帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

パンが「日本文化」になれない理由

本日のテーマ
朝はパン、パンパパン♪

 

どーもー、おりばーです。

 

www.huffingtonpost.jp 

道徳の教科書における「パン屋」を「和菓子屋」に変更というニュース。
かなり話題になってるね。

教育に関わる者として、日本の外に居る僕も、このニュースには色々と思うところがある。

でも、僕には政治に関する知識も、日本の歴史に関する知識もあまりない。
帰国子女が日本のことを知ったように語るな!
なんてお叱りを受けるかもしれない。

だからこそ、自分の研究分野の「文化」グローバル化いう観点から、自分なりに今回の件について考えてみようと思う。

どうして「パン」が「和菓子」になったのか?


「違い」の中でしか「文化」を定義できないことの危険性
文化の独自性、純粋性を求めざるを得ない「国家」というものの存在

そして、グローバル化の進む現代において、今までの「文化」の考え方にどのように向き合えばいいのかについて、一緒に考えてみよう!

 

 

パンこそ日本の文化だろ!という真っ当な批判

 

僕の両親は僕が小学生のころから共働きだ。

忙しい朝からお米が炊けているなんてことは滅多になく、基本的に朝食はパン。
ヤマ○キ春のパン祭りで当たる「白いお皿」が、我が家には溢れている。

現在留学中の国においても、惣菜パンのお店の看板には "Japanese Bakery" の文字。
あんぱん、メロンパン、焼きそばパン。

パンが日本の食卓の身近にあり、尚且つ独自の成長をとげていることは明らか。

でも、こんなにパンを食べているのに、日本の文化として認めないなんて!
という批判は、今回の件に関してはあまり適切ではないと思う。

というのも、
どれだけ身近にあろうが、何枚パンを食べようが、実はあまり関係がないんだ。
和菓子とパンの消費量や生産量の比較は重要ではない

 

「文化」に「独自性」を求めてしまう

 

文化理論の権威である Stuart Hall(スチュワート・ホール)。
彼は従来の「文化」への考え方について、次のように批判した。

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https://www.theguardian.com/politics/2014/feb/10/stuart-hall

"The object of Cultural Studies ~ is to bring forward the distinctive and unique, often peculiar, experience of a social group" (1983, p.32)

(従来の文化研究は)「独自性」「特有性」、そして時には「奇妙な」、人々の活動や経験に焦点を当てることを目的としていた。

Hall, S., Slack, J. D., & Grossberg, L. (2016). Cultural Studies 1983 : A Theoretical History. Durham : Duke University Press, 2016.


僕らは「文化」という言葉を思い浮かべるときに、無意識に「日本固有の」「日本独自の」 という考えをしてないだろうか?

文化とは、人々の生き方、生活そのもの。

国境や人種が一つの「文化」を共有しているという発想にそもそも無理がある。

日本に住む人はみな同じ「文化」を共有しているか?
日本人ならば全員同じ価値観や考え方をしているのか?

冷静に考えれば、そんなことが有り得ないことくらい、すぐに分かる。

地方と都会でも異なるし、関東・関西でも異なることだろう。
関西ではこうでも、関東ではこう。
日本ではこうなのに、フランスではこう。
違いを面白おかしく、「奇妙なもの」として取り上げるテレビ番組があふれている。

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テレビが日本人をダメにする『世界の日本人妻は見た』出演拒否された友人の話

個人の行動でも「文化」という言葉を使うと、その国の全員に共通した特徴として見てしまう。

国籍や人種に特定の「個性」を当てはめることに無理がある

それでも、僕らは「文化」という言葉を国単位で使ってしまう。
そしてその国を特徴づけるものとして、広く一般化してしまう。

 

「文化」を「違い」の中でしか認識できない

 

どうしてパンは日本文化になれないのか?
その理由は簡単。

日本以外の国でもパンを食べているからだ

文化に独自性・特有性を求めた結果、僕らは文化を「違い」の中でしか認識できなくなっている

アメリカ文化と違う点はどこか。
日本にしかない文化は何か。

他との対比でしか文化を語れなくなっている。

「日本の文化」を考えるときに、僕らは無意識に他との比較をしてしまう。
「日本にしかない」、「アメリカとは違う点」という考え方をしてしまう。
文化の共通点よりも、相違点にばかり興味を持ってしまう。

 

今の僕らの生活を想像してみよう。

僕らはスーツやネクタイを着て、皮製の靴を履く。
iPhone を片手に、洋楽や、英語の歌詞が混じった Jpop を聞く。
昼食はおにぎりやお茶に限らず、紅茶にコーヒー、サンドイッチやパスタ。

僕らの日常は、「日本独自」じゃないものにあふれている。

「文化」が人々の暮らしのあり方だとするならば、スーツやパスタだって身近な僕らの文化だ。

当然パンだってそう

 

