に一定期間居た、というたったそれだけによって与えられるただの肩書きなのだから。

日本社会によって一方的にカテゴリー化されたに過ぎない。
扱いやすいように、見分けやすいように、どういう人か決め付けやすいように。

住んでいた国、
期間も、
年齢も、
言語も、
文化も、
本人の性格も。

一切関係ない。

 「帰国子女」という名を与えられた時から、僕らは「あるある」を押し付けられる。

これは、人種差別に近いものがある。

○○人だからこうだ。
○○人ってこういう人多いよね~。
あの人ってああだけど、やっぱり○○人だからかな~。

その人を「個人」として見ようとせず、人種というカテゴリーでまとめる。
まるで全員が共通した能力、性格、特徴を持っているかのように扱う。

自分たちとは異質の存在として、ひとまとめにする。
そういう偏見は意図がなくとも人を傷つけてしまうし、互いの溝を深めるばかりだ。

カテゴリーで見ないで、その人そのものを見てほしい。

 

帰国子女だからなんだっていうんだ。
昔海外に住んでいたという事だけで僕の何が分かるんだ。

僕がおしゃべりなのは僕が帰国子女だからではない。
人と話すのが好きだからだ。

僕は帰国子女だけど地味なんじゃない。
ファッションセンスがないだけだ。

 

帰国子女じゃなかったら違う人生を歩んでいたに違いない。

だけど、今の僕が僕である理由は、「帰国子女」だから、では片付けられない。

というより、その一点のみで僕のことを、そして他の帰国子女らの事を決めつけてほしくない。

 

「帰国子女」であるということが、その人の性格を決めるわけじゃない。

それを忘れてはならない。

 

結論!人は皆それぞれ違う、という当たり前のこと。

 

「帰国子女」は人種ではない。
「帰国子女」は言語ではない。
「帰国子女」は文化ではない。

でも、「私たちとは違う」という風に見られれば見られるほど、「日本人」と「帰国子女」、本来ならば同じカテゴリーの人たちが、空の境界によって溝を作られてしまう。

あの人は帰国子女だから。
あの人は帰国子女だけど。

と言わず、また帰国子女も

あの人は日本人だから。
あの人は日本人だけど。

と言わず、互いにいま目の前に居るその人をありのままの「個人」として見る。

ありのままの「個人」として見たうえで、その人が気に食わなければそりゃ仕方がない。
僕だって苦手な人は結構いるし、僕と単純に気が合わないって人も居るだろう。
でも、カテゴリーを捨て、肩書き抜きで人を見ると、意外と見え方が変わってくると思うんだ。

「日本人」と「帰国子女」の区別なんて、本来は必要のないもの。

 

「帰国子女」が当たり前のように「日本人」と呼ばれるようになり、ありのままの「個性」を見てもらえる。
そんな日が来ることを心から願おうじゃないかー。

 

 

では、僕から以上っ!!

 

 

Thumbnail photo credit: goosmurf Ampelmann gingerbread via photopin (license)

新学期開始とノーパソの限界

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どーもー、おりばーです。

 

3月に入り、

いよいよ大学院での最終学期が

始まったとさ。

 

うーん。

休暇扱いだった1月2月は、

キャンパス内の生徒数も少なく、

図書館もガラガラだったんだけど、

 

新学期が始まって

フレッシュな一年生たちが

キャッキャキャッキャしてて、

図書館も少々うるさくて困ったもんだ。

 

とは言え、

 

活気のない大学より、

活気のある本来の姿の方が、

やっぱり少し嬉しいかな。

 

まったく、学部生のひよっ子が

揃いも揃ってうるさいね~

 

だなんて老害の様なことは考えず、

活気あふれるキャンパスを楽しみたいものだ。

 

 

しかーーーーーーーし!!

 

 

ここで少々問題発生。

 

というのも、

 

日本から持ってきた、

5年前から愛用している

ノートパソコンちゃん(ASUS)が、

いよいよ寿命っぽいのだ。

 

デフラグや、

いらないファイルの整理、

必要ない機能の停止等を行っても、

あまり改善が見られない。

 

今も自宅からノーパソを使っているけど、

頻繁に復帰することの無いフリーズや、

エンドレスな読み込みに突入する。

 

ファン周辺の掃除をしても、

結構すごい音を出しながら頑張ってくれてる。

 

5年間って考えると、

ノートパソコンとしては、

結構長くもってくれた方なのかも。

 

頼む!!!

