帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

僕らは何歳まで「帰国子女」であり続けるのだろうか

本日のテーマ
大人になっても「帰国子女」?

 

 

どーもー、おりばーです。

 

親の都合で海外に行かされた子どもたち、すなわち「帰国子女」。

「子女」という言葉からも読み取れるように、「帰国子女」という言葉は「海外勤務者の子ども」という意味合いがある。
昔海外の学校に通っていた。
幼少期を日本の外で過ごした。
海外に一時期いたというその事実が変わることは一生ない。

けれども、帰国してから年齢を重ねて僕らは「子ども」ではなくなるわけだ。

そこで僕が疑問に思うことがある。

僕らは何歳まで「帰国子女」と呼ばれ続けるのだろうか?

小・中・高等学校において、「あの子は帰国子女だから」と言われるのは仕方がないことだろう。
でも、大学も卒業して、大人になって、社会に出たあとも僕たちは「帰国子女」なのだろうか?

今日は、
「帰国子女」という肩書きに果たして有効期限があるのか、
そして「帰国子女」という肩書きでしか認識・評価されないことの辛さについて、
一緒に考えてゆこう。

 

 

大人になっても「帰国子女」?

 

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社会に出ても、僕らは帰国子女なのだろうか。

帰国子女が仕事で「うざい」と思われないための3つの留意点 | 在宅ワークHACKS
帰国子女が仕事中に書いたメモの内容が腹筋崩壊モノだった | CuRAZY [クレイジー]

これらの記事に限らず、職場での帰国子女あるあるや事件簿はネット中にあふれている。
別にいまさら断言する必要のないことだと思うけど、一応ね。

社会に出て、仕事についても「帰国子女」として認識されている人が多い。

もちろん、自ら私は「帰国子女」ですという風にカミングアウトしている人も多いだろう。
業務連絡に使う日本語が難しかったり、ビジネスメールが苦手だったり。
職場というチームで働く以上、自分の長所・短所を知っておいてもらうのはメリットもある。

でも、別に「帰国子女」ならば日本語が苦手、協調性がない、とは限らない。
そういう人もいるだろうけど、そんなの「帰国子女」に限らずたくさんいる。

「帰国子女」だからって自己主張が激しいと決め付けるのも、自己主張が激しい理由をすべて「帰国子女」という肩書きで説明するのも僕はなんだか納得がいかない。

この人とは働き辛いな~って気持ちを、「帰国子女と働くの辛い」という風に大雑把に一般化されてしまうのは悲しい

個人の問題は「個人」の問題として扱えないのだろうか。

悪い一面があるとすぐに「これだから帰国子女は」と言わないでほしい。

 

どれだけ努力しても「帰国子女」という肩書きでしか見られない

 

マイナス面についても話したけど、僕が個人的に一番納得いかないのがコレ。

どれだけ何かを努力しても、何かを身につけようと頑張っても、「帰国子女」という肩書きでしか見てもらえない。

 

僕は英語が好きだ。
いや、大好きだ。

自分の大切な一部分だと思ってるし、英語でしか表現できない「自分」もある。
英語の勉強をすることが好きだし、人に英語を好きになってもらうことはもっと好き。

僕が海外に居たころなんて、幼稚園から小学校低学年まで。
使っていた英語は幼稚そのものだし、発音はある程度ごまかせても、子どもっぽい言葉しか知らない点はごまかせない。
大学・大学院レベルで使う学術的な英語なんて全然知らないし、毎日辞書片手に頑張って語彙を増やしている。
Weblioを一日なん百回ひらいていることか。

 

別に他人と比べて、僕のほうが努力している!なんていうつもりは全くない

だけど、大学を出て、仕事についても、僕は「帰国子女」としか見てもらえない。

どういう過程を通って、どういう努力をして今の自分が居るのか。
僕は「英語」だけの人間ではない。
生まれたときから「英語」が出来たわけではない。
今の自分の性格があるのは、アメリカで育ったからではない。

僕はもう人生の大半を日本で過ごしている
でも、人々の僕への評価は、帰国した時に与えられたこの「帰国子女」という肩書きから、進展することはない

帰国子女だから英語が出来る人。
帰国子女だからおしゃべりな人。

もっと僕を評価して!!ということを言いたいんじゃない。
いい点も・ダメな点も、全部「帰国子女だから」で片付けられるのがとても寂しいのだ。

30歳になっても。
40歳になっても。

僕は「帰国子女」と呼ばれ続けるのだろうか。

僕が、ただの「英語が好きな人」になれる日は来るのだろうか。

 

帰国した時点で僕らの価値は決まっている

 

「帰国子女」なんて言っても、百人百色。

海外で得てきたことも勿論大事な財産だけど、帰国してからの年月も同じくらい学び・経験・成長にあふれている。

 

でも、「帰国子女」という肩書きだけで、
一律に個性を与えられ、
一律の評価を与えられ、
一律の価値を与えられる。

社会にとって、僕らはただの「帰国子女」であり、それ以上でも以下でもない。
何を学び得たのか、何を自分で選択したのか。
そこに気づいてくれる人は存外少ないものだ。

日本に舞い戻り、「帰国子女」というシールを張られた時点で僕らの評価は決まっている。

個人として見てもらえず、そのシールだけで判断される。
「帰国子女」であるかどうかが僕の価値を決めているわけでは無いはずなのに。

帰国後に歩んできた時間が、まるで無かったかのように。
帰国した瞬間に社会における価値が決まっているかのように。
時が、そして自分自身が進展してないかのように

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ただの僻みだと思ってもらってかまわない。

けれど、少なくとも僕は、「個人」として見てもらえず、「帰国子女」という言葉で価値を決められることが我慢ならない。

 

結論!君の価値に気づいてくれる人を探そう!

 

人生の一時期を海外で過ごした。

たったこれだけで「帰国子女」という言葉でひとくくりにされる。
自分にとってそれがどれだけ大きな財産でも、「時間」で見れば長い人生のほんの一部。

そこから何を得て、何を人生に活かすのか。
それは「あなた」次第。

肩書きで色々決め付けられるのは気分の良いことではない。
だけど、個人として知ってもらえれば、その固まった印象は解かれてゆく。

「帰国子女」としての君じゃなくて、ありのままの君を見てくれる人。
学校であれ職場であれ、そういう人は必ず居てくれるはず。
そういう人との出会いを、僕は大事にしてゆきたい。

「帰国子女」という肩書きが嫌いなわけではないんだけども。
「へぇ~帰国子女なんだ」って大人になってもいちいち言われ続けるのは素直に面倒くさい。

 

 

とまぁ、色々言ってはみたものの、こんなことで悩んでるの僕だけかもね。
同じような思いをしている人が居るのかどうか、怪しいところですな・・・。
まぁ共感されなくても、読んでもらえただけ良しとしましょ。
読んでくれてありがとう!

 

では、僕から以上っ!!