帰国子女の悩みドコロ

帰国子女の悩みドコロ

帰国子女にだって、悩みくらいあるもんだ。そんな自身の悩みを学問として追及していたら、大学院にまで来てしまったというお話。

帰国子女のことも褒めてあげて下さい。

本日のテーマ  
「あの子は、ほら、帰国だから」

 

どーもー、おりばーです。

気付けば夏が終わり、秋が来たかと思えば、一気に冬になるのかってくらいの寒さ。
大型の台風もあったりなんかして、色々と調子が安定しない。

この、なんだか落ち着かない10月~11月頃にやってくるのが、定期テスト

そんな定期テストにおいて、僕自身が生徒の頃から疑問に思っていたこと、というより、心にずっと引っ掛かっていたことがある。

それは、「英語」という科目において、「帰国子女」が良い点を取った時の周囲の大人の反応だ。

 

「○○先生、この生徒さん、98点取ってますよ。
テスト難しく作ったのに、いや~、最近よく頑張ってますね!」

「あ、A子ちゃん?あ、あの子はほら、帰国だからさ・・・。
でも、隣の組のB君は"純ジャパ"なのに94点よ!すごいね~!」

 

そんなやり取りが、学校や予備校でされていないだろうか?

"純ジャパ" という言葉については何時かしっかり話すとして・・・。
今日のテーマは、「帰国子女のこともちゃんと褒めてますか?」ということについて、教師・保護者の二つの観点から考えていきたいと思う。

 

 

教師に褒められない帰国子女

 

「あの子は帰国だからさ・・・」

 

「帰国」だからなんだと言うのだろう?

帰国だから褒めるのは勿体ない?
帰国だから英語が出来て当たり前?
帰国だから「頭が良くて」当たり前?

帰国子女ならば、英語に関しては褒めなくて良い。
出来て当たり前で、テスト勉強なんかロクにしなくても満点近く取れる。
授業なんて全く聞かなくても、試験前にちょちょっと勉強すれば大丈夫。
いつ帰って来たとか、どこから帰って来たとか、そんなことは関係ない。

帰国子女なんだから、英語なんて出来て当然でしょ?

そう言いたいのだとしたら、申し訳ないけどあなたは「帰国」のことを何も知らない。

周囲の生徒に比べて「苦労が少ない」から褒めなくて良いとでも思っているのだろうか。

帰国子女にだって、色々な人が居るし、色々な背景や事情を各個人が抱えている。
英語が得意な人、英語圏から来ていない人、日本人学校に通っていた人、幼い頃に帰って来た人、向こうでの生活に馴染めなかった人、などなど。
それらを一緒くたにして扱い、全員が英語が出来て当たり前だと思うのはあんまりだ。

practicemakesbetter.hatenablog.com

 

そして、

仮に英語が得意な生徒だとしても、得意なら褒めなくて良いのだろうか?

おそらく、「頑張らなくても点が取れる」という思い込みがあるのだろう。
成績が平均して高い生徒は、元々の「能力」が高いから良い成果を上げているわけではない。
多くの教師は伸び率の良い生徒に感動や成果を感じることが多いと思うが、良い成績を維持することの難しさというものを考えたことがあるだろうか?

「帰国なんだから英語くらい出来て当然でしょ」

直接生徒にそう言わないにせよ、その周囲から伝わる暗黙のプレッシャーが生徒にどれだけの負担をかけているのか、考えたことがあるだろうか?

