帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

英語が「できる」「できない」の間にあるもの

本日のテーマ  
Can you English?

 

どーもー、おりばーです。

大学院を無事卒業し、現在は英語教育に関わる仕事を毎日やっております。
多忙過ぎる。
けど、楽し過ぎる。
今後も不定期更新になりそうだなーこりゃ。

それでも良ければ、たまに覗きに来てください。
飛んで喜びます。

 

今日は、ふと最近疑問に思ったことについて。

僕らが日常会話において、そして特に英語の教育現場において何となしに使っている言葉、「英語できる」「英語できない」

「○○君は英語できるからね~」
「小テストの点が悪かった?あー、あの子はさ、もともと英語できないからさ。」

勿論、上手・下手という意味で「できる」「できない」を使っているのは分かる。
Can / Can't じゃなくて、その才能の度合いに対して使っている。


分かるんだけども・・・。

どうしても、この「英語できる」「英語できない」があまりにも極端なものの見方だと思うんだ。

 

 

できる・できないの基準はどこにあるの?

 

f:id:practice_makes_better:20170915184436j:plain

どこまでいったら「できる」の?
どれくらいのレベルなら、「できる」って言っていいの?
「できる」って言えるようになるには何をすればいいの?

誰かが決めたわけでもないのに、まるで「できる」と「できない」の境目となるラインが、全員の共通認識の中にあるかのように、僕らは話す。

「君って英語上手なの?」
なんて聞かれて自信満々に「はい!」って答えられるような人なんてほとんど居ない。
そう答えた時点で、ありもしない一定の基準を期待されてしまうからだ。
「私は英語ができます」なんて言ってしまったら、「言う割には大したことないじゃん」と思われてしまう恐れが常に付きまとうことになる。

だから、僕らはいくら英語の勉強に時間と労力を使っても「英語ができる」なんて言い切れない。
「できる」に辿りつけることがないんだ。

単語帳を何冊買っても。
英語必勝本とかを何冊読み漁ったとしても。
一向に「できる」って言えない。

 

英語に「できた!」という瞬間はあるのか?

 

「できる」に辿り着けない理由は、努力不足だとか、才能がないってことではない。
その、「できる」「できない」の二択で考えているから行き詰るんだ。

 

例えば、逆上がりを例に考えよう。

「逆上がりができる」というのは、結果を見れば一目瞭然なわけだ。
「できる」「できない」がハッキリしている。

鉄棒を掴んで、身体を前に勢いよく出す。
地面を蹴って加速してゆく感覚。
身体が一瞬、宙に浮く感覚。
身体がしっかりと上まで登らなくても、そのゴールまでの距離が実感できる。

あとほんの少しだ!
その感覚が身体で分かるし、他人から見ても分かる。

身体がしっかり一回転するその時をめがけて、懸命に努力するわけだ。

 

一方で、英語はどうだろう。

「できる」という結果になるのはいつなのだろう
後少しだ!って、背中を押してくれる人は居るのだろうか。

「できた!」って瞬間があれば、努力は報われる。
その実感が近くにあるのが分かっているなら、努力しやすい。

でも、英語だと、その「できた!」を実感できる機会と言うのは本当に稀だ。
日本に居て、「英語を使う」という意志と機会が日ごろから無いと、なおさらだ。

「できる」というタイミングが来ない以上、僕らはずっと「できない」止まり。
そんなの、あまりにも悲しいじゃないか。

英語が「できる」と「できない」、その間こそが大事

 

英語は「できる」「できない」の二通りしかないわけじゃない。

そりゃ、「今できないこと」があるのは当然だ。
言語を完璧にすることなんて、永久に出来ないんだから。

 

でも、多くの人が「今できていること」に対して気が付いてあげられない。
教育者も、そして何より学習者自身も。

単語を沢山知っていたり、文法理解が早かったり、「できている」点は人それぞれ沢山ある。
発音やリスニングが苦手だとしても、「できている」点があることに変わりはない。

働いていて日々思うのが、学習者自身が自分を極端に過小評価しているということ。
小テストや授業中のプリントを正確に素早く解けても、英語が「できる」に繋がらない、繋がっている気がしない。

英語が「できる」ってのは発音がネイティブの様に聞こえるってことなのか?
英語が「できる」ってのはネイティブが使うようなスラングを使いこなせることなのか?

 

違うだろ。

その「ネイティブのマネをする」=「良い英語」という発想を捨てるべきだ。

「今できている」ことが着実に昨日より増えているのに、どうしてそれを「できない」だなんて言ってしまうんだ。

そんなんじゃあ、英語学習なんて楽しいわけがない。

一生成功することが無い鉄棒に向かって、挑み続けられるものか。
英語が完璧になることなんて一生ない。
「完成させる」なんてことはゴールにできない。

なら、「できる」「できない」の間の「やっている」という状態こそが一番大事じゃないのか?

英語が「できない」なんてことはない。
皆がそれぞれの歩幅で「やっている」ってだけの話だ。
英語をやってさえいれば、それでいいじゃないか。

「できるようになっていっている」
つまりはそういうことだ。

 

 

英語が「できる」「できない」。
その考えから、離れてしまおう。

 

では、僕から以上!