帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

University of ○○ と ○○ University の違いについて

本日のテーマ
英語における大学名

 

どーもー、おりばーです。

 

本日の通学中に面白い記事を見かけた。

lfk.hatenablog.com丁寧にまとめてあって、とても読みやすい!
素敵なブログを見つけたものだ。

その中でこのような文が引用されている。

University of Meiji Tennis Club
いうまでもなく, 明治大学のことを英語で言えば正確な名称は Meiji University であり University of Meiji (明治な大学)という英語はありえない. p82

※ あくまでその一文を見ただけの感想で、文脈全体を把握してるわけじゃない
もしかしたら前後の文で補足してあるのかも??

 

なるほど。
確かに、University of Meiji という表現は不適切かもしれない。

でも、僕は現に University of ○○ という場所に通っている。
バリバリの英語圏でだ。

調べてみれば、University of ○○ なんて調べれば幾らでも出てくる。

んじゃ、University of ~ と ~ University の違いはなんなんだろうか。
そして、そんなことにそこまで頭を悩ます必要があるのか
今日はさっくり考えてみよう。

 

 

University of ○○ の○○に入る言葉のルール

 

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University of ○○ の○○の部分に入る言葉は、何でもOKってわけじゃない。

基本的に二つのパターンがある。

土地や場所の名前

University of London
University of Washington
University of Edinburgh

のように、ロンドンの大学、ワシントンの大学、エディンバラの大学という形ならば、University of ~ で何ら問題ない。
どこも土地の固有名詞が続いている。

その理屈で行けば、東京大学が The University of Tokyo なのも納得がいくだろう。

専門分野 

土地や地名以外にも、専門分野を○○に入れる学校もある。
だけど、その場合のほとんどがその後に場所も明記している。

University of Technology Sydney
University of Electronic Science and Technology of China

○○という専門分野を扱っている大学ですよ。
という風な表現として、of を使うところもある。

でも、専門分野だけだと世界中のどこにあるか分からない。
同じ専門を扱うほかの大学と被らないためにも、基本的には場所も含めた名前になっている。

 

なぜ University of Meiji だと変なのか?


では、なぜ University of Meiji という表現じゃあ駄目なのか?
上の二つのルールに照らし合わせれば、答えは簡単。

 

「明治」という場所にあるわけではないからだ。

 

「明治」という土地に位置する大学でもなければ、「明治」を専門分野として扱っている大学でもない。
上で示したどちらのパターンにも当てはまらないのだ。

University of Meiji Tennis Club となると、"Meiji Tennis Club" の全てに of を繋げられてしまう。
「明治時代のテニスクラブを専門的に研究する大学」と読めてしまう恐れがある。

 

あ~恐ろしい!
今まで何気なく使っていた英語が、こんな大誤解を生んでいたなんて!

と思う必要は全くない。
さて、ここからが本題。

そんな意地悪な読み方する奴はいない

 

確かに、文法や単語のみで判断すれば、そのような変な解釈も可能だ。

でも、実際にそんな読み取り方をする人なんて居ない。

少し変だよね、とクスッと笑えることがあっても、本気で明治時代のテニスを研究する大学だと勘違いする人なんて居るものか。

断言しよう。
そんな奴は100%いない。
居るとしたら、ワザと意地悪をしようとしている人だけだ。

何故かって?

文脈や社会的に構成された知識が言語に意味を与えるからだ。

文法や、文の中の単語だけで文の意味が成り立っているわけではない。
文脈や状況を無視して、一部だけの単語を抜き出せば、そりゃ確かに変なこともある。
でも英語に限らず、僕らの使う言葉は、いつだって使われている状況によってその意味を与えられる。

元の記事のブックマークコメント欄にこんな意見があった。

 

「日本人の英語」は難しすぎる - Letter from Kyoto

「私はたぬき」「僕きつね」「俺山菜」言語には何語であっても文脈というものがありましてね。

2017/04/05 06:20

 

id:drinkmee さんのおっしゃる通り。

うどん屋での注文の場面を想像しよう。
動物のたぬきを食べる、動物のキツネを食べるだなんて思う人はいないだろう。

また、タヌキとキツネが登場する絵本を想像しよう。
「山菜」という奇抜なキャラクターが現れたと解釈できなくもない。
「俺」という言葉から分かるように、「山菜」君は少し背伸びした青年なのかもしれない。

 

たぬき、キツネ、山菜。
これらの単語を、文法と単語だけで解釈する。

それは、文脈が作り出した言葉の意味を全くもって無視してしまう。

このコメントを引用して、日本人はタヌキやキツネを食べる野蛮な一族だ!
なんて本を出そうと思えば出せるのかもしれない。

「ここが変だよ日本人!!」なんてタイトルはどうだろうか。

 

文脈や、社会がその言葉に与えている意味を考えず、一部の単語だけを抜き出して批評しても意味がない。

そして、実際にそんな捻じ曲がった解釈をする人なんてほとんど居ない。 

日本人の英語が笑われる。
日本人の英語は間違いだらけ。

こういう宣伝文句の本はもうウンザリ。

そんな湾曲された解釈をする人なんて居ないのに、学習者の不安を煽って売り上げを伸ばす。
いちいち細かいミスを指摘してくる人なんて、滅多にいないのに。
第一、あいにくな事に僕らは顔を見られた時点で「英語ができない」と判断される人種だ。

practicemakesbetter.hatenablog.com

最初から期待されていないのに、そんな意地悪な解釈する人なんていないよ。

 

アカデミックイングリッシュなら話は別

 

最後にひとつだけ。

この本の著者であるマーク・ピーターセンは明治大学の教授だ。
彼の言いたいことは、何も日常会話における英語の話ではない。
学術論文などに使う、アカデミックイングリッシュについて書いているのかもしれない。

アカデミックイングリッシュは日常会話の英語とはまるで違う。
文法や構造について、専門的な知識が必要だ。

だから英語圏の大学生もアカデミックイングリッシュは自然とは身につかず、しっかりと方法論を学ぶ必要がある。

でも、英語で論文でも書かない限り、そのような英語を使う必要はない。
そのため、確かにアカデミックな英語なら文法や構造が大事でも、それは多くの人が学んでいる英語とは分けて考えるべきだろう。

 

結論!実は僕も人のこと言えない。

 

文脈を考えず、一部だけの言葉を切り取って考えてはいけない。

元の本を読まず、一部だけを切り取って批評している点では、僕も全く人のこと言えない。

なんという特大ブーメラン。
こりゃ参った。

 

では、僕から以上っ!!

P.S. 書き終えてからもう一度ブコメ欄に戻ると、こんなコメントが。

「日本人の英語」は難しすぎる - Letter from Kyoto

大学のofあるなしは「地名かどうか」が基本。だいたい「の」と同じだと思えば良い。「東京の大学」「京都の大学」とは言えるが、「同志社の大学」「立命の大学」とは言えない。

2017/04/05 10:43

なんて的確にまとめてあるんだ・・・。
僕が記事書いた意味、ないじゃんか。
短くても伝わる言葉が書けるって素敵だな~。
id:knagayama さん、見習います。

他人の留学を「遊学」とか「無駄」だとか決めつけるな

本日のテーマ
「俺の留学の方がスゲーから!」

 

どーもー、おりばーです。

「遊学」って言葉、聞いたことある?

