帰国子女の悩みドコロ

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帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

「英語ができない帰国子女」だって普通に居ることを分かって欲しい

本日のテーマ
「帰国子女-英語=?」

 

 

どーもー、おりばーです。

 

帰国子女=英語ができる

 

日本人学校に通ってようが、英語圏以外に住んでいようが関係ない。
何歳の時に行ってようが、帰国してから何年経ってようが関係ない。

帰国子女ならば全員英語が「ペラペラ」

その安易な発想が、密かに多くの帰国子女を苦しめていることをご存じだろうか。

羨ましい!ずるい!などと言われる一方で、「帰国子女」という肩書きから英語を取ると何が残るのか、考えたことがあるだろうか。

世間が帰国子女の「英語」にしか期待や興味を示さなくなった結果、その「英語」を持たない人たちがどのような思いをしているのか。

今日は一緒に考えてみよう!

 

羨ましい!ずるい!の対象はほぼ「英語」

 

以前の記事でも書いたけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女は羨望や嫉妬の対象になりやすい。

でも、帰国子女の何をずるいと思って、何を羨ましいと思っているのか

 

おそらくだけど、その感情の9割以上が「英語」に対するものじゃないだろうか?

いいなー英語ができて。
ずるいよなー、英語の勉強しなくても点取れて。
受験とか英語できれば楽勝じゃん。ずるいなー。

僕自身が言われてきたものを考えても、やはり「英語」に関するものばかり。
英語ができるというのは今の日本社会においてかなりのアドバンテージを与えられている。
その過剰にも思える付加価値には様々な問題がある。
国語をないがしろにしてまで英語を学ぶ必要はないと思うし、言語という本来はコミュニケーションの為のものを完全な知識競争にしている教育の現状も残念極まりない。

けれども「英語ができる」という部分が「羨ましい」や「ずるい」の対象になっているのは明らか。

幼い頃から友達と離ればなれにさせられるなんて、羨ましい!
知り合いも誰も居ない、言葉も通じない学校に放り込まれるなんて、羨ましい!
帰国した後に「外国かぶれ」とか「調子に乗ってる」とか言われるなんて、羨ましい!

なんて言う人は居ないだろう。

「英語ができる」という一面だけ見れば輝かしいかもしれないけど、帰国子女の人生って、決してキラキラしたもんじゃない。

海外でも、帰国してからも常に「よそ者」扱い。
外国では「アジア人」とバカにされ、帰国したら「外国かぶれ」とバカにされる。

ずるい!羨ましい!
なんて言葉が向けられるのは、僕らの「英語」だけ。

実はみんなが憧れているのは、帰国子女じゃなくて「英語ができる人」。

では、帰国子女から「英語ができる」を引いたら何が残るのだろうか? 

「帰国子女」というハンディキャップ

 

日本語が変。
空気が読めない。
クラスになじめない。
日本のことを良く知らない。
地元と呼べる場所が日本にない。
友達と呼べる人はみんな海の向こう。

日本の外で過ごした時間は、たちまち「ハンディキャップ」となって帰国子女に襲いかかる。
クラスメートと同じ土俵に立てない。
常に追いつこうと必死。

日本に居なかったことに対するペナルティを与えられ、帰国子女は大きな「マイナス」を所持して日本での生活をスタートする。

そんな大きな「マイナス」を、何とか帳消しにしてくれるのが「英語ができる」という勲章だ。

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photo credit: DiariVeu - laveupv.com gettyimages - medalla via photopin (license)


日本社会からとてつもない価値を与えられたこの勲章によって、帰国子女はその数々のハンディキャップとのバランスが取れる。

空気が読めなかろうが、日本語が下手だろうが関係ない。
「英語ができる」というその一点さえあれば、社会に価値を認めて貰える
喜べることではないけど、事実である。

 

それがどうだろう。

英語ができない帰国子女は、日本社会から課せられたハンディキャップを打ち消すための勲章を持たない。
「英語ができる」というステータスを持たぬ帰国子女は、負の重りを背負わなければならない。

ペナルティを乗り越えて日本社会で行けてゆく為に、英語ができない帰国子女ができることは、たった2つだけ

その1 「隠れ帰国」になる

 