「独自性」「他との違い」にこだわる必要なんてあるのだろうか?
起源がどこであれ、僕らは毎日のように多種多様な文化を許容しているのに。

一方で、その「日本特有の」にこだわらざるを得ないものが存在する。

それが「国家」だ。

 

独自性を求めざるを得ない「国家」という仕組み 

 

今の時代において、人、モノ、アイデア、金、あらゆるものが国境を容易く越える。

でも、国境に縛り続けられるものがあるとしたら、それは「国家」だろう

あらゆるものが国という縛りにとらわれず飛び交う時代において、国家」は人々を何らかの方法で団結させなければならない

「日本人」として、まとめあげなければならない。
僕らは「日本人」であって、他の国の人ではないということを示さなければならない。

何が「日本人らしさ」なのか。
何が「日本」を他の国と分けるのか。

それを考えていかなければ、「国家」は成り立たないんだ。

日本人にのみ認められる権利、日本に住む「外国人」には与えない権利。
内と外を分ける何かがないと、「日本」という国が成立しない。

「日本人らしさ」を決めることに、「国家」は常に必死になっている。

そうしたときに、教育に「国家」の思想が反映されることなんて、歴史的に見ても良くあること。
(良いことかどうかは関係なく)

 

「パン」が「和菓子」に変えられたのは、
「パン」が「国のイメージして欲しい日本像」に合わなかったからではないだろうか?

それが出版会社側の意図であったとしても、検定教科書という形で審査しているのが「国家」ならば、どちらの責任かなんて議論に意味は無い


「国家」はいつだって「日本人」を定義しようと必死なんだ。
「純粋な日本人」「純粋な日本文化」を求めて必死なんだ。

でも、外からの影響を一切受けず、日本という国境の中でのみ存在する「文化」なんて、本当にあるのだろうか?

 

Cultural Purity (文化の純粋性)

 

Cultural Purity (文化の純粋性)という言葉がある。 

文化に純度を求めて、ほかとの区別化を図る。
文化の「ろ過作業」とでも呼べばいいのだろうか。

この発想の元だと、「純粋な日本文化」に当てはまらないものは、たちまち「不純物」となる。 

パンやアスレチックは日本文化に適さない「不純物」。

「純ジャパ」という言葉だって似たようなものだ。
日本の外で何かを得るということは、「日本人」としての純度を下げること。
帰国子女も、海外住まいの人も、みな「不純物」。 

「不純物」を取り込んでしまった以上、もう僕らは「純粋な日本人」には戻れない。

そんな考え方が無茶なのは明白なことだ。
時代遅れな考え方だと言い切ってもいいだろう。

でも、「国家」はそんな時代遅れな発想にすがるしかない。

グローバル化が進み、人々が国境や人種を乗り越えて関わりあう一方で、その流れに押し潰されまいと「国家」は逆にナショナリズムを推し進める。

だって、国境の意味が無くなってしまっては、「国家」の意味も無くなってしまうのだから。

 

和菓子には何の罪もない

 

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最後に。

時代が変わって、パンが身近なものになっても、それは和菓子を否定することにはつながらない
毎日着物を着なくなっても、着物というものが日本人にとって大切なことであるのは変わらない。

夏祭りの日、年に一回だけ戸棚の置くから着物を取り出すときのあの高揚感。
あの特別な気分があり続ける限り、着物や和菓子というものの「価値」は変わらないと思う。

その気持ちは、パンを何枚食べたところで、毎日スーツに袖を通したところで、変わらない。 

パンの重要性を主張するために、和菓子を批判するようなことになっては意味がない。

 

結論ってほどのものはないんだけど・・・

 

「伝統」って、なかなか難しい。

人々がそれに価値を見出し、後世に伝えてゆく努力をしてゆけば、「伝統」は途絶えない。
でも、グローバル化による急激な生活様式と価値観の変化によって、「伝統」が途絶える危機にあることも事実。

それを国が「道徳」という形で子ども達に教え込み、評価することが正しいとは思えない。

でも、国が必死になって「日本らしさ」を定義しようとしていることには驚かない。
そんなのは日本に限らず、世界中で起きていること。

大事なのは、どれだけその事に僕らが気づいて、声をあげられるか。
今回ここまで大きな反響を呼んでいる点を見て、僕は少しホッとしている。

よく分からないからって、無関心でいることが、一番危険。
分からない ≠ 考えない。

 

僕だって、何が言いたいのかよくわかってないけど、自分なりに考えてみた。
答えもないし、まとまってない。

だからこそ、みんなの意見も聞きたい!
もっと議論されるべき!
そしてそんな議論から学びたいと、そう思うわけです。

 


僕は純粋に、今とても和菓子が食べたい。
十万石饅頭が大好き。
誰か送ってちょーだい。

 

では、僕から以上っ!!

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