帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

帰国子女は空気が読めないくらいがちょうどいい

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本日のテーマ
「空気を読む」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

帰国子女ってさ、ホントに空気読めないよね

 

帰国子女の悩みの中でも、恐らくトップ5に入るであろう「KY(空気読めない)問題」。

もはや一般常識となりはじめている「帰国子女=空気読めない」という認識。

今日は「空気を読む」ということの意味を考えつつ、どうして帰国子女にとって難しいのか、そして帰国子女は「空気が読める」必要があるのか、について一緒に考えていこうじゃないか。

 

 

どうして帰国子女は「空気が読めない」のか?

 

まず初めに言っておきたい。
帰国子女だからと言って、皆が空気が読めないわけではない

日本での生活が長ければ、同じ学校に居る時間が長ければ長いほどに、空気は読めるようになってくる。

けれども、やはり事実として多くの帰国子女がKYと呼ばれ、また帰国子女自身もその「空気を読む」という行為の難しさについて悩んでいる。

 

その理由・原因はなんだろう?

 

他の方の記事やサイトで良く言われているのが、

外国には空気を読むという文化が無い。
個人主義の国では
空気なんて読まない。

と言ったように、

海外では「空気を読む」ことなんてない!
だから帰国子女は日本に来て、その新たな文化に適応できないのだ!

という解釈である。

たしかに、日本の集団主義的な価値観が個人の欲望や欲求よりも、他人との調和を重視しているから「空気を読む」という特有の文化を生み出しているのだ!

そう考えると、「空気を読む」という文化は海外には無くて、だからこそ帰国子女は「空気を読む」技術や知識に欠けているのだ!

と考えられなくもない。

 

でも、果たしてそうなのだろうか? 

 

外国には外国の「空気」がある

 

海外に居た時は「空気を読む」必要なんてなかった?
個人主義のアメリカでは、皆が自分のことばかり考えてるから、協調なんて考えない?

そんなわけないよね。

海外には海外の、
その国にはその国の、
「常識」というものがある。

 

アメリカの大学を例にしてみよう。

アメリカを含む海外での大学の多くは、出席すること自体に意味を置かない。
授業中の積極的な参加態度、ディスカッションへの貢献度合いなどが評価される。

講義を静かに聞いて、言われたことを黙ってノートに写す。
それだけでは全く評価されない。

仮に教授に名指しで、「今の議論について何か質問ある?」と聞かれたとしよう。
理解してないと思われたくないから、
「いえ、特にありません」と言ってしまうと、正直教授はガッカリしてしまうだろう。

分からなかった点を聞いていたのではなく、君自身の意見を議論に加えてほしい、という要望だったのだから。

 

慣れてない場での、暗黙の意図の読み違い

これこそが、「空気が読めない」という事だ。

留学先で「空気が読めない」行動をとってしまう人、結構いるんじゃないかな。

 

帰国子女が「空気を読む」という概念を知らないんじゃない。
日本という慣れてない場の「空気」がまだ読み取れてないだけ。

帰国子女は海外では実は「空気を読めていた」

そう考えてみたらどうだろうか。

 

日本の「空気」がどこも同じだと思ったら大間違い

 

ここでもう一つとっても大事なことがある。

 

日本にずっと住んでいた人なら誰しもが「空気が読める」と思うのも間違いだということ。

現に、空気が読めなくて苦労している人は帰国子女に限らず大勢いる。

各コミュニティーにはそれぞれの「空気」があるというのがその理由ではないだろうか。

 

例えば、

急に明日から全く違う部活・クラス・職場に入ることになったとしよう。

皆のキャラや、友好関係、そのコミュニティでの流行や言葉遣い、それらを瞬時に理解するのは、誰にだって難しいこと。
そのコミュニティには、その内部で作り上げられてきた関係性、内輪ネタやノリがある。

いわゆる「空気」と言うものだ。

 

そう考えると、帰国子女だから空気が読めない、というよりも、新しいコミュニティに入ったら、誰だってしばらくは空気が読めないということなんじゃないだろうか?

日本人なら日本中、どのコミュニティに入ってもすぐに空気が読めるかって言ったら、そんなことないだろう。

「空気を読む」というのは、何も日本特有の文化でもなければ、日本にさえ住んでいれば無条件で出来ることでもない。

 

「空気が読めない」のは悪いことなのか?