帰国するときまで!

この学期を乗り越えるときまで!

 

どうか!!

生き延びておくれ!!

 

 

そして、

それに関連した困りごとが、

このブログなんだよね。

 

 

僕はこのブログを、

完全な趣味で書いているけど、

 

本来の目的としては、

帰国子女や

似た悩みを持つ子どもたちの

助けに少しでもなればと思って、

 

まぁじっくりと、

コツコツ書き溜める形でやっていこうかなと、

考えて作ってるんだよね。

 

今すぐ見られなくても、

何時か必要なときに、

必要としている人に届けばいいなと。

 

そういう理由(言い訳)もあって、

「毎日書かなくてもいいかな」

と思いつつ、

 

三日坊主にならないように、

三日に一回は更新しよう

と自分の中でなんとなく決めていた。

 

 

ただ、

ノーパソがこの状況である以上、

なかなか自宅からの更新は難しい。

 

長文書いてる途中でフリーズなんて、

想像しただけで寿命が縮みそう・・・。

 

となると、

大学の図書館内のパソコンからの更新、

ってなるんだけど、

 

最初に言ったように、

現在大学図書館はどこも

フレッシュなパーリーピーポー

で埋め尽くされてる。

 

研究と論文執筆が忙しいのに加えて、

パソコンが中々思う様に使えない

 

こうなってくると、

ブログ書いてる暇ねぇ!!!

 

ってなっておりまする。

 

 

そこで、ブログを続ける意味について

僕なりに考えてみたんだけど、

 

これが案外メリットがあることに気づいたのだ。

 

 

ただの趣味でやってるブログとはいえ、

帰国子女やグローバリズム

に関する論文等を読んで得た知識を、

 

「ブログ記事」と言う形で小出しに出来る。

 

この定期的なアウトプットが僕にとって

どれだけ大事なことか。

 

毎日少しずつ書いている研究論文も

確かに「書く」という行為としては

アウトプットだけど、

 

何か月もかけて作り上げる論文

基本的には自分との対話だけで作るし、

少しずつ磨いてゆくことで、

納得のいくの完成形に近づけてゆく

長期的視野が必要な作業だ。

 

だけど、

ブログ記事となると、

 

1つの小さなテーマについて、

短時間で書き上げ、

短い文章量でなるべく丁寧にまとめる。

 

という作業になる。

 

そんなブログ記事の特徴の中で、

何より僕にとってメリットなのが、

 

なるべく多くの人に伝わる言葉で書く

 

というプロセスだ。

 

大学院での論文となると、

読む客層はかなり限られる。

 

その分野に精通していて、

その分野においては常識とされる

単語や概念を当然のように理解出来る。

 

そういう人にさえ読まれればいい、

そんな書き方をすることが多い。

 

大衆に向ける努力も、必要も一切ない。

 

 

けど、ブログだとどうだろう。

 

帰国子女についてあまり知らない人、

正直帰国子女に対して良いイメージを持っていない人、

英語が苦手な人、

 

色んな人に読まれる可能性がある

PVは大して伸びてないけどね!)。

 

読んでくれている人の中に、

帰国子女が居てくれて、

その人の悩みが少しでも解決されたら、

それほど嬉しい事はない、

 

けど、

やっぱり様々な人に向けて発信して、

少しでも考えて貰えたらいいな、

それが積み重なれば、

間接的に帰国子女の悩みを減らせるかなと、

今は考えてる。

 

そうなると、

言葉づかいとか、

使う専門用語とかが

論文とはかなり変わってくる。

 

 

この、

なるべく分かり易く、

色んな人に届くように、

 

ってプロセスが、

論文執筆だけでは見えてこない

分野に関する色んな視点や新たな発見

与えてくれてる気がするんだよね。

 

だから、

学問がもちろん一番大事だけど、

このブログを続けることも、

研究内容に関しての理解を深めるって意味で、

決して無駄ではないなと。

 

そう気づいたのだ。

 

 

というわけで、

2000字ほど使って、

ブログ更新が今後も不定期だけど、

まぁ細々と続けますね、という

 

宣言15%

言い訳85%

な話でしたとさ。

 

 

いやほんと、不定期だけどね~。

論文ともども気負わず頑張りますわ。

 

 

次はもっと内容のある話!

