帰国子女の悩みドコロ

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帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

「考えさせられる」と言わなきゃいけない、現代人の病

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どーもー、おりばーです。

 

ニュースに関して、
事件に関して、
ブログ記事に関して、

フェイスブック等でよく見かける発言。
「考えさせられる」

「とても考えさせられる記事ですね、シェアします」
「非常に考えさせられる、悲惨な事件だ」

このようなコメントがあふれてる。
そう思わないだろうか? 

この通称、「"考えさせられる"発言」が何故ネット上であふれているのか?
そして果たしてこの発言はしばしば批判されるように中身のない言葉なのか?

一緒に考えてみようじゃないか。

 

 

情報発信が気軽な時代へ

 

大半の人が何かしらのSNSをやっている。
そんな現代において、情報の発信はどんどん手軽になってきている。

気軽に自分の意見を発信できる。
それはすばらしいことである一方で、新たな問題を作り出している。

それは、SNSが生活に密接になればなるほど、匿名性が下がっていることだ。

 

「考えさせられる」は匿名性の低い場所にしか現れない

 

僕が思うに、匿名性が高いサービス上なら、「考えさせられる」という発言はあまり出てこないんじゃないだろうか。

僕が「考えさせられる」を見かけることが多いのは間違いなくフェイスブックだ。

 

フェイスブックにあふれる、「考えさせられる」コメント

 

なぜ特にフェイスブックでこの例のコメントが目につくのか。

それは、

  • 匿名性が低い
  • 実名で利用している
  • 実生活でつながりのある人とつながっている

という三つの理由があると思う。

実生活とSNSでコミュニティを共有していると、うかつに意見を発信できない
もしかしたら誰かに間違いを指摘されるかも。
もしかしたら誰かを傷つけちゃうかも。

実名が互いに出ている以上、ふとした発言が個人攻撃と誤解されてしまうかもしれない。

話題性のある、議論が起こりそうな話題であるほど、フェイスブックでは気軽に発信しにくい。

 

議論の余地のない話題に「考えさせられる」は使われない

 

そもそも白黒がはっきりしている話題では、「考えさせられる」なんて誰も言わない。 

答えが明確じゃない、善悪がハッキリとしない話題でこそ、この言葉はその力を発揮する。

「考えさせられる」とは言ってしまえば、
立場をハッキリさせないこと。
自分の意見を明確に出さないこと。

自分がどちら側の意見かハッキリさせなければ、誰かを怒らせてしまう心配もない。
明日学校や職場で会う可能性のある人の意見に、フェイスブックというある種の公衆の面前で真っ向から反対してしまう可能性もなくなる。

そう、「考えさせられる」対立を避けるための安全策

実生活とSNSが重なり合っている現代において、他人を刺激しない言葉は大変便利である。

 

「考えさせられる」は実際は何も考えてない?

 

そこで気になるのが、
「意見を言うわけでもないのなら、わざわざコメントするな!」
という指摘だ。

「考えさせられる」
ってコメント自体には何の意味もない。
議論を進展させてるわけでもないし、掘り下げているわけでもない。

確かにそうかもしれない。

かくいう僕もいつもこう思って、なんだかイライラしていた。

なんでわざわざ中身の無い発信をするのさ。
「考えさせられる」なんていいながら、 ホントはなにも考えてないんだろ
って。

でも、よく考えてみたら実はある種意味のある発言だったことに、最近気がついた。

 

「考えさせられる」を言わなきゃならない本当の理由

 

何故このような、中身のなさそうなコメントが溢れているのか。

僕が思うに、その本当の理由は・・・
「何も考えてないと思われてしまうのが怖いから」
ではないだろうか。

「考えさせられる」は何も考えてない、という批判のまるで逆をゆくように。

何も考えてない、って思われたくないからこそ「考えさせられる」発言なのではないだろうか。

さっきも言ったように、SNSと実生活において、人間関係が重複している人が多い。
そこで例えば、フェイスブックのタイムラインにとても話題性のある、議論の余地のある、痛ましい事件に関する記事が流れてきたとしよう。

そのまま何もコメントせず、素通りしてしまうとどうなるだろう?