 

「空気が読めない」と言うのを、

協調性がない、
思いやりがない、
自己中心的、

と思ってしまう人も多い。

けれど、僕は「空気が読めない」 こと自体は、何も悪いことじゃないと思う。

今自分が居るコミュニティに、まだなじめてないだけで、別に誰かを傷つけようとか、自分のことばかり主張してやろう、って気持ちはない。

確かに、どんな人ともすぐに打ち解ける、そういうのが得意な人も居るだろう。

だけど、誰しもが同じペースで、「空気が読める」様になるとはても思えない。

 

特に、その暗黙のルールや内輪なノリを、共有する気が初めから無い。
そんな閉鎖的なコミュニティの場合はなおさら難しい事だろう。

「空気読め」というのは、コミュニティの部外者をハッキリさせるのに大変便利な言葉だ。

「空気」というのはその集団の中に入って、ゆっくりと覚えてゆくもの。

だけど、集団側がその新参者を歓迎しようとしなければ、「空気」を身に付ける機会すら、その人は与えられないだろう。

「空気が読めない」ってのは本当に辛いことだよね。
誰にもその「空気」を教えて貰えず、「これだから帰国子女は」と吐き捨てられる。

「空気読め」と言われるたびに、自分がこの集団においてよそ者であるという事を痛感する。

でも、帰国子女は帰ってきたこの国で生きていかなければならない。
「空気が読めない」からと集団から外されたら、僕らには居場所がないんだ。

僕らは日本で生まれた日本人。

今、まさに帰って来たこの日本こそ、僕らの居場所であるべきはずなのに。

 

「空気が読めない」からこそ気付けることもある 

 

「空気を読む」努力なんて一切する必要なし!
なんて言い切るつもりはない。

社会の中で孤立しないためにも、今いる集団を理解しようとする努力は決して無駄ではない。

だから、帰国子女は空気読むな!とは言わない。

 

しかーーーし!!

 

最後にこれだけはハッキリ伝えておきたい。

「空気が読めない」というのは、その場での「常識」が分からないということ。
そこの「常識」が「常識」に思えないということ。

言い換えれば、少し違う視点を持つということ。
「常識」に挑戦する視野を持っているということ。
それは、実はとても素敵なことだと思う。

「言わなくても分かるでしょ」に対して疑問を投げかけられる。
それは、「空気を読む」ばかりでは出来ないこと。

察するばかりでは、コミュニケーションは生まれない。

暗黙のルールに縛られ、「常識」の中でしか行動出来なかったら独自性も創造力も生まれない。

 

いいじゃん、空気読めなくて。

実はそれくらいがちょうどいいのかも。

空気を読んでたら気付けなかったこと。
空気を読んでたら出来なかったこと。

それをキミは出来ているのだから。

皆と違う事が出来るってのは、素晴らしい才能だと思わないかい?

帰国子女に限らず、ね。

 

結論!「空気が読めない」くらいがちょうどいいのかもね

 

日本に帰国した以上、日本社会になじむ努力は必要さ。

海の向こうでの生活が恋しくても、僕らのルーツである日本という国を否定する必要は全くない。

「空気を読む」なんて、今日明日で出来ることじゃない

ゆっくり時間をかけて、自分のペースでなじんでゆけばいいさ。

そして、相手側からの歩み寄りも、実は欠かせない。
相手側に受け入れる気が無ければ、空気なんていつまでたっても読めるわけない。
帰国子女に空気を教えるチャンスを、与えたことがあるかい?

ちょっと視点が皆と違うくらいの方が、実は色々と発見や気付きがあるもんだ。
違う文化で育ったからこそ、日本文化を違う目線で見れる。

その独自の目線で、日本の嫌なところばかり見つけようとしないで。
自分だから気付けた日本の良いところを、ぜひとも見つけて欲しいものだ。

 

これからの日本を変えてゆくには、今までの「常識」にとらわれない、「空気が読めない」人の力が実はとっても大事なのかもよ。

 

では、僕から以上っ!!

 

 

※ お題のデザインはこの記事を参考にしました!今後もお世話になりまする。

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