ゆうがく【遊学】の意味 - goo国語辞書

故郷を離れ、よその土地や国へ行って勉学すること。

という本来の使い方とは違う意味が、最近広まり始めているのを知ってた?
最近使われている「遊学」という言葉は・・・

  • 「留学」の名のもとに、ぜんぜん勉強せず「遊び」まくること
  • 目的意識も勉強に対する意識も低い「留学」

のように、「留学」という言葉に「遊ぶ」を組み合わせて作られた造語として使われている。

お察しのとおり、「遊学」はポジティブな意味では使われない。

 

お前の留学なんて、どうせ「遊学」だろ?
全然勉強してなかったくせに留学したとか言うな!
そんなんで「留学した」とか言われたくねーよ。

という感じに、人様の留学をバカにしたり、否定するために使われる。

そんな、本来の意味から離れて悪口として広まりつつあるこの「遊学」という言葉。
今日は、勉強だけが「学び」なのか、そして他人の留学に文句を付ける行動の生産性の無さについて、一緒に考えてゆこう!

 

 

机に向かう時間だけが「学び」なのか?

 

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海外において勉学をする。

確かに、「留学」という言葉の意味で見れば、勉強するという点が大事なのはわかる。
特に高校や大学における交換留学なら、現地での単位や成績がとても大事になる。
留学における勉学の重要性なんて、説明しなくともみんな分かっている。

でも、留学の「学」は何も「勉学」だけではない。

「遊学」とは、勉学に励まず、海外で遊びまわっている人に対する蔑称。
クラブ活動、飲み会、観光。
勉強以外への比重が大きい留学は「遊学」やら「無駄」だと馬鹿にされてしまう。

でも考えてほしい。

授業や教科書から受け取る情報だけが「学び」なのだろうか?
クラブ活動、パブでの交流、観光地を巡ることから得られる「学び」はないのだろうか?

机に向かっている時間が長ければ良いだなんて思っているなら、そんな考えは即座に捨てよう。

授業を静かに聞いて、ノートをとって、宿題やって、テストで良い点とって。
毎日授業にただ出席するだけの受動的な「学び」

自分から積極的に社交の場に出て、会話して、交流して、という能動的な「学び」。

どっちが優れているかなんて議論をする意味も全くない。
勉学をしに海外に来たのならば、思う存分勉学に励めばいい。
友達を作ったり、異国の文化を肌で感じたいと思うのならば、思う存分に社交をすればいい。

「留学」のモチベーションも目的も人それぞれ。
自分が満足できる留学ができているのならば、誰が文句を言おうと関係ない。

 

留学先で勉強することは偉いことなのか?


勉強していない人は遊びたいだけの怠け者で、勉強している自分は偉い?

人に褒められたくて留学をしているのなら、一度目標からモチベーションまで考え直してもいいんじゃないだろうか。

大金を払って海外を満喫しながら、勉強をこなしているだけで褒められる。
留学とは、単純に言ってしまえばそういうことだ。

留学は学びにあふれた素晴らしいものだ。
自分という人間を成長させるチャンスにあふれている。
でも、留学することを「偉い」ことだと考えているのなら、それは勘違いに過ぎない

 

留学を他人と比較する意味なんてない

 

「自分の留学のほうが大変だった」
「自分の留学のほうがすごかった」

自分と他人の留学を比べて、人の留学を馬鹿にすることに意味はあるのだろうか?

留学先で必死に勉強して、毎日大変な思いをしている。
授業も難しいし、課題も多いし、とにかく忙しい。

そんな中、毎日遊ぶばっかりで、全然勉強してない奴がいる。
そいつも同じ「留学生」と呼ばれているのが納得いかない。


その気持ちは分からないわけではない。
留学先での勉強は、本当に忙しく、根性の要るものだ。
自分ももっと遊びたいな~、なんて思う瞬間もあるだろう。

 

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そういう時は、留学に行きたい!と思ったときの初心にかえると良い。

自分が留学をしたい理由は何か?
人生の貴重な時間とお金を使って、わざわざ単身で見知らぬ土地に来た理由は何か?

勉学に励みたいと思っていたのなら、弱音を吐いている場合じゃない。
もっと友達作ったり、ショッピングしたり、お出かけしたり、そういう生活が海外でしてみたかったと思うのなら、ためらう必要なんてない。

「勉学」以外のすべての活動を「怠け」だと決め付けず、勉強と同じくらい「学び」にあふれているチャンスだと考えるべきだ。

他人にどう思われているかを気にしすぎて、やりたいことをやれない「留学」を過ごすのは、それこそ本当に勿体無い。

誰の留学のほうが大変だとか、優れているかなんて、全くもって意味のない比較だ。

気にすべきは、他人にどう思われているかじゃなく、自分が納得しているかどうか。
ただその一点のみ。

 

留学は「学び」の宝庫

 

留学とは、何も海外の言語・文化を学ぶことだけじゃない。

異なる文化を学ぶことは、自分の文化を見つめなおすキッカケになる。
新しい言語を学ぶことは、自分の言語について考えるキッカケになる

海外での「学び」は、日本や過去の自分に対する「気づき」につながる。

そう考えると、留学とはまさに「学び」の宝庫。

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友達と出かけるのだって「学び」。
見知らぬ街で迷子になるのだって「学び」。
授業についていけなくて悔しい思いをするのも「学び」。
ホームシックになって、日本のことを恋しく思うのも「学び」。

「学び」のチャンスはそこら中にあふれてる。

大事なのは、それらの「学び」のキッカケに気づけること。

「学び」は教室の中でしか起きない。
勉強することだけが「学び」だ。

そのような考え方から抜け出そう。
じゃないと自分を成長させるチャンスをどんどん見逃してしまう。

留学に限らず、「学び」は常にまわりにあふれている。
それに気づき、手を伸ばせるかどうかは、何時だって「あなた」次第。

 

ポジティブな嫉妬をしよう

 

「遊学」という言葉を使う人の中には、留学する時間やお金がなくて、自分では行けないからこそ、そのチャンスを「無駄」にしている人を認めたくない。
という思いの人も少なからず居るだろう。

学部時代の僕も、まさにそうだった。
留学に行っている友人たちが、「勉強だりー」とか「授業サボったわ」なんて言っているのを聞いて、イライラしていた。

「僕は海外で勉強したくてたまらないのに!なんて勿体無いことしてるんだ!」

自分でチャンスを掴む努力を十分にしていなかったにも関わらず、他人の留学が羨ましくてたまらなかった。

素直に、嫉妬していた。

でも、自分の価値や基準で「勿体無い」と思うものでも、その人にとってそれがどのような「学び」になっているかなんて、本人にしか分からない。

「僕の考える理想の留学と違うから、君の留学は無駄だ」なんて決め付けるのは間違いだ。

「勿体無い」と自分の中で感じる分には問題ない。
いや、むしろその嫉妬自体は良いものなのかもしれない。

僕ならこうする。
僕だったらこういう留学をする。
その気持ちをポジティブな方向に繋げてみよう。

他人の留学を否定することにエネルギーを使うんじゃなくて、自分の理想の留学を叶えるための原動力として、その嫉妬を使えばいい。

叶えたい理想があるからこそ、「勿体無い」と思うのだろう。
イライラなんてしてないで、さっさとそのチャンスを掴む努力を全力でやればいい。

他人の留学を「遊学」やら「無駄」やら言っている時間こそ、本当に「勿体ない」のだから。

 

結論!留学を他人と比べることに意味なんてない。

 

本来とは全く異なる意味で、広まり始めている「遊学」という言葉。
上から目線で他人の留学を評価しているようで、好きになれない言葉だ。
でも、こんな言葉が生まれるくらい、留学が身近になっているという証拠なのかもしれない。

様々な奨学金、交換留学の充実、私費留学をサポートするサービスの拡大。

留学は今までにないくらい、身近な存在になってきている。
みんなが留学しているとなると、どうしても「差」をつけないと気が済まない人も居るだろう。

自分の留学のほうが凄い。
俺の留学のほうが大変だった。
お前の留学は「留学」とは呼ばない。

そんな言葉を使うことに意味なんてない。
何時だって肝心なのは、自分にとってどれだけ納得のいく留学だったかということ。
ただそれだけなんだから。

そんなに素晴らしい留学ができたのなら、それでいいじゃないか。
他人の留学を否定することでしか自分の留学に誇りを見出せないのなら、それこそ本当に「無駄」な時間を過ごしていたのだろう。

 

改めて自分に問いかけてみるのも良いのかも知れない。

 

「あなた」は、自分の留学に満足できていますか?