一つ目の方法。
それは「隠れる」こと。

帰国子女である、という風に認識されないようにする。
昔海外に居たという話題をなるべく避ける。
自分は「帰国子女」のカテゴリーには当てはまらないと自分に言い聞かせる。

もし誰かに

「え?昔海外の学校行ってたの?帰国子女じゃん!」

と言われたら、たちまち

「いや、でもほんの少ししか居なかったから」
「あ、でもずっと昔のことだから・・・」

などと相手に言い聞かせる。
いや、そうせざるを得ない状況を社会が作っている

「帰国子女」というカテゴリーに認定されてしまった瞬間、その人は「英語ができる」というレッテルを一方的に貼られてしまう。

「隠れる」ということは、自らの過去をなかったことにすること。
自分が通ってきた道を、乗り越えてきた苦難を、誇りに思わないということ。
それは、あたかもずっと日本に居ました、という風に自分を投影すること。

本来ならば隠す必要のないものなのに。

帰国子女ならば英語ができて当然という誤った認識によって、英語ができない帰国子女は、その存在を否定されているのだ。

 

その2 英語を必死に勉強する


帰国子女なのに英語ができない。
そう思われたくない。
海外に何年かいたのに、英語ができないなんて恥ずかしい。

そう思う人は、人一倍努力して英語を身につける

それは、
誰かと会話したい!
自分の将来にこう活かしたい!

というモチベーションじゃない。

できないなんて言えない!
というある種ネガティブな動機だ。

帰国子女は努力しないで英語ができる?

そんなことはない。

帰国子女の「英語」にしか興味がない世間に振り回され、苦しんでいる。

英語を保持し続けることの難しさ。
一方的に流暢であると期待されるプレッシャー。
それらをもっと理解してあげる必要がある。

帰国子女が英語の勉強をしていないと思うのなら、それは大きな間違いだ。

帰国子女で英語ができないことの何が悪い

 

以前の記事でも話したけど、

practicemakesbetter.hatenablog.com

帰国子女だけど英語ができない。
という考え方はもう止めにしよう。

帰国子女という曖昧で、広いカテゴリーの中で、英語ができない人くらい、むしろ居て当然じゃないか。

「帰国子女なのに英語ができない」というのは言ってしまえば、
イギリス人なのに紅茶が嫌い、
ブラジル人なのにサンバが踊れない、
イタリア人なのにコーヒーが飲めない、
というのと何ら変わらない

そんな人が居たって、別になんらおかしくもない。
でも、個人じゃなくて集団で見てしまうと、どうしてもカテゴリーで考えてしまう。
イギリス人ならこうだ。
ブラジル人ならこうだ。
帰国子女ならこうだ。

 

僕も留学先ではよく言われる。

「おりばー!日本人なんだろ!寿司握ってくれよ!」

握り方知らないし。
握りたいって思ったこともないし。
日本人なら誰でもSUSHI作れると思うなよ!?

寿司を握れるようになるまで、一体どれだけの長い道のりがあるのか
それを知らないから「日本人だから寿司握れるっしょ?」という安易な発想になる。

個人のことをもっと知ってもらえばその誤解は解ける。
でも初対面の相手に一方的に「英語ができる」と思われてしまう。
日本国内で常にそのプレッシャーにさらされている。

そんな人たちが居ることに、僕らは気づかなくてはならない。

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photo credit: andrew and hobbes Reaching out via photopin (license)

 

帰国子女で英語ができない?

そんなの別に普通だよ。

恥ずかしがることでも、隠すことでもない。

 

そういう考えを、「常識」にしてゆかなければならない。

 

結論!帰国子女なら英語ができて当然なんて思うな!


これからの時代、帰国子女はどんどん増えてゆくだろう。
英語圏にこだわらず、世界中から羽ばたいてくるだろう。

そんな彼ら彼女らを、英語ができるかできないかなんて狭い視点でしか見ることができないままだと、

その子たちが日本に持ち帰ってくる豊富な異文化交流経験や、多種多様な言語との関わりという日本社会の国際発展を前進させる為の大事な「財産」を、

気づくことなくドブに捨ててしまうことになる。

 

さぁ、改めて心に刻もう。

 

帰国子女で英語ができない、それは普通のことだ。

それとも何か?

君は「日本人なのに寿司も握れないのかい?」

 

 

では、僕から以上っ!!

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