「アジア人」という言葉で差別を考えていいのだろうか?
あじあじん
どーもー、おりばーです。
先日、フェイスブック上で知人がシェアしていた記事がとても気になった。
今日はこの記事を軸にして、
「アジア人」という言葉を使うことの問題点、
そして差別を訴える為に他の差別を生み出す危険性について一緒に考えて見よう。
記事の内容について
ユナイテッド航空における「アジア人」男性の引きずりおろし事件を起点に、米国における「アジア人」への人種差別について丁寧にまとめてある。
興味深い記事なので、是非読んでみてね。
「アジア系」の見た目に生まれた人が遭遇する差別については僕も同感。
#thisis2016についての記事でも似たテーマのことを書いた。
practicemakesbetter.hatenablog.com
"Asians" とひとくくりにされて、バカにされる。
見た目で判断されて、偏見やステレオタイプを押し付けられる。
筆者の「アジア人は結局、米国で差別されているのか」という問い。
それに対する僕個人としての答えは、「はい」。
差別を体験したことなんて数えきれないほどあるし、現在の留学先でも似たようなものだ。
僕が「アジア系」の見た目で無くなることなんて一生ない。
何年英語圏に住もうが、第一印象では "Asian" なのは一生変わらない。
「アジア人」という言葉
内容には賛同するけど、記事を読んでいる中で物凄く気になったことがある。
人種について問題提起する一方で、「アジア人」という言葉については特に説明がない。
文化も慣習もまったく違うバックグラウンドであっても、「アジア系」はアメリカでは一くくりだ。
とアメリカ社会における大雑把なカテゴリー化を批判しつつも、筆者は文中で当然のように「アジア人への差別が~」と述べている。
差別の現状を訴えている一方で、筆者自身もその言葉の枠組みに囚われてしまっている。
アメリカには、「マイクロアグレッション」という言葉がある。
これは自分とは異なる人種・文化背景の相手に対して、発言者が相手を傷つける意図なく、発した言葉の中に人種や文化に対する偏見や差別が含んでしまうことによって起こる「些細な攻撃」を指す。
筆者の記事も一種のマイクロアグレッションになりかねない。
つまり、筆者は悪気があるわけでは全くない。
でも、文章の組み立て方、論じ方がすでに「アジア人」という枠に頼ってしまっている。
差別を訴える過程で、自らもそのカテゴリー化をしてしまっているのだ。
日本
中国
韓国
インド
マレーシア
シンガポール
ネパール
ベトナム
モンゴル
タイ
インドネシア
などなど、アジアと一言で言っても様々。
1つの国の中でさえ文化や慣習が地域や地方でまるで異なるのに。
これらのあらゆる国の人を全て「アジア人」にまとめてしまう。
全然違う人たちのことを、まるで同じであるかのように扱ってしまう。
それは、僕自身も含め、多くの人が無意識にやってしまっていること。
「アジア人への差別が~」と言う前に、その「アジア人」に含まれる僕ら自身が、いま一度その言葉の意味を考えてみた方が良いのかもしれない。
悪意のないマイクロアグレッションのようなものであれ、直球な差別的発言であれ。
差別が存在する事実を否定するつもりは一切ない。
でも、そんな差別の「被害者」という立場で話をする前に、自分たちの使っている言葉にももっと注意を向けるべきではないだろうか?
「アジア人」と何の疑いもなく使うことで、自らそのカテゴリーを受け入れてしまっている。
僕ら自身が差別を再生産してしまっている。
差別を訴える過程で他の差別を生み出すな!
また同様に。
差別への声を上げる過程で、他のグループへの差別を生み出してはならない。
僕はこの記事のYahoo!ニュース版のコメント欄を見て、心底ガッカリしている。
「白人の国では差別が多いね」
「白人はすぐ差別するので嫌いです」
※あくまでも記事本文ではなくYahoo!ニュースのコメント欄の内容。
などと言ったコメントが(4月21日現在)多くの共感を集めているようだ。
人種差別とは、個人を見ずに、まるで全員に共通する特徴があるように決めつけること。
偏見で人種・民族全体を判断して、差別してしまうこと。
ならば、これらのコメントは人種差別そのものではないか。
「アジア人」への迫害や差別を訴える過程で、「白人」への差別を生み出している。
これでは全く意味が無い上に、健全な議論になるはずがない。
「アジア人はみんな〇〇だ」
という差別的な扱いが気に入らないからと言って、
「白人はみんな〇〇だ」
なんて言い返していたら意味なんてないよ!
「アメリカ人ってレイシストばっかりだよね」
という発言がそもそもレイシズム(人種差別)だという事に気づくべきだ。
見た目の違いは無くならないけれど
差別に立ち向かうことは大切なこと。
SNSやデモ運動などを通して、人々の人種への考え方もどんどん敏感になっている。
だからこそ、「黒人」「白人」「アジア人」という発想をそろそろ辞めるべきではないだろうか?
そこに何の違いもない!なんて話では無い。
どれだけ人種差別に反対したとしても、見た目の「違い」があることは認めざるを得ない。
大事なのは、その見た目に対して特徴や価値を関連づけないことだ。
「黒人は低所得者や犯罪者が多い。」
「白人は人種への意識が低い特権階級だ。」
「アジア人は結局は白人には敵わない。」
そういう発想を辞めなければならない。
見た目の違いは確かに存在する。
でも、その「見た目」に特定の価値や優劣を与えるのは僕らの社会・メディア・教育。
見た目の違いは見たら明らか。
でも差別は学習されてゆくもの。
「黒人」に犯罪者が多いと思うのも、「アジア人」が「白人」より劣等だと思うのも。
どれも生まれた時から備わっている感情ではない。
学び、受け継がれていくものだ。
だったら、「アジア人」という言葉を見直す時なのではないだろうか?
「アジア人」というカテゴリーに属する僕ら自身がその言葉を無条件に使ってしまっている、その現状を変える時ではないだろうか?
「アジア人」なんて人種はないんだ。
「アジアン」なんて言語は存在しないし、「アジア」全体に共通している文化もない。
差別と闘う過程で、自ら差別を再生産してはいけない。
ましてや、他の差別を生み出してもいけないんだ。
結論!差別を訴えるなら自らの言葉にも注意しよう!
東洋経済オンラインの記事の内容が間違っている!と言いたいんじゃないんだ。
大事な点を話題に上げているし、良くまとまっていると思う。
でも「アジア人」という言葉を平然と受け入れてしまっていては、僕らは差別され続けるだろう。
差別と闘ってゆくのならば、まずは自分たちの使う言葉から見直してもいいんじゃないかなって。
そう、思ったのでした。
そして、アメリカでの差別うんぬんよりも、「白人はレイシストだ」なんてナンセンスな意見が共感を集めている現状の方をもっと問題視すべきだと思うんだけどな~。
では、僕から以上っ!!