 

 

では、僕から以上っ!!

「海外に住めば英語が身につく」という幻想を捨てよう

本日のテーマ
留学さえすれば「ペラペラ」?

 

どーもー、おりばーです。

 

海外に住むだけで英語が「ペラペラ」に。
なんて考えを持っている人、未だに意外と多いよね。

海外に住んでたんだから英語が楽に覚えられていいねー。

帰国子女・留学生・海外在住者、みんな言われたことがあるんじゃないかな。
英語を学ぶなら手っ取り早く海外に住みゃいい!
なんて単純な話ならだれも苦労しないんだけどね~。

今日は、海外に住むだけでは英語が身につかない理由
そして、具体的に何に気をつければ言語習得を効果的に行えるのか
この2点について一緒に考えてみよう!

 

 

ただ環境に任せればいいの?

 

言語教育学の世界において、環境に任せて言語を習得するという考えは昔から議論されていた。
環境に任せるのが一番なのか?
現地に住みさえすれば身につくのか?

そんな中で、1978年に言語学John Schumann (ジョン・シューマン) がある発見をした。

アメリカに住む、英語を母語としない学習者6名に対して研究を行っていたところ、その中の1名が一向に英語の上達を見せなかった
その人物の許可を得て、彼の行動や生活スタイル、全てを観察した結果、シューマンはある結論に辿り着いた。

文化変容モデル (Acculturation Model)


非常に単純化すると、シューマンが提唱したこのモデルは、言語習得というプロセスを、自文化から異文化への変容だと考えた。

もう少し簡単に説明しよう。

第一言語とは違って、第二言語学習者はすでに自分の文化を持っている。
僕たちで言えば、日本文化だね。
その自文化を新しい文化にどのように関連させるのか、どのように適応させるのかが言語習得において重要だと彼は唱えたのだ。

文化が大きく異なり、カルチャーショックのような状態が続いてしまっては言語習得は難しい。
逆に言えば、文化の間の似ている箇所に気づけたり、違う部分も許容できる余裕があれば、言語習得はスムーズにいくということだ。

でもこれは文化の似てる・似てないに留まる話じゃない。

文化の類似性や、学習者の社会における扱われ方など、学習者自身ではなかなかコントロールできない要因「社会的距離」と定義する一方で、シューマン心理的距離」の重要性も訴えた。

 

英語との心理的距離

 

心理的距離」の例として様々なものがあげられる。
その中から例えをいくつか紹介しよう。

「失敗に対する恐れ」

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言語学習者にとって、失敗や間違いはつきもの。
何かを習う為には、最初から一回も失敗しないなんてありえない。
自転車だってなんだって、転びながら諦めずに頑張るから乗れるようになる。

でも、失敗や間違いは時にして学習者の意欲を大きく削ぐ

「バカな間違いをした」
「間違ったことをみんなに笑われる」

そんな不安感がたまって、「失敗や間違いをしたくないから発言したくない」という気持ちになってしまう。
答えは分かってるかもしれないけど、声を出して答えるのが怖い。

一度気持ちを閉ざしてしまったら、積極的に参加する意欲はなくなる。
そういう姿勢は教師にも伝わり、だんだんと質問を振られなくなる。

そうして学習が身につかなくなってしまう。

こういった、失敗に対する恐れが言語習得の成果に大きく影響を及ぼす。

「自分を"変える"意志がどれだけあるか」

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新しい言語を学ぶということは、新しい文化だけじゃなくて、新しい世界に入り込むということ。
今までの価値観が全てじゃないと知るということ。
今までの常識が通じない世界があることを知るということ。

そして、何よりそんな違いを「認める」ということ。

日本語じゃない言語を学ぶということは、日本語を話す自分から変わらなければいけないということ。
それは別の人格を持つということじゃなくて、今までの殻を破って自分の世界を広げるということ。

そんな「自分の変化」に寛容でなければならない
今までの自分、今まで信じてきた常識、今まで培ってきたノウハウから抜け出そうとせず、過去の自分にすがっているばかりでは言語習得はできない。

ホームシックになったり、嫌な経験が続いて現地のコミュニティーとの心理的な距離が離れてしまう、なんて自分ではどうしようもない場合もあるだろう。

各々の事情によってその言語・文化への心理的距離が変わる。
つまり、各々の事情によって言語が身につくかどうかに変化が生じるということだ。

環境さえあればいい、というのは完全なる誤解ということだ。

 

なぜ海外に住むだけでは身につかないのか?

 

シューマンが示した通り、言語を身につけるための要因というものは無数に絡み合っている。
英語にあふれた環境に身を置いたとしても、その学習者個人の言語に対する「心理的距離」が離れていれば、習得はあまり進まないだろう。
また、学習者の意思とは関係なく、文化の違い、学習者の扱われ方、学習者グループの規模など、「社会的距離」によって習得が妨げられることも多々ある。

結果として、積極的にコミュニケーションする気がない、自分から学ぶチャンスを探さないということが起き、海外に居たのに言語に成果が表れない。

勿論、この理論が全てを説明しているわけではない。
まだまだ言語習得の方法論は議論のタネになっている。

でも、1978年という約40年以上前に、環境だけでは言語習得はできないということが示されたのに、未だに当然のことのように「海外に住めばいい」という風に一部で思われている。

その認識をいいかげん改める時なんじゃないだろうか。

海外に住むだけで、
留学に行くだけで、
言語が身につくなんて思わない方が良い。

んじゃ具体的にどうすればいいの?

 

シューマンの理論を逆に利用すれば、どのようにすれば言語習得が効果的に行えるかが分かる。

成功のカギは、「心理的距離」にある。
文化の違いの大小は仕方がないこと。
でも、それに対してどのような気持ちで挑むのかは学習者次第。
学習者自身でコントロールできる点に注目すればいい。

失敗を恐れない

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「そんなの言われなくても分かってるよ!」

という意見がほとんどだろう。

失敗を恐れるな!
失敗から学べるんだ!
なんて言うのは簡単だけど、それでも人前で間違いをするのは恥ずかしい。

「バカな間違いをした」
「間違ったことをみんなに笑われる」

そのような気持ちになってしまうのも良く分かる。
これは学習者ならば誰しもが通る道。

でも考えて欲しい。

失敗せずに何かを身につけることは可能なのだろうか?

