帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

「帰国子女」であることがその人の性格を決めるわけではない

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"If you thought we were just some cookie-cutter characters, you couldn't be more wrong."

 

どーもー、おりばーです。

 

今日は「帰国子女」と「性格」。
これらの関係について考えてみようかと。


「帰国子女ってこういう子多いよね」
「いるよな~こういう帰国子女」


こんなことを言われたこと、結構あるんじゃないだろうか。
または、言ったことがあるんじゃないだろうか。

いわゆる「帰国子女あるある」というやつ。
(あるある~、より、いるいる~の方が近いか?)


僕らはどうして「帰国子女」と呼ばれる人々に対して、一定の特徴共通の「性格」があるかのように考えてしまうのか。

そして、「帰国子女」だからこういう奴だ!
という決め付けはある種のレイシズムになりうるのか。

その原因と危険性について一緒に考えてみようじゃないか。

 

 

帰国子女あるあると言って思い浮かぶもの

 

まずはじめに、

巷で言う「帰国子女あるある」にはどのようなものがあるのか、色んなサイトを見比べてみた。

サイトの中には、帰国子女目線での「あるあるネタ」もあるけど、今回重要なのは「帰国子女にこういう奴いるよな~」という帰国子女に対するあるあるネタ」。

サイトでよく見かけるものから、自分が過去聞いてきた・言われてきた「帰国子女あるある」をざっくりとまとめると、

  1.  とにかく英語を使いたがる
  2.  「アメリカでは~」って外国と比較したがる
  3.  自己表現・個性が強い(派手)
  4.  社交的・コミュニケーション能力が高い

という感じじゃないだろうか。

細かく見ていけばもっとあるだろうけど、だいたい共通認識として、誰もが「あるある」って頷くものはこの4点じゃないかな。

もちろん「あるあるネタ」は、すべての人がそうだ!と言っているわけではない。

けれども、こういう印象を多くの帰国子女が知らぬ間に持たれているというのは悲しくも事実だ。

 

帰国子女あるあるの問題点

 

ここで考えてみよう。

 

「帰国子女」全員に共通しているものは果たしてなんだろうか?

 

practicemakesbetter.hatenablog.com

↑ 過去記事でも何度も言っているけど、

「帰国子女」は皆が英語圏や、個を重んじる文化圏で育ったわけではない。

「帰国子女」であるという肩書きから真の意味で全員に共通して言えることは、日本以外の国で人生の一部を過ごしたという一点のみだ。

だけど、いわゆるステレオタイプというもので見られてしまいがち。

帰国子女だから英語ができる。

帰国子女だからアメリカ好きだ。

帰国子女だから服装や髪が派手だ。

帰国子女だから社交的だ。

逆もしかり。

英語できるの?あ、帰国子女だからか。

派手な髪色だね。帰国子女だからかな。

コミュ力高いね!あ、帰国子女だからか。

その「だから」は繋がっていない!
ということに気付いてほしい。

だけど」に関してもそうだ。

帰国子女だけど日本語上手だよね。
帰国子女だけど大人しいよね。
帰国子女だけど英語できないよね。

これらも、帰国子女とは本来こうである、という事を無意識に主張している。

 

本来の帰国子女ってなんじゃあああ!!
と僕は声を大にして言いたい。

 

「だから」も、
「だけど」も、
ステレオタイプに照らし合わせているだけ。
その人を「個人」として見れていない。

そして、誰しもそうだけど、「個人」として見られないのはひどく寂しいものだ。

 

「帰国子女」は百人百色

 

英語が得意な子も居れば、日本語が大好きな子も居る。

おしゃべりな人も居れば、シャイな人も居る。

外国生活が恋しい人も居れば、日本が大好きな人も居る。

 

日本での生活が長い人・短い人。
日本になじめる子、なじめない子。

色んな、いや、
いっろーーーんな人がいる!

 

「帰国子女」であるということ、それ単体でその人のことは何も分からない。
分かるはずがない。

海外に一定期間居た、というたったそれだけによって与えられるただの肩書きなのだから。

日本社会によって一方的にカテゴリー化されたに過ぎない。
扱いやすいように、見分けやすいように、どういう人か決め付けやすいように。

住んでいた国、
期間も、
年齢も、
言語も、
文化も、
本人の性格も。

一切関係ない。

 「帰国子女」という名を与えられた時から、僕らは「あるある」を押し付けられる。

これは、人種差別に近いものがある。

○○人だからこうだ。
○○人ってこういう人多いよね~。
あの人ってああだけど、やっぱり○○人だからかな~。

その人を「個人」として見ようとせず、人種というカテゴリーでまとめる。
まるで全員が共通した能力、性格、特徴を持っているかのように扱う。

自分たちとは異質の存在として、ひとまとめにする。
そういう偏見は意図がなくとも人を傷つけてしまうし、互いの溝を深めるばかりだ。

カテゴリーで見ないで、その人そのものを見てほしい。

 

帰国子女だからなんだっていうんだ。
昔海外に住んでいたという事だけで僕の何が分かるんだ。

僕がおしゃべりなのは僕が帰国子女だからではない。
人と話すのが好きだからだ。

僕は帰国子女だけど地味なんじゃない。
ファッションセンスがないだけだ。

 

帰国子女じゃなかったら違う人生を歩んでいたに違いない。

だけど、今の僕が僕である理由は、「帰国子女」だから、では片付けられない。

というより、その一点のみで僕のことを、そして他の帰国子女らの事を決めつけてほしくない。

 

「帰国子女」であるということが、その人の性格を決めるわけじゃない。

それを忘れてはならない。

 

結論!人は皆それぞれ違う、という当たり前のこと。

 

「帰国子女」は人種ではない。
「帰国子女」は言語ではない。
「帰国子女」は文化ではない。

でも、「私たちとは違う」という風に見られれば見られるほど、「日本人」と「帰国子女」、本来ならば同じカテゴリーの人たちが、空の境界によって溝を作られてしまう。

あの人は帰国子女だから。
あの人は帰国子女だけど。

と言わず、また帰国子女も

あの人は日本人だから。
あの人は日本人だけど。

と言わず、互いにいま目の前に居るその人をありのままの「個人」として見る。

ありのままの「個人」として見たうえで、その人が気に食わなければそりゃ仕方がない。
僕だって苦手な人は結構いるし、僕と単純に気が合わないって人も居るだろう。
でも、カテゴリーを捨て、肩書き抜きで人を見ると、意外と見え方が変わってくると思うんだ。

「日本人」と「帰国子女」の区別なんて、本来は必要のないもの。

 

「帰国子女」が当たり前のように「日本人」と呼ばれるようになり、ありのままの「個性」を見てもらえる。
そんな日が来ることを心から願おうじゃないかー。

 

 

では、僕から以上っ!!

 

 

Thumbnail photo credit: goosmurf Ampelmann gingerbread via photopin (license)