になるといいけどな~、

保証はできないけどね!!

 

 

では、僕から以上っ!!

「考えさせられる」と言わなきゃいけない、現代人の病

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どーもー、おりばーです。

 

ニュースに関して、
事件に関して、
ブログ記事に関して、

フェイスブック等でよく見かける発言。
「考えさせられる」

「とても考えさせられる記事ですね、シェアします」
「非常に考えさせられる、悲惨な事件だ」

このようなコメントがあふれてる。
そう思わないだろうか? 

この通称、「"考えさせられる"発言」が何故ネット上であふれているのか?
そして果たしてこの発言はしばしば批判されるように中身のない言葉なのか?

一緒に考えてみようじゃないか。

 

 

情報発信が気軽な時代へ

 

大半の人が何かしらのSNSをやっている。
そんな現代において、情報の発信はどんどん手軽になってきている。

気軽に自分の意見を発信できる。
それはすばらしいことである一方で、新たな問題を作り出している。

それは、SNSが生活に密接になればなるほど、匿名性が下がっていることだ。

 

「考えさせられる」は匿名性の低い場所にしか現れない

 

僕が思うに、匿名性が高いサービス上なら、「考えさせられる」という発言はあまり出てこないんじゃないだろうか。

僕が「考えさせられる」を見かけることが多いのは間違いなくフェイスブックだ。

 

フェイスブックにあふれる、「考えさせられる」コメント

 

なぜ特にフェイスブックでこの例のコメントが目につくのか。

それは、

  • 匿名性が低い
  • 実名で利用している
  • 実生活でつながりのある人とつながっている

という三つの理由があると思う。

実生活とSNSでコミュニティを共有していると、うかつに意見を発信できない
もしかしたら誰かに間違いを指摘されるかも。
もしかしたら誰かを傷つけちゃうかも。

実名が互いに出ている以上、ふとした発言が個人攻撃と誤解されてしまうかもしれない。

話題性のある、議論が起こりそうな話題であるほど、フェイスブックでは気軽に発信しにくい。

 

議論の余地のない話題に「考えさせられる」は使われない

 

そもそも白黒がはっきりしている話題では、「考えさせられる」なんて誰も言わない。 

答えが明確じゃない、善悪がハッキリとしない話題でこそ、この言葉はその力を発揮する。

「考えさせられる」とは言ってしまえば、
立場をハッキリさせないこと。
自分の意見を明確に出さないこと。

自分がどちら側の意見かハッキリさせなければ、誰かを怒らせてしまう心配もない。
明日学校や職場で会う可能性のある人の意見に、フェイスブックというある種の公衆の面前で真っ向から反対してしまう可能性もなくなる。

そう、「考えさせられる」対立を避けるための安全策

実生活とSNSが重なり合っている現代において、他人を刺激しない言葉は大変便利である。

 

「考えさせられる」は実際は何も考えてない?

 

そこで気になるのが、
「意見を言うわけでもないのなら、わざわざコメントするな!」
という指摘だ。

「考えさせられる」
ってコメント自体には何の意味もない。
議論を進展させてるわけでもないし、掘り下げているわけでもない。

確かにそうかもしれない。

かくいう僕もいつもこう思って、なんだかイライラしていた。

なんでわざわざ中身の無い発信をするのさ。
「考えさせられる」なんていいながら、 ホントはなにも考えてないんだろ
って。

でも、よく考えてみたら実はある種意味のある発言だったことに、最近気がついた。

 

「考えさせられる」を言わなきゃならない本当の理由

 

何故このような、中身のなさそうなコメントが溢れているのか。

僕が思うに、その本当の理由は・・・
「何も考えてないと思われてしまうのが怖いから」
ではないだろうか。

「考えさせられる」は何も考えてない、という批判のまるで逆をゆくように。

何も考えてない、って思われたくないからこそ「考えさせられる」発言なのではないだろうか。

さっきも言ったように、SNSと実生活において、人間関係が重複している人が多い。
そこで例えば、フェイスブックのタイムラインにとても話題性のある、議論の余地のある、痛ましい事件に関する記事が流れてきたとしよう。

そのまま何もコメントせず、素通りしてしまうとどうなるだろう?