一発で成功したら、それは「身につけた」のではない。
「なんかやってみたら出来た」である。
言語において、「なんかやってみたら出来た」はあり得ない。

ということは、何度か試行錯誤、失敗を繰り返して学ぶ必要がある。

一度も失敗しない、を目的にやるんじゃない。
失敗をしなくなるためにやるんだ。

そう思えば「失敗」は学習において必要な過程となる。
必要な過程を通っているということは、前進しているということ。
失敗している度に成長しているということだ。
失敗を恐れて挑戦しないということは、立ち止まるということ。

失敗を恐れない人は言語習得が早い。
誰になんと思われようと前進しているんだから、そりゃそうだろう。

失敗ばかりを気にして、上手くいった時を忘れてない?

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言語習得の過程の中で、失敗は必要なものだし避けては通れない。

そんな中で、
上手くいった!
今日は上手に言えた!
なんかかっこよく言葉を返せた!

なんて時が必ずある。
そんな成功した時の記憶を大事にしてるだろうか?

僕らは失敗をすると、それを必要以上に引きずってしまう。
でも、良いことがあってもその気持ちはすぐに忘れてしまう。

これって凄く勿体ない!

自信過剰になれ!って話ではないけど、少しでも気分が良かったとき、上手くいった時はもっと思いっきり喜んでいいんじゃない?
失敗をものすごく恐れるのに、いざ成功したらクールに決めるのは勿体ない。

自分で自分を思いっきり褒めてやれる人は、成功する瞬間を一番楽しめている

上手くいってると思えれば、努力も続けやすいもんだ。

 

結論!海外に住めばいいなんて思わないで!

 

英語圏に住んでいれば、英語を身につけるチャンスが日本に居るより多いのは確かだ。

でも、個人の心の持ち方ひとつで、そんなチャンスを活かせないこともある。
失敗することが怖い。
変わることが怖い。
現地で嫌な思いをして関わる気力がなくなってしまった。

学習者の態度・モチベーション・外的要因で大きく成果が変わってくる。

そう考えると、環境がどうであれ、努力意思が必要なのは変わらないということだ。

海外に居るのに、思ったように成果が出ない。
そんな悩みを持つ人も居るだろう。
自分の努力不足だと責めるのではなく、自分の意志ではどうしようもない外的な要因があることも忘れてはいけない

そして、海外に今から行く人は、環境に甘んじるんじゃなくて、自分からがむしゃらに飛び込んでゆく気持ちを持ってほしい。

変わるって、怖い。
環境の変化、人間関係の変化、そして自分の変化。
変わることが怖くない人なんていない。

でも、変わるために飛び立ったのならば、そんなことでビビってる場合じゃない。
変わることを楽しめ。
今までの自分が通用しない世界を楽しめ。

本気で憧れる気持ちがあれば、文化の違いなんて乗り越えられる。

 

海外に居るだけで英語ができる?
2017年にもなって、まだそんなこと言ってるの?
そんなに簡単なことの様に言う人に限って、なんで自分で海外に行かないのだろうか。

やってみりゃ分かるよ。
そんな単純だったら誰も苦労しない、ってね。

 

 

では、僕から以上っ!!

僕らは何歳まで「帰国子女」であり続けるのだろうか

本日のテーマ
大人になっても「帰国子女」?

 

 

どーもー、おりばーです。

 

親の都合で海外に行かされた子どもたち、すなわち「帰国子女」。

「子女」という言葉からも読み取れるように、「帰国子女」という言葉は「海外勤務者の子ども」という意味合いがある。
昔海外の学校に通っていた。
幼少期を日本の外で過ごした。
海外に一時期いたというその事実が変わることは一生ない。

けれども、帰国してから年齢を重ねて僕らは「子ども」ではなくなるわけだ。

そこで僕が疑問に思うことがある。

僕らは何歳まで「帰国子女」と呼ばれ続けるのだろうか?

小・中・高等学校において、「あの子は帰国子女だから」と言われるのは仕方がないことだろう。
でも、大学も卒業して、大人になって、社会に出たあとも僕たちは「帰国子女」なのだろうか?

今日は、
「帰国子女」という肩書きに果たして有効期限があるのか、
そして「帰国子女」という肩書きでしか認識・評価されないことの辛さについて、
一緒に考えてゆこう。

 

 

大人になっても「帰国子女」?

 

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社会に出ても、僕らは帰国子女なのだろうか。

帰国子女が仕事で「うざい」と思われないための3つの留意点 | 在宅ワークHACKS
帰国子女が仕事中に書いたメモの内容が腹筋崩壊モノだった | CuRAZY [クレイジー]

これらの記事に限らず、職場での帰国子女あるあるや事件簿はネット中にあふれている。
別にいまさら断言する必要のないことだと思うけど、一応ね。

社会に出て、仕事についても「帰国子女」として認識されている人が多い。

もちろん、自ら私は「帰国子女」ですという風にカミングアウトしている人も多いだろう。
業務連絡に使う日本語が難しかったり、ビジネスメールが苦手だったり。
職場というチームで働く以上、自分の長所・短所を知っておいてもらうのはメリットもある。

でも、別に「帰国子女」ならば日本語が苦手、協調性がない、とは限らない。
そういう人もいるだろうけど、そんなの「帰国子女」に限らずたくさんいる。

「帰国子女」だからって自己主張が激しいと決め付けるのも、自己主張が激しい理由をすべて「帰国子女」という肩書きで説明するのも僕はなんだか納得がいかない。

この人とは働き辛いな~って気持ちを、「帰国子女と働くの辛い」という風に大雑把に一般化されてしまうのは悲しい

個人の問題は「個人」の問題として扱えないのだろうか。

悪い一面があるとすぐに「これだから帰国子女は」と言わないでほしい。

 

どれだけ努力しても「帰国子女」という肩書きでしか見られない

 

マイナス面についても話したけど、僕が個人的に一番納得いかないのがコレ。

どれだけ何かを努力しても、何かを身につけようと頑張っても、「帰国子女」という肩書きでしか見てもらえない。

 

僕は英語が好きだ。
いや、大好きだ。

自分の大切な一部分だと思ってるし、英語でしか表現できない「自分」もある。
英語の勉強をすることが好きだし、人に英語を好きになってもらうことはもっと好き。

僕が海外に居たころなんて、幼稚園から小学校低学年まで。
使っていた英語は幼稚そのものだし、発音はある程度ごまかせても、子どもっぽい言葉しか知らない点はごまかせない。
大学・大学院レベルで使う学術的な英語なんて全然知らないし、毎日辞書片手に頑張って語彙を増やしている。
Weblioを一日なん百回ひらいていることか。

 

別に他人と比べて、僕のほうが努力している!なんていうつもりは全くない

だけど、大学を出て、仕事についても、僕は「帰国子女」としか見てもらえない。

どういう過程を通って、どういう努力をして今の自分が居るのか。
僕は「英語」だけの人間ではない。
生まれたときから「英語」が出来たわけではない。
今の自分の性格があるのは、アメリカで育ったからではない。

僕はもう人生の大半を日本で過ごしている
でも、人々の僕への評価は、帰国した時に与えられたこの「帰国子女」という肩書きから、進展することはない

帰国子女だから英語が出来る人。
帰国子女だからおしゃべりな人。

もっと僕を評価して!!ということを言いたいんじゃない。
いい点も・ダメな点も、全部「帰国子女だから」で片付けられるのがとても寂しいのだ。

30歳になっても。
40歳になっても。

僕は「帰国子女」と呼ばれ続けるのだろうか。

僕が、ただの「英語が好きな人」になれる日は来るのだろうか。

 