 

 

まぁ、何も起きないのだけれども、そうだからこその「病」という表現だ。

僕ら現代人は、気軽に情報発信が出来ることを得た代償として、情報発信をしないと無関心だと思われてしまう、という被害妄想のような「病」を自らにかけてしまったのではないだろうか。

気軽に意見が言えるからこそ、意見を言わないとその話題に関心がないと思われてしまう。
知り合いが見ているフェイスブック上なら、なおさらその勝手なプレッシャーは強くなる。

社会的に物議をかもしている話題に、関心がないなんて思われたくない!
でも、自分の意見をハッキリ言ってしまうと、友達とか同僚と意見が対立してしまうかも。

という一連の葛藤が、無意識に起きるのではないだろうか。

その結果生まれるのが、「考えさせられる」なのである。

無関心だと思われたくない。
けど対立もしたくない。
とりあえず何か発信しなければ!

という自らに課した強迫観念に迫られ「考えさせられる」は生まれる。 

 

SNSで気軽に情報発信する時代は終わったのかもしれない

 

コメントしなかったからと言って、無関心だなんて決め付ける人はいない。
他人のSNSでの一挙動をそこまで気にしている人も少ないだろう。

でも、実生活でのコミュニティとSNSのコミュニティがあまりにも密接になりすぎて、僕らはこうも息苦しいことになっている。

ネットで気軽に発言できる時代。
その気軽な時代は終わりを迎えているのかもしれない。

互いを検閲し合い、意見の異なる者は数の暴力で捻じ伏せる。
そんな時代になりつつある気がする。

それは、トランプ当選後のアメリカの友人たちの投稿を見たら一目瞭然だ。

同じ小学校に通っていたアメリカの友人たちが、「議論」とは呼べないような個人攻撃の嵐を互いに浴びせあう。
選挙という話題に触れなければ怪我をしない。
けれども、選挙に無関心だと思われるのも嫌

そうして次々と巻き込まれてゆく。

選挙戦後の数日間、僕のフェイスブックはアメリカに居た頃の友人たちの喧嘩と、突然アメリカ政治のご意見番に名乗りを上げた日本の大学の知り合い同士の言葉の殴り合いであふれた。

「考えさせられる」とは、この息苦しい時代で生きるためのある種の知恵なのかもしれない。

 

答えの無い思考にだって、意味はある

 

最後に。

「考えさせられる」は確かにその発言自体にはあまり意味がない。

でも、「考えさせられるって言うくらいなら答えを言え」という批判には注意が必要だ。

答えが明確でない話題、だからこその「考えさせられる」だ。
答えがハッキリしない問題だからといって、思考をすることすら諦めてしまっては意味が無い

考えて、
考えて、
考え抜いた結果、答えが分からないことだって沢山ある。

納得いかないけど、意見が上手くまとまらない。
そういう議論で世の中あふれてる。

その、「考える」という過程の重要性を忘れてはいけないと思う。

答えがない問題だからこそ、自分なりに考えられるだけ考えてみる。
それでも何て表現すればいいか分からない。
そんなこと、沢山あるんじゃないか?

答えにたどり着かない思考は
無価値か?
無意味か?

そんなことないと思う。

考え抜いて、その問題の複雑性に気付けたからこそ、意見をハッキリさせない。
いや、できないのだ。

双方の対立点を理解せず、自分の意見を一方的に言う人こそ、実は一番、「考えさせられる」べき人なのかもしれない。

 

結論!「考えさせられる」という言葉は非常に「考えさせられる」

 

中には本当にな~んにも考えずに「考えさせられる」って言っている人もいるかもしれない。 

けど、僕が思うにそういう人は少数。
ホントは考えに考えた結果としての「考えさせられる」なんだと思う。

SNSという、公共の場になりつつある場所で、人間関係に波風を立てず、なおかつ、議論されている話題に関心があることを示す。
そのために選んだ言葉。

 

僕はそうであると信じたい。

 

この「病」の唯一の治療法は、気にしないという非常に難しいものなのだ。

 

僕はどうかというと、「考えさせられる」と発言することも無ければ、意見を言うこともない。
無関心って思われたって、別にどーだっていい。
だいたい、ストレスたまることの方が多いから、フェイスブックなんて見ない!

 

なんて言いながら、フェイスブックを退会するわけでもなく、毎日なんだかんだ開いてしまっている。
そんな僕こそが、一番重い「病」にかかっているのかも・・・

 

では、僕から以上っ!!

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