「出来て当たり前」を押し付けるということは、そこで失敗したら「当たり前が出来ない」という烙印を押されることになる。
海外から帰国して、居場所を模索して、日々の生活の中で様々な文化や人間関係の調整を繰り返している生徒に対して、憶測でプレッシャーを課していいものだろうか。

帰国子女のことも、ちゃんと褒めてあげてください。

 

保護者に褒められない帰国子女

 

大学院での帰国子女研究において分かった事があるとしたら、帰国子女とその保護者の関係と言うのは、子ども側の成長や自尊心に絶大な影響力を持つということだろう。

国や地域、学校やクラスを転々とする帰国子女にとって、長期間の継続した関わりを持ち続けるのは基本的に家族だけだ。
親・兄弟との関わりが帰国子女の成長過程に大きな影響をもたらすということは様々な研究ですでに明らかになっている。

特に注目すべきが「帰国子女の保護者は教育熱心である傾向が高い」ということだ。

海外からわざわざタイミングを考慮して日本に戻った以上、海外での経験や学びを無駄にして欲しくないと願う親は多いだろう。

教育熱心なこと自体は問題では無いのだが、親から過度な期待をされて、息苦しい思いをしている帰国子女も多いのではないだろうか?
そして、いつしか親自身も、「この子は英語が出来て当然」と思ってしまってないだろうか?

英語の成績が良くても一切コメントせず。
他の成績がイマイチの科目に対して説教をする。
英語の成績が少しでも良くないと、また説教をする。

子どもの「出来ていない点」を指摘することに時間を使いすぎて、「出来ている点」を見落としてはいないだろうか?

 

僕自身、ずっと英語の成績は学年トップで当たり前だと親に教え込まれてきた。
いや、言葉で教え込まれてきたというより、態度を通して自ずと感じる様になった。
少しでも点数が伸び悩むと、酷く叱られ、自分の情けなさに嫌気がさした。
「英語すら出来ない自分なんて・・・」
親を見返そうと必死に英語のテスト勉強をして、念願の満点を取った時も、通知表を見た親は英語には見向きもせず、平均並みの成績だった数学のことを叱り始めた。

 

「出来て当たり前」

そう思ってしまった途端に、人はそのことを見なくなってしまうのだろう。
出来て当然のことならば、いちいち見向きをする必要もないのかもしれない。
赤ん坊の頃は、ちゃんとスプーンを持てただけで褒められる。
それが大きくなってゆくにつれて、「出来て当たり前」になってゆく。
そうなると、スプーンの持ち方が変だったり、食べこぼしが多かったりすることは、「当たり前が出来ていない」ということで叱られる対象となり、その行為が正しく行われている時に褒める様なことも無くなる。

 

帰国子女にとっての英語も、そうなのだろうか?


皆がそうだと言うつもりはない。
けど、僕は英語の成績を維持することがプレッシャーで、苦痛で、とても辛かった。
努力して成績という数値で報われたとしても、教師や親からは一言もない。
「息を吸って吐くように英語が出来る」と周囲に思われている一方で、帰国してから年月が経つにつれて明らかに英語が自然と出なくなっている自分に焦りを覚えた。

このままでは、「出来て当たり前」が出来ない人になってしまう。
僕から英語を取ってしまったら、もう何も残らない。
そう思った僕は、叱られないために英語の勉強を続けた。

 

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褒められたかった。
「今回もよく頑張ったね」の一言でも良い。
それを言われることがあの頃の僕にとってどれだけ大事だったかを、大人たちは知らない。

得意科目であれ、元々上手なことであれ、関係ない。
たった一言で良い。

帰国子女のことも、ちゃんと褒めてあげてください。

 

「出来て当たり前」じゃないんだ

 

褒めることって、決して簡単では無い。
褒め方も、タイミングも、その効果を大きく左右する。
あれもこれも、褒めれば全て良くなるわけではない。

だからと言って、褒める努力を大人側が放棄してはいけない

「出来て当たり前」だと思って、褒めることすら視野に入れてない。
そんな大人に囲まれることで、その「出来て当たり前」は本人が自らに言い聞かせるプレッシャーへと形を変え、追い込んでしまう恐れがある。

 

だから、帰国子女のことも褒めてあげてください。

「たまに」で良いんです。
たまにで良いから、帰国子女のことも褒めてあげてください。

 

僕から以上!