帰国した時点で僕らの価値は決まっている

 

「帰国子女」なんて言っても、百人百色。

海外で得てきたことも勿論大事な財産だけど、帰国してからの年月も同じくらい学び・経験・成長にあふれている。

 

でも、「帰国子女」という肩書きだけで、
一律に個性を与えられ、
一律の評価を与えられ、
一律の価値を与えられる。

社会にとって、僕らはただの「帰国子女」であり、それ以上でも以下でもない。
何を学び得たのか、何を自分で選択したのか。
そこに気づいてくれる人は存外少ないものだ。

日本に舞い戻り、「帰国子女」というシールを張られた時点で僕らの評価は決まっている。

個人として見てもらえず、そのシールだけで判断される。
「帰国子女」であるかどうかが僕の価値を決めているわけでは無いはずなのに。

帰国後に歩んできた時間が、まるで無かったかのように。
帰国した瞬間に社会における価値が決まっているかのように。
時が、そして自分自身が進展してないかのように

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ただの僻みだと思ってもらってかまわない。

けれど、少なくとも僕は、「個人」として見てもらえず、「帰国子女」という言葉で価値を決められることが我慢ならない。

 

結論!君の価値に気づいてくれる人を探そう!

 

人生の一時期を海外で過ごした。

たったこれだけで「帰国子女」という言葉でひとくくりにされる。
自分にとってそれがどれだけ大きな財産でも、「時間」で見れば長い人生のほんの一部。

そこから何を得て、何を人生に活かすのか。
それは「あなた」次第。

肩書きで色々決め付けられるのは気分の良いことではない。
だけど、個人として知ってもらえれば、その固まった印象は解かれてゆく。

「帰国子女」としての君じゃなくて、ありのままの君を見てくれる人。
学校であれ職場であれ、そういう人は必ず居てくれるはず。
そういう人との出会いを、僕は大事にしてゆきたい。

「帰国子女」という肩書きが嫌いなわけではないんだけども。
「へぇ~帰国子女なんだ」って大人になってもいちいち言われ続けるのは素直に面倒くさい。

 

 

とまぁ、色々言ってはみたものの、こんなことで悩んでるの僕だけかもね。
同じような思いをしている人が居るのかどうか、怪しいところですな・・・。
まぁ共感されなくても、読んでもらえただけ良しとしましょ。
読んでくれてありがとう!

 

では、僕から以上っ!!

「英語ができない帰国子女」だって普通に居ることを分かって欲しい

本日のテーマ
「帰国子女-英語=?」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

帰国子女=英語ができる

 

日本人学校に通ってようが、英語圏以外に住んでいようが関係ない。
何歳の時に行ってようが、帰国してから何年経ってようが関係ない。

帰国子女ならば全員英語が「ペラペラ」

その安易な発想が、密かに多くの帰国子女を苦しめていることをご存じだろうか。

羨ましい!ずるい!などと言われる一方で、「帰国子女」という肩書きから英語を取ると何が残るのか、考えたことがあるだろうか。

世間が帰国子女の「英語」にしか期待や興味を示さなくなった結果、その「英語」を持たない人たちがどのような思いをしているのか。

今日は一緒に考えてみよう!

 

羨ましい!ずるい!の対象はほぼ「英語」

 

以前の記事でも書いたけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女は羨望や嫉妬の対象になりやすい。

でも、帰国子女の何をずるいと思って、何を羨ましいと思っているのか

 

おそらくだけど、その感情の9割以上が「英語」に対するものじゃないだろうか?

いいなー英語ができて。
ずるいよなー、英語の勉強しなくても点取れて。
受験とか英語できれば楽勝じゃん。ずるいなー。

僕自身が言われてきたものを考えても、やはり「英語」に関するものばかり。
英語ができるというのは今の日本社会においてかなりのアドバンテージを与えられている。
その過剰にも思える付加価値には様々な問題がある。
国語をないがしろにしてまで英語を学ぶ必要はないと思うし、言語という本来はコミュニケーションの為のものを完全な知識競争にしている教育の現状も残念極まりない。

けれども「英語ができる」という部分が「羨ましい」や「ずるい」の対象になっているのは明らか。

幼い頃から友達と離ればなれにさせられるなんて、羨ましい!
知り合いも誰も居ない、言葉も通じない学校に放り込まれるなんて、羨ましい!
帰国した後に「外国かぶれ」とか「調子に乗ってる」とか言われるなんて、羨ましい!

なんて言う人は居ないだろう。

「英語ができる」という一面だけ見れば輝かしいかもしれないけど、帰国子女の人生って、決してキラキラしたもんじゃない。

海外でも、帰国してからも常に「よそ者」扱い。
外国では「アジア人」とバカにされ、帰国したら「外国かぶれ」とバカにされる。

ずるい!羨ましい!
なんて言葉が向けられるのは、僕らの「英語」だけ。

実はみんなが憧れているのは、帰国子女じゃなくて「英語ができる人」。

では、帰国子女から「英語ができる」を引いたら何が残るのだろうか? 

「帰国子女」というハンディキャップ

 

日本語が変。
空気が読めない。
クラスになじめない。
日本のことを良く知らない。
地元と呼べる場所が日本にない。
友達と呼べる人はみんな海の向こう。

日本の外で過ごした時間は、たちまち「ハンディキャップ」となって帰国子女に襲いかかる。
クラスメートと同じ土俵に立てない。
常に追いつこうと必死。

日本に居なかったことに対するペナルティを与えられ、帰国子女は大きな「マイナス」を所持して日本での生活をスタートする。

そんな大きな「マイナス」を、何とか帳消しにしてくれるのが「英語ができる」という勲章だ。

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photo credit: DiariVeu - laveupv.com gettyimages - medalla via photopin (license)


日本社会からとてつもない価値を与えられたこの勲章によって、帰国子女はその数々のハンディキャップとのバランスが取れる。

空気が読めなかろうが、日本語が下手だろうが関係ない。
「英語ができる」というその一点さえあれば、社会に価値を認めて貰える
喜べることではないけど、事実である。

 

それがどうだろう。

英語ができない帰国子女は、日本社会から課せられたハンディキャップを打ち消すための勲章を持たない。
「英語ができる」というステータスを持たぬ帰国子女は、負の重りを背負わなければならない。

ペナルティを乗り越えて日本社会で行けてゆく為に、英語ができない帰国子女ができることは、たった2つだけ

その1 「隠れ帰国」になる

 

一つ目の方法。
それは「隠れる」こと。

帰国子女である、という風に認識されないようにする。
昔海外に居たという話題をなるべく避ける。
自分は「帰国子女」のカテゴリーには当てはまらないと自分に言い聞かせる。

もし誰かに

「え?昔海外の学校行ってたの?帰国子女じゃん!」

と言われたら、たちまち

「いや、でもほんの少ししか居なかったから」
「あ、でもずっと昔のことだから・・・」

などと相手に言い聞かせる。
いや、そうせざるを得ない状況を社会が作っている

「帰国子女」というカテゴリーに認定されてしまった瞬間、その人は「英語ができる」というレッテルを一方的に貼られてしまう。

「隠れる」ということは、自らの過去をなかったことにすること。
自分が通ってきた道を、乗り越えてきた苦難を、誇りに思わないということ。
それは、あたかもずっと日本に居ました、という風に自分を投影すること。

本来ならば隠す必要のないものなのに。

帰国子女ならば英語ができて当然という誤った認識によって、英語ができない帰国子女は、その存在を否定されているのだ。

 

その2 英語を必死に勉強する


帰国子女なのに英語ができない。
そう思われたくない。
海外に何年かいたのに、英語ができないなんて恥ずかしい。

そう思う人は、人一倍努力して英語を身につける

それは、
誰かと会話したい!
自分の将来にこう活かしたい!