 

 

まぁ、何も起きないのだけれども、そうだからこその「病」という表現だ。

僕ら現代人は、気軽に情報発信が出来ることを得た代償として、情報発信をしないと無関心だと思われてしまう、という被害妄想のような「病」を自らにかけてしまったのではないだろうか。

気軽に意見が言えるからこそ、意見を言わないとその話題に関心がないと思われてしまう。
知り合いが見ているフェイスブック上なら、なおさらその勝手なプレッシャーは強くなる。

社会的に物議をかもしている話題に、関心がないなんて思われたくない!
でも、自分の意見をハッキリ言ってしまうと、友達とか同僚と意見が対立してしまうかも。

という一連の葛藤が、無意識に起きるのではないだろうか。

その結果生まれるのが、「考えさせられる」なのである。

無関心だと思われたくない。
けど対立もしたくない。
とりあえず何か発信しなければ!

という自らに課した強迫観念に迫られ「考えさせられる」は生まれる。 

 

SNSで気軽に情報発信する時代は終わったのかもしれない

 

コメントしなかったからと言って、無関心だなんて決め付ける人はいない。
他人のSNSでの一挙動をそこまで気にしている人も少ないだろう。

でも、実生活でのコミュニティとSNSのコミュニティがあまりにも密接になりすぎて、僕らはこうも息苦しいことになっている。

ネットで気軽に発言できる時代。
その気軽な時代は終わりを迎えているのかもしれない。

互いを検閲し合い、意見の異なる者は数の暴力で捻じ伏せる。
そんな時代になりつつある気がする。

それは、トランプ当選後のアメリカの友人たちの投稿を見たら一目瞭然だ。

同じ小学校に通っていたアメリカの友人たちが、「議論」とは呼べないような個人攻撃の嵐を互いに浴びせあう。
選挙という話題に触れなければ怪我をしない。
けれども、選挙に無関心だと思われるのも嫌

そうして次々と巻き込まれてゆく。

選挙戦後の数日間、僕のフェイスブックはアメリカに居た頃の友人たちの喧嘩と、突然アメリカ政治のご意見番に名乗りを上げた日本の大学の知り合い同士の言葉の殴り合いであふれた。

「考えさせられる」とは、この息苦しい時代で生きるためのある種の知恵なのかもしれない。

 

答えの無い思考にだって、意味はある

 

最後に。

「考えさせられる」は確かにその発言自体にはあまり意味がない。

でも、「考えさせられるって言うくらいなら答えを言え」という批判には注意が必要だ。

答えが明確でない話題、だからこその「考えさせられる」だ。
答えがハッキリしない問題だからといって、思考をすることすら諦めてしまっては意味が無い

考えて、
考えて、
考え抜いた結果、答えが分からないことだって沢山ある。

納得いかないけど、意見が上手くまとまらない。
そういう議論で世の中あふれてる。

その、「考える」という過程の重要性を忘れてはいけないと思う。

答えがない問題だからこそ、自分なりに考えられるだけ考えてみる。
それでも何て表現すればいいか分からない。
そんなこと、沢山あるんじゃないか?

答えにたどり着かない思考は
無価値か?
無意味か?

そんなことないと思う。

考え抜いて、その問題の複雑性に気付けたからこそ、意見をハッキリさせない。
いや、できないのだ。

双方の対立点を理解せず、自分の意見を一方的に言う人こそ、実は一番、「考えさせられる」べき人なのかもしれない。

 

結論!「考えさせられる」という言葉は非常に「考えさせられる」

 

中には本当にな~んにも考えずに「考えさせられる」って言っている人もいるかもしれない。 

けど、僕が思うにそういう人は少数。
ホントは考えに考えた結果としての「考えさせられる」なんだと思う。

SNSという、公共の場になりつつある場所で、人間関係に波風を立てず、なおかつ、議論されている話題に関心があることを示す。
そのために選んだ言葉。

 

僕はそうであると信じたい。

 

この「病」の唯一の治療法は、気にしないという非常に難しいものなのだ。

 

僕はどうかというと、「考えさせられる」と発言することも無ければ、意見を言うこともない。
無関心って思われたって、別にどーだっていい。
だいたい、ストレスたまることの方が多いから、フェイスブックなんて見ない!

 

なんて言いながら、フェイスブックを退会するわけでもなく、毎日なんだかんだ開いてしまっている。
そんな僕こそが、一番重い「病」にかかっているのかも・・・

 

では、僕から以上っ!!