というモチベーションじゃない。

できないなんて言えない!
というある種ネガティブな動機だ。

帰国子女は努力しないで英語ができる?

そんなことはない。

帰国子女の「英語」にしか興味がない世間に振り回され、苦しんでいる。

英語を保持し続けることの難しさ。
一方的に流暢であると期待されるプレッシャー。
それらをもっと理解してあげる必要がある。

帰国子女が英語の勉強をしていないと思うのなら、それは大きな間違いだ。

帰国子女で英語ができないことの何が悪い

 

以前の記事でも話したけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女だけど英語ができない。
という考え方はもう止めにしよう。

帰国子女という曖昧で、広いカテゴリーの中で、英語ができない人くらい、むしろ居て当然じゃないか。

「帰国子女なのに英語ができない」というのは言ってしまえば、
イギリス人なのに紅茶が嫌い、
ブラジル人なのにサンバが踊れない、
イタリア人なのにコーヒーが飲めない、
というのと何ら変わらない

そんな人が居たって、別になんらおかしくもない。
でも、個人じゃなくて集団で見てしまうと、どうしてもカテゴリーで考えてしまう。
イギリス人ならこうだ。
ブラジル人ならこうだ。
帰国子女ならこうだ。

 

僕も留学先ではよく言われる。

「おりばー!日本人なんだろ!寿司握ってくれよ!」

握り方知らないし。
握りたいって思ったこともないし。
日本人なら誰でもSUSHI作れると思うなよ!?

寿司を握れるようになるまで、一体どれだけの長い道のりがあるのか
それを知らないから「日本人だから寿司握れるっしょ?」という安易な発想になる。

個人のことをもっと知ってもらえばその誤解は解ける。
でも初対面の相手に一方的に「英語ができる」と思われてしまう。
日本国内で常にそのプレッシャーにさらされている。

そんな人たちが居ることに、僕らは気づかなくてはならない。

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photo credit: andrew and hobbes Reaching out via photopin (license)

 

帰国子女で英語ができない?

そんなの別に普通だよ。

恥ずかしがることでも、隠すことでもない。

 

そういう考えを、「常識」にしてゆかなければならない。

 

結論!帰国子女なら英語ができて当然なんて思うな!


これからの時代、帰国子女はどんどん増えてゆくだろう。
英語圏にこだわらず、世界中から羽ばたいてくるだろう。

そんな彼ら彼女らを、英語ができるかできないかなんて狭い視点でしか見ることができないままだと、

その子たちが日本に持ち帰ってくる豊富な異文化交流経験や、多種多様な言語との関わりという日本社会の国際発展を前進させる為の大事な「財産」を、

気づくことなくドブに捨ててしまうことになる。

 

さぁ、改めて心に刻もう。

 

帰国子女で英語ができない、それは普通のことだ。

それとも何か?

君は「日本人なのに寿司も握れないのかい?」

 

 

では、僕から以上っ!!

BBCの取材中に子どもが乱入、を面白ニュースで終わらせるのは勿体無い

本日のテーマ
「偏見と差別」

 

どーもー、おりばーです。

 

 

BBCの取材中に子どもが乱入!

ここ数日間、テレビやネットを見ていた人ならば恐らく目にしたであろう例の動画

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テレビ取材に答えている真っ最中に、部屋に入ってきたのはノリノリの子ども。
続いて歩行器を巧みにあやつる赤ん坊。
そして慌てて子ども達を連れ戻しにきた「一人の女性」

すでに海外メディアでは盛んに報じられていることだけど、現在この女性をめぐって、ほのぼのニュースとはかけ離れた大論争が巻き起こっている。

 

この女性は母親なのか?乳母なのか?

この女性が母親ではないと決め付けるのは差別なのか?

そして主に日本の一部ネットで巻き起こっているのが、

これをいちいち差別・偏見っていうのは敏感になりすぎなのでは?

 

という3点の論争が起きている。

今回は、

人種に対する差別と偏見がいかに僕らの中に深く、根強く埋め込まれているのか。
そしてそれについて議論することは「敏感になりすぎ」なことなのかについて一緒に考えていこう。

 

 

第1の論争:母親なのか、乳母なのか?

 

僕自身がいろいろリサーチして文章にしなくとも、すでに本家 BBC News の Helier Cheung (ヘリエ・チュン氏)が記事にまとめている。

問題の全容をつかむためにも一読をおすすめする

www.bbc.com

話の焦点になっているのは、

元のビデオを報道したメディアの一部、そしてそれをツイート、コメントした人の多くがビデオに登場した女性を「Nanny = 乳母」だと思っていたこと。

当然、元のビデオでは乱入した子どもを部屋から出そうと必死になっている女性が映っただけ。
彼女が母親なのか、乳母なのか、ベビーシッターなのか。
それに関する明確な情報はなかった。

後日、動画があまりにもネットで話題になったため、今度は家族全員で取材に応じた。
そのとき、世界は初めて「あの女性」が Jung-a Kim (キム・ジュンア) という名の母親であることを知った。

(実はビデオの中で子どもが韓国語で「ママ、どうして?」と言っていることから、韓国語が分かる人には答えは明らかだったんだけども)

 

結果として、母親か乳母か?という第一の論争は、彼女を母親だと主張していた人たちが正しかったという結果に終わった。

だけどここで巻き起こったのが第二の論争

 

第2の論争:母親じゃないと決め付けるのは差別なのか?

 

元動画がヒットした時点では、正確な情報がなかった以上、動画を見て面白い!って思った人々はその女性が何者なのかについて自分で考えざるを得なかった。

その中で、
当然のように母親だと思うもの。
当然のように乳母だと思うもの。
これらの二つに分かれたのは、一体どのような原因があるのかを考える必要がある。

 

乳母だと主張する側の意見には、様々な理由があった。

  • 慌てている様子が雇われのベビーシッターっぽい
  • 男性が教授という権威のある職だから乳母を雇っていてもおかしくない
  • 教授の住んでいる韓国では乳母を雇うことは珍しくない

たしかに肯定しようと思えば色々と根拠を見つけられる。
けれども、あの短い、「面白動画」として拡散された映像をみて、そこまで瞬時に色々と考えた人も少ないのではないだろうか?

 

そのことから、乳母だとツイートした人、乳母だと報じたメディアは、

乳母だと決め付けるのは、アジア人女性への偏見だろ!

と各方面から多大なバッシングを受けてしまった。

 

乳母という職業に対するイメージや偏見も関係しているだろう。
特定の職業に特定の人種が従事しているという偏見は世間でありふれている。
白人の家で雇われている黄色人種、という風に人種の優劣を無意識に考えてしまった人も中にはいるかもしれない。

だけど何より一番の偏見は、人種を超えた結婚に関するものだろう。

悪気がなくとも、多くの人が無意識にもってしまっている。
「同じ人種同士で結婚するのが普通だ」という偏見を。


乳母だと認識した人の多くは、アジア人女性と白人男性の夫婦という選択肢を最初から考慮しなかったのだろう。

それは、意図的に「そんなのありえない!」と除外したのではない。
人種の異なる二人が夫婦であるという発想を、そもそも思い浮かべる「枠」を持ちあわせていなかったのだ。

僕たちは、自分の持つ思考の「枠」にとらわれている。
それは教育やメディアによって小さいうちからコツコツと形成されてゆく。
その「枠」を広げるには、「枠」の外にも実はいろいろあるということを知るキッカケが必要。
自分の「常識」以外にも様々な発想や意見がある。
それを認識して初めて人は自らの思考の「枠」に気づくする。

 

今回の論争で大事なのが、

多くの人が意図的に人種差別的な発想をしたのではないということ。
メディアや教育の中で無意識に培われてきた「常識」
その思考の「枠」そのものが差別的な価値観を無意識に抱えてしまっていた

 

このようなレイシズムを、
"Covert Racism" (無自覚の・内在化された人種差別) と呼ぶ。

人種差別はなくなってない。

前の記事でも話したように、僕らの周りにも日常的にあふれている。

practicemakesbetter.hatenablog.com

そんな中でも特に厄介なのが、無自覚の人種差別。
僕らの社会が成り立っているシステムそのものが、それを助長しているときもあるし、教育、テレビ、広告などから少しずつ形づくられてゆくものもある。

それに気づいて、違和感を感じられるかどうかが大事なのだと思う。

 

結果として、

乳母だと決め付けるのは人種差別なのか?
それとも正当な根拠があるのか?
という第二の論争は現在も続いている

 

話はそこで終わるはずだった・・・。

けれども、日本のメディアにこの議論が伝わったことで、実は第三の論争が始まったことを知っているだろうか?

 

第3の論争:「アメリカ人、人種差別に敏感すぎじゃね?」

 

多くの人が有意義な議論を重ねている一方で、日本の各メディアサイトを見ると、その反応は案外冷め切っている

「こんなんでいちいち人種差別だー!とか言うの?」
「これのどこが差別なのかぜんぜんわかんね。」
「アメリカ人、人種差別に敏感すぎじゃね?」

もちろんこのような反応が国を代表しているとは一切思わない。
ごく一部の意見であってほしい。

けれども、事実として今回の一連の議論が日本ではあまり活発に行われていない。

国際結婚は日本でもある程度広まりつつあるものの、まだまだ偏見が多い。
「外の人」である「外国人」と結婚するという発想から抜け出せない人も多いだろう。
「同じ人種同士で結婚するのが普通だ」という考えは日本でもかなり根強い。

日本人に対する人種差別や偏見もまだまだあることから、議論に関心を示す価値は十分にある話題だと思うのだけれども。

なぜか「過剰に敏感になりすぎ」という風に捉えられてしまう。

 

「こんなの」でいちいち話題にするのは、敏感になりすぎなのか?

議論している人たちは、差別反対!とただ大声で叫んでいるだけの人なのか?

 

そんなわけない。

 

でも、僕は別に怒っているわけでも、落胆しているわけでもない。
なぜなら、「敏感になりすぎ」という風にバカにされているとしても、それは、それだけ多くの人の目と耳に情報が届いているということを意味しているから。

差別という言葉が話題にすらならない。
差別という発想がそもそも認知されていない。
差別があって当たり前だと思われている。

そのような時代に比べて、僕らはだいぶ前進したと思う。
まだまだ戦ってゆかなければならないし、現状で満足してはいけない。

けれども、
「敏感になりすぎ」だとバカにする人が出てくるくらい、議論が活発に行われて、話題に上がっている
それは素直に喜ばしいこと。

 

Gandhi が言ったとされている文言の中で、このようなものがある。
実は出処がハッキリとしていない言葉なのだけど、今回の話に通ずるところもあるだろう。

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https://www.walldevil.com/507111-mahatma-gandhi-first-they-ignore-you-wallpaper.html

はじめに彼らはあなたを無視し
次に笑い・からかい、
そして挑みかかってくる。

そうして我々は勝つのだ。

人種差別の話題が挙がりすらしなかった。
無意識な人種差別が存在することに気づくことすらできなかった。

そんな時代を乗り越え、議論が活発に行われるようになってきた。

声が上がり始めたら、それをあざ笑い、バカにする人も出てくるだろう。

でもそこを耐え抜いて、声を上げ続ければいつか変化は訪れる。

からかう人を恐れて、黙ってしまってはいけない。

 

だからこそ僕は、この第三の議論もある意味でとても有意義で、価値のあるものだと思う。
多少でも話題に上がって、人の目に触れれば、それだけ多くの人の思考の「枠」を広げられる。
その議論に賛同する・しないは別にして、その考えに触れるキッカケを与えられる。

バカにする人が出てくるくらい話題になっていることに、感謝しよう。

 

結論!それでも面白い動画であることに変わりはない!

 

最後に、

「議論せず、楽しんでみてほしい」

乱入者たちの母親であるキム・ジュンアさんの言葉だ。

この動画が巻き起こした大論争は、議論する価値のあるものだ。
けれども、いくら真面目な話題に発展したからといって、あの例の動画が最高に面白く、たった数秒で多くの人々を笑顔にできることに変わりはない。

踊りながら入場した子供。
歩行器を巧みにあやつる赤ちゃん。
状況に絶望しつつ、威厳を保とうとする父親
そして夫のために必死に駆けつけてきた妻。

いまや世界中がこの家族の大ファンになりつつある。

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http://indianexpress.com/article/trending/trending-globally/twitterati-is-loving-the-bbc-interview-kid-hails-her-the-queen-and-president-of-earth-4571205/

 

人種差別、
国際結婚への風当たり、
数々の偏見、

それらを乗り越えて、幸せな家庭を築いている。

あの動画は多くの人に笑いを提供しただけでなく、人種・偏見に対して一度考え直すキッカケを与えてくれて、なおかつ、幸せな家族の形を僕たちに示してくれた。

 

ただの面白ニュースで終わらせるのは勿体無い。

僕がそう伝えたいのは、
差別や偏見について真面目に考えろ!と言いたいのではない。

面白ニュースとして始まり、僕らに考えるキッカケをくれて、かつ幸せな気分にさせてくれる。

BBC例の動画は、それだけ多くの学びと発見を与えてくれる。

 

 

ただの面白ニュースで終わらせるのは勿体無い。

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http://indianexpress.com/article/trending/trending-globally/twitterati-is-loving-the-bbc-interview-kid-hails-her-the-queen-and-president-of-earth-4571205/

 

 

では、僕から以上っ!!

「ネイティブに笑われる英語」なんて宣伝文句はもうやめよう

本日のテーマ
「ネイティブに笑われる英語」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

その英語、ネイティブに笑われてますよ!

ネイティブに笑われる言い回しトップ10!

 

なんて記事が出回ってるけど、僕はこういうのを見かける度にガッカリする。
「ネイティブに笑われる英語」というのを気にする人がとにかく多い。

 

英会話や英語教材の宣伝文句も、

日本人の英語の9割が実はネイティブに笑われてます!

ネイティブに笑われないホンモノの英語を身につけませんか?

 

とかそんなんばっかり。
9割ってどこ情報だよ。ホンモノの英語ってなんだよ。
日本人の喋る英語はニセモノって言いたいのだろうか。
そう考えているのならば、その人は教育者としてニセモノだと思うんだけどな。

うーむ、腹立たしい。

確かに、話せるように頑張って勉強したのに、笑われるのは決して心地よい気分ではないだろう。

でも待ってほしい。
本当に「ネイティブに笑われる」ことなんてあるのだろうか?

 

本当に「ネイティブに笑われる」のか?

 

おそらく、一番真っ当な答えは、

ネイティブは他人の発音なんかで笑わない!
日本人が実は一番発音を気にしている!
笑われると思い込んで萎縮するな!
自信を持ってどんどん話すのが一番!

というものだろう。

この意見にはおおむね賛同する。
実際に発音で笑われるケースは、留学先よりも日本国内の方がよほど多く目の当たりにしている。
ネイティブではなく、日本人同士にどう思われているかを気にし過ぎなところもある。

日本人の発音に訛りがあるのは、世界中どこに行っても周知の事実。
むしろ訛りの無い英語なんてないという話はいつかしっかり話すとして、発音に訛りがあるくらいで笑われることはそう無いだろう。
正直な話、初めから流暢な英語が出てくることなんて期待されていないのだから。

 

んじゃ結論として、
「ネイティブに笑われる英語」なんてありません!
で終わらせていいのだろうか。

 

いや、違う。

極端な意見かもしれない。
けれども、あえて言わせてもらいたい。

 

 

ネイティブに笑われない英語なんてない。

 

なぜかって?
一緒に考えてみようじゃないか。

 

ネイティブに笑われない英語はあるのか?

 

日本人が流暢な英語を話せることは、残念ながら最初から期待されていない
いや、これは日本人に限らないんだ。

「アジア圏で生まれたような顔」をしている人から流暢な英語が出てくること、それが未だに信じられない人が大勢いる。
「アジア圏で生まれたような顔」というヒドく差別的短絡的な表現をあえて使わせてもらう。
実際にどこで生まれ、どの文化圏で育ち、何の言語を話して生きてきたかは一切関係ない。

「アジアの血」が顔から感じられれば、その人は英語ができないという決めつけ。

そんなあまりにも単純で、今の時代にそぐわない考えを未だに持っている国。
それには僕らが「ネイティブ」と称賛するアメリカイギリスも含まれている。

 

#thisis2016 アジア系アメリカ人の苦悩

 

"Asian American" のことを知っているだろうか?

アメリカに住む、アメリカ生まれの、「アジア系」のアメリカ人
彼ら彼女らは疑う余地もなくアメリカ人だ。
生まれも育ちもアメリカで、ただ見た目が「アジア系」というだけのこと。

でも見た目が「アジア系」というだけの理由で、アメリカ社会でどれだけの苦労と、不公平・不条理を強いられているか考えたことがあるだろうか。

 

#thisis2016 というハッシュタグのもと、多くのアジア系アメリカ人が直面する現実を訴えた New York Times 社の記事が昨年末に大きな反響を呼んだ。

これが2016年の現状だ。
2016年にもなって、現実は未だにこうだ。
国際化が進んでいるとされている中での悲痛な思いが、このハッシュタグには込められている。

時間がある時で良いから、下のビデオを絶対に見てほしい。

www.nytimes.com

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どれだけ英語が国際言語として普及しても、
どれだけ国際化が進み、人・文化・言語の交流が活発になっても、

まだまだ僕らの間にある国境や、文化的な境界線という空想の分け目は消えることがない。

アジア系の顔をした人が英語ができたら面白いか?笑えるか?

 

そんなわけない。

 

けれども現実として、多くの人が目標とする、「ネイティブ」のような流暢な英語を持っている彼ら彼女らでさえ、笑われている。
いや、第一言語が英語だから、むしろこの人たちは正真正銘の「ネイティブ」なのに

見た目が「アジア系」だという、ただそれだけの理由で偏見や差別を受ける。
「アジア系」は全員同じ、という発想も間違いでしかない。

これは言語の問題ではない。
これは「英語力」の問題ではない。
いくら英語が流暢でも、僕らは「ネイティブに笑われる」のだ。

 

外国人が日本語を話せたらいけないのか?

 

日本でも似たようなことが起きている。

街中で道に迷ってそうな「外国人のルックス」の人がいたら、多くの人が頑張って英語で話しかけてみようと考えるだろう。
その人が日本で生まれた可能性、日本語が話せる可能性というものは頭をよぎらない。
見た目から「日本語は話せないだろう」と決めてしまっている。

 

別の例で言えば、

テレビに出てくる日本語が「ぺらぺら」の外国人タレント
とりあえず欧米のルックスの人をCMに出して、日本語をしゃべらせたら面白い。
日本語がカタコトでも笑えるし、もの凄く流暢ならそれもそれで違和感があって笑える。

そんなのばっかり。

別に日本が悪いとか、そういうことじゃない。
世界中で、まだまだ文化・言語・民族への先入観が消えないどころか、メディアによってより強調されている。

「笑う」というのも別に悪気があるわけではないだろう。
だけど人種と言語の不一致、その違和感を感じる理由として、固定概念があることは疑いようのない事実だろう。

 

"Cultural Assumption" = 文化的先入観

 

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アジア系の人は英語がしゃべれない。
外国人は日本語がしゃべれない。

個人という単位で見たら、その考えが間違いなのはすぐに分かる。
けれどもまだまだ文化的な先入観 "Cultural Assumption" はなくならない。

僕らの中での「常識」が、メディアにおける扱われ方が変わらない限り、この先入観は消えない。

 

ネイティブに笑われない英語がほしい?

 

そんなこと、もう言わないでくれ。

 

ネイティブ並みの、ホンモノの英語を身につけたい?

 

残念ながら、僕らの口から発せられる以上、僕らの英語は全部ニセモノ

 

僕らが戦うべきは、
僕らが本当に目指すべきものは、
「ネイティブに笑われない英語を身につける」ことじゃない。

 

本場の英語こそが全てで、それ以外の英語はニセモノに過ぎない。
英語はネイティブの所有物で、僕らが使っているのは「まがい物の借り物」。

 

その先入観を捨てる覚悟。
その固定概念から抜け出して、自分の英語は自分のものだと言い切る勇気。
僕らが目指すべきものはそこじゃないだろうか。

 

これは日本人だけの戦いじゃない。
英語学習者全員がいっしょに戦ってゆかなければならない。
自分たちの中での文化的先入観と戦い、世の中から少しずつ無くしていこう。

#thisis2016 誰が英語をしゃべったっていい。
#thisis2016 「ネイティブ」の英語以外の英語も立派な英語だ。
#thisis2016 見た目が民族・言語・文化を表してるわけじゃない。

 

結論!「ネイティブに笑われない英語」を目標にするな!

 

ネイティブに笑われる。

そんなことを恐れてたら英語は一歩も前進できない。

文化的先入観が無くならない限り、流暢であれカタコトであれ、アジア系の人の英語は違和感を生んでしまう。

だったら、笑われたっていいじゃんか

笑われるということは、何か発信・発言しようと努力した証。
口を閉じて黙ったままでは何も進まない。
どんどん英語を発話して、笑いたい奴らには笑わせておけばいいさ。

立ち止まって、からかう奴らなんて気にしないで。
前に進み続ける限り、確実に自分の中で成長してゆける。

ネイティブに笑われる、
日本人に笑われる、
そんなことよりも、
昨日の自分に笑われないことの方が大切。

 

2017年現在、民族・文化・言語に対する先入観はまだまだ根強い。

これを今後変えてゆけるかどうかは、僕らの努力にかかっている。

小さなところからコツコツと。

自分の中の先入観を無くしてゆくところから一緒に始めよう。

 

 

では、僕から以上っ!!